水曜日は、日曜日の礼拝のメッセージをお届けしていますが、今週は「信徒礼拝」でした。
2025年度の
年間テーマ
「お言葉どおりこの身になりますように
~われ弱くとも恐れはあらじ~」
年間聖句
「恐れるな…神には、
何でもできないことはありません。」
(ルカによる福音書1章30.37節)
「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。
あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
今日は「牧師」ではなく、「ひとりの信仰者」としてお話させていただきます。
今日のみ言葉は、洗礼を受けた時に牧師から贈られた言葉です。
正直言って、その時はあまり心に残らなかったのですが、それから40年余り過ぎて、イエスさまのこのお言葉は本当に真実であるということを実感しています。
神さまを求め始めたきっかけ
まず、私が神さまを求めるようになったきっかけの話をしたいと思います。
小学校4.5年の頃、同級生のお父さんがなくなりました。担任の先生が、クラスでそのことをお話されました。
初めて、「死」という言葉を聞きました。
親が死んでしまったら、どうやって生きて行けばいいのだろう。
末っ子で親べったりの甘えん坊の私は、とても恐ろしくなりました。
そして、いつか人は必ず「死ぬ」ということを意識し始めました。
高校生の時に、飼っていた犬の「チロ」が死にました。目の前で息を引き取りました。
悲しくて悲しくて、その日はテストだったのにも関わらず、学校を休んでしまいました。
それから、ますます「死」が「永遠の別れ」を意味するものだと思うようになりました。
そろそろ、進路を決めなくてはならない時でした。
私たちの年代は、「三無主義」(無気力、無関心、無責任)と言われた世代です。
時代のせいにしたくはないのですが、将来の「夢」も学びたいと思う興味を持つものもありませんでした。
そればかりか、「やがて人は皆死ぬのに、何のために勉強し、何のために生きるのか」というむなしい疑問が頭の中をぐるぐるしていました。
いつしか、勝手に「自分は24歳になったら死ぬ」というような「妄想」まで描き始めました。
それでも、なんとなく偏差値だけで決めた大学を受験しましたが、ろくに勉強もしなかったので落ちました。
「死」の恐怖におののき、「夢」も「希望」もなく、青春時代を過ごしました。
生きられそうな道を探して
その後予備校に通いましたが、目標は定まらず勉強も手につきませんでした。
でも、いろいろな本を読んでいました。
その中に、遠藤周作の「聖書の中の女性たち」という本がありました。
子供の頃、日曜学校(教会学校)に通っていましたが、その頃は教会には行っていませんでした。
でも、なんとなく聖書の中に登場する女性にあこがれました。
そして、「看護師」になろうと思いました。
漠然とでしたが、看護師が「崇高な存在」に思えたのです。
しかし、実際に看護師になってみると、あこがれの「看護師像」と自分の姿のギャップに失望せざるを得ませんでした。
それがきっかけで、キリスト者となりました。26歳の時でした。
23歳のころから、再び教会に通い始めていたのです。それから、教会でいろいろな事を学びました。
神さまが導いてくださっていた日々
看護はやりがいがあり、「天職」だと思いました。
しかし、一度看護師をやめました。
26歳の時に結婚した夫と一緒に、自給自足の生活を夢見ていたからです。
農業のまねごと、養鶏のまねごと、パン屋のまねごと…いろいろなことをしてきました。
けれども、ぜんぶ「まねごと」で終わりました。自給自足の生活は、そんなに甘いものではありませんでした。
しかし、やりたいことは全部やってみましたから、後悔はありません。
それぞれの親が何も言わず、私たちの夢を見守ってくれたことをありがたく思います。
そうこうしているうちに、夫の父ががんでなくなり、母が一人暮らしになりました。
その翌年、夫が過労で病気になってしまいました。もう、肉体仕事は難しくなりました。
今から思うと、神さまからのストップだったのでしょう。
それで、夫の実家に「転がり込み」ました。そして、再び「看護師」として働き始めました。
主はわたしを「あしらわれる」
*詩篇13篇1.5.6節
「主よ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。…
関西に引っ越してからしばらくして、この教会に通い始めました。
そして、「祈祷会」でこの詩を読んだとき、まさに自分の気持ちとぴったりだなと思いました。
この詩は、こう続きます。(5.6節)
「…しかしわたしはあなたのいつくしみに信頼し、わたしの心はあなたの救を喜びます。
主は豊かにわたしをあしらわれたゆえ、わたしは主にむかって歌います。」
「あしらう」という言葉は、私が大好きな言葉です。
これは、「鼻であしらう」というような冷たい意味ではありません。
「花をあしらう」ように、神さまが私の人生を美しく彩ってくださり、すべてを「良い(佳い、善い)ものにしてくださるという意味です。
過去のいろいろな出来事も、失敗も、悩みも、人生の「彩り」として経験させてくださったのだと思いました。
30代から50代までは、看護の仕事と夫の母の介護に追われる日々でした。
40歳の時には、あの阪神淡路大震災を経験しました。
でも、その日々を支えてくれたものがありました。それはやっぱり、聖書のみ言葉でした。
主のみ言葉が、生きる支えとなった
まさに、イエスさまのお約束は真実でした。
「あなたがたは、この世ではなやみがある。
しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」
今までの人生を振り返ると、いつしか「死」を怖れることがなくなっていました。
イエスさまが死をも克服して、この世にはもう何も怖いものはないようにしてくださったのです。
この事を、何よりも感謝しています。クリスチャンになって一番よかったのは、このことです。
お金持ちになるよりも、有名人になるよりも、このことが一番うれしいです。
そればかりか、その折々に礼拝や祈祷会で神さまのお言葉が示されて、助けられました。
人間関係で苦しんだ時も、職場や組織のことで悩んだ時も、義母の介護で大変だったときも、神さまが「知恵と真理の言葉」をもって導いてくださいました。
その時はわからなくても、後になってわかったこともありました。
特に、祈祷会で読んでいた詩篇の言葉には励まされました。
仕事でどんなに疲れていても水曜日の夜に教会に行き、讃美を歌い、詩篇を読み、そして祈ると不思議な力が湧いてくることを感じました。
最後に、私が慰めと励ましとさとしと希望を与えられたみ言葉を分かち合いたいと思います。(他にもたくさんありますが…)
*詩篇16篇11節
「あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜び、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。」
*詩篇18篇28節
「あなたはわたしのともしびをともし、わが神、主はわたしのやみを照されます。」
*詩篇19篇7節
「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。」
*詩篇37篇1.7節
「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。…
主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。」
これから、どのようなことが起こるかわかりませんが、死を超えた永遠の御国を見させていただく日を楽しみにして、皆さんと一緒に神さまの愛のうちに過ごしていきたいと思います。
【黙想・祈り】
天の父なる神さま。小さな者をかえりみていてくださり、あなたの愛のうちに置いてくださっていることを感謝します。どうか、これからの日々をみ心にかなう生き方ができますように導いてください。証しの中でみ心にかなうものだけが、皆さんの心の中に残りますように。そして、あなたのみ名があがめられますように。イエスさまの御名によって祈ります。アーメン。
派遣の言葉(ローマ人への手紙15章13節)
「どうか、望みの神が、
信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、
あなたがたに満たし、
聖霊の力によって、あなたがたを、
望みにあふれさせて下さるように。」
アーメン。

