水曜日は、日曜日の礼拝メッセージをお届けしています。
今週は、主イエス・キリストの「復活日(イースター)」の礼拝でした。
(ヨハネによる福音書11章25.26節)
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2025年度の
年間テーマ
「お言葉どおりこの身になりますように
~われ弱くとも恐れはあらじ~」
年間聖句
「恐れるな…神には、
何でもできないことはありません。」
(ルカによる福音書1章30.37節)
(一部だけ載せます)
1 週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。
2 ところが、石が墓からころがしてあるので、3 中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。
4 そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。
5 女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。
6 そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。
7 すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。
はじめに~主の復活を聞いた人の恐れ~
主が復活された朝、イースターです。金曜日に十字架につけられてなくなったイエスさまがよみがえられた!
これは、イエスさまに希望を置いていた人たちにとったらうれしい知らせに違いありません。
しかし、マタイ、マルコ、ルカの三つの「共観福音書」は、女性たちがみ使いからイエスさまの復活の知らせを聞いた時に「恐れた」と伝えています。
*マルコ16:8
8女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。
「恐れ」は、新共同訳では「畏れ」と書かれていますが、「恐怖」「畏怖」どちらともとれる言葉です。喜びの知らせのはずなのに、不思議です。
今日は、なぜ彼らがこのうれしい知らせをすぐに喜べなくて「恐れた」のか、そんなことを考えてみたいと思います。
神を恐れる(畏れる)ということ
ざっくりと、当時のユダヤ人たちが神さまのことをどのように教えられ、考えていたのかを見てみたいと思います。
*申命記10:12.13
12 イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。
すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、
13 また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。
唯一の神である主を恐れる(畏れる)ことが親から子へ、子から孫へと脈々と伝えられ、「民族の血」に染みついていました。
ユダヤ人にとって「律法遵守」が神の至上命令であり、「律法違反」は神の裁きにつながるのでどこかビクビクしています。
しかし、そもそも神の民イスラエル―ユダヤ人―は、神さまに愛され、特別に選ばれた「愛」の対象です(申命記7:6~8)。
「律法」は、神さまがご自分の民が愛のうちに歩むために教えられた「掟」です。
イエスさまはそのことを、ユダヤ人に指摘し続けました。神さまが「愛の神」であることを説き続けました。
そして、イエスさまはユダヤ人が「恐れ(畏れ)」ていた神さまを「アッバ」と呼ばれました。
これは、イエスさまが使われていたアラム語で幼な子が父親を呼ぶ言葉、「おとうちゃん」「パパ」という意味です。
ユダヤ人たちは、神さまを「畏れる」あまり、神聖なる神さまの名を口に出すこともしませんでした。
律法学者や祭司たちは、そのようなイエスさまを神さまへの「冒涜」と感じたのでしょう。
しかし、彼らは神さまにどこかよそよそしいのです。
そして、神さまの愛に信頼することよりも、裁きに対する「恐怖」がいつも心のなかにあったのではないでしょうか。
さて、天使の話を聞いた女たちがどうしたかといいますと、
*ルカ24:8~12
8 そこで女たちはその言葉を思い出し、9 墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。…
11 ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。
12 〔ペテロは立って墓へ走って行き、かがんで中を見ると、亜麻布だけがそこにあったので、事の次第を不思議に思いながら帰って行った。〕
あまりに、面目ない弟子たちの姿です。〔カッコ〕は、後の加筆です。あまりに面目ないから、せめてペテロが確かめに行ったという話を付け加えたのでしょうか。
弟子たちは、イエスさまから直接「よみがえり(復活)」のことも聞いています。
彼らこそ手放しで喜ぶはずなのに、なぜイエスさまの復活の知らせをすぐに喜べなかったのでしょう。
それどころか「愚かな話」だと思ったのです。
彼らの合理的な考え、目に見えるものしか認めない思考回路、何よりも残念なことに神さまに対する愛も信頼もなかったからです。
幼い時から神さまの教えである「律法」を聞いていても、そこに流れている「神の愛」を受け止めることがないまま過ごしていたのです。
恐れから喜びに
ところで、共観福音書より30年余り後に書かれたヨハネ福音書は、復活のイエスさまと出会った弟子たちが、「主を見て喜んだ」と伝えます。
*ヨハネ20:19.20
19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
ヨハネは、その福音書で「神は愛である」であることを強調しています。
弟子たちが伝えたイエス伝のうち最後に記されたヨハネ福音書は、特に神さまのみ心である「愛の現れ」としてのイエスさまを強調して描いています。
確かに、最初の頃はイエスさまがよみがえられたというグッドニュース(福音)も、「恐れ」や「不気味」なニュアンスで受け止められたのでしょう。
しかし弟子たちは、復活の主と出会い、さらに「聖霊」に導かれて、徐々に幼い時から聞いていた創造主である神さまが厳しいさばきの神ではなく、
罪をゆるし、守り、支え、導いてくださる愛の神さまであることに気づいていったのでしょう。
弟子たちは、「主を見て」喜びました。私たちは、肉の目で「主を見る」ことはできません。
しかし、主がよみがえられたというニュースを「恐れ」ではなく、「喜び」をもって受け止めたいと思います。
イエスさまは、神さまとどこかよそよそしい関係にあった人々に、神さまの愛を「再発見」させ、神の愛のうちに生きる道を拓いてくださったのです。
「恐れるな…神にはなんでもできないことはありません。」私たちの年間聖句です。
神さまを正しく畏れ敬い、神さまを愛し、神さまに甘え、神さまの恵みのうちに過ごしていきたいと思います。
。
【黙想・祈り】
父なる神さま。あなたの愛と恵みを感謝します。あなたの愛に気づかせるために、ひとり子イエスさまを十字架にかけて犠牲にされたことをしっかりと心に刻ませてください。そして、私たちを新たにし、あなたに愛されている子供としてあなたの眼差しを感じながら、あなたの愛と恵みのうちに平安に喜んで生きる者とさせてください。イエスさまの御名によって祈ります。アーメン。
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長いメッセージをお読みくださり、ありがとうございございました。
考えてみますと、キリスト教は「イエスが死んでよみがえった」ということを宣(の)べ伝えます。これが「救い」だからです。
病人をいやしたり、悪霊を追い出したり…それも人々の「救い」ですが、それでもやがていつかは皆、しんでしまいます。
新約の時代(イエスさま以降の時代)に生きている私たちは、イエスさまによってすべての罪がゆるされているので、もう神さまを恐れる必要はありません。
旧約聖書の神さまは「厳しい」「ザンコクだ」という方がおられます。
神さまの根底に流れる「愛」に気づかなかったら、そう思われるかもしれません。
私たちが「幸いを得る」ために教えられている神さまの言葉をかみしめながら、神さまを愛し、神さまにすべてをゆだね、安心して、甘えて過ごしていきたいと思います。
いつか、イエスさまのお顔を「見る」時が来たら…ちょっと恥ずかしいけど、うれしいだろうなと思います![]()
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ささやかな愛餐会





