【日の蔭(かげ)りの中で】京都大学教授・佐伯啓思 民主主義進展と政治の低下

2009.9.13 02:55

 先ごろの総選挙での民主党の圧勝を受けて政権交代が実現した。多くの人が画期的な選挙だったという。民主党の政権運営や政策実行に、かなりの不安感をもっている人でさえ、「政権交代」そのものは結構なことだという。何が結構なのかというと、政権交代によって民意が政治に反映されるからだ、という。つまり、民主主義の進展だというのである。

 政治に一家言ある一般人だけではなく、政治学者や政治評論家までがこんな議論をすると、私など、ついあまのじゃく根性を発揮したくなってくるのだ。「で、民主主義が進展すれば政治は良くなるの?」と、つい口がひとりでに動いてしまう。誰もが、民主主義が進展すれば政治は良くなると思っている。逆にいえば、今の日本で政治がうまく作動しないのは、民主主義が機能していないからだ、というわけだ。

 民主主義とは、確かに、民意によって動く政治である。しかし、民意というものが人々の顔に書いてあるわけではないから、政党政治のもとでは、政党が政策を示し、それを「民意」が判断する、という手続きになる。そこで、たとえば、二大政党がそれぞれ政策を提示して、人々に選択権を与えれば、民意が反映されたことになるだろう。かくて、マニフェストによる政策選択が同時に政権選択になる、という理屈がでてくる。

 この理屈に別に間違ったところはない。だが、ひとつ重要なことが隠されている。それは、「民意」は必ずしも「国」のことを考えるわけではない、ということだ。むろん、「民意」とは何か、というやっかいな問題があるが、今はそれは論じないことにしよう。民意とは、さしあたりは、多様な人々の意見や利益を集約したものだとしておこう。仮にそう定義しておいても、民意とは、まずは、人々の「私的」な関心事項の集まりなのである。

 そもそも、近代社会になって民主政治が支配的になった理由を考えてみよう。いうまでもなく、近代社会のもっとも重要な価値は「自由」にある。「自由」といえば崇高に聞こえるが、ありていにいえば、人々は自分のことにしか関心をもたず、勝手に利益を追求してもよい、ということであろう。こういう社会では、人々の多様な「自由」=「勝手」を調整するには民主政治しか手がない。

 だとすれば、「自由・勝手・気まま」から構成される「民意」が、はたして「国」の行く末を冷静に考察した結果だなどとするのはあまりに能天気に過ぎるだろう。人々が関心をもつものは、何よりも、自分の身の安全、安定した生活、利得を得る機会である。要するに、身の安全が確保されれば、後は、物価が安く、給料があがり、ちょっと小銭がかせげればそれでよい。確かに、ずいぶんと人をバカにした話に聞こえるが、実際、それこそが、近代社会の政治的了解だったのではなかろうか。近代国家の役割とは、何よりも、人々の生命の安全確保、生活の安定、社会秩序の維持にこそある、というのが政治学の教えるところなのである。この考えからすれば、「民意」が、国家の大計や国の行く末などという「大きな政治」に関心など持つ方が奇妙なことなのである。

 こうなると、二大政党はどうなるか。両党とも、少しでも「民意」の歓心を買おうとするだろう。税金は安い方がよい。さまざまな補助金や手当をつけるのがよい。福祉を手厚くするのがよい。人々の嫌がることはやらず、聞こえの良い公約が並ぶ。かくて、自民党から民主党、共産党にいたるまであらゆる政党が、人々の生活の安定と向上をもっとも重要な争点にする、という事態となったわけである。

 ここで、私はどうしても、最初に、「政治」という観念を、人間の社会的営みの最重要事とみなしたプラトンの意見をのぞいてみたくなる。よく知られているように、プラトンは民主政治に対して懐疑的であった。彼の主張は「哲人政治」といわれるもので、哲学者が政治を行う、あるいは、強力なアドバイザーとなる、というものであった。彼の理屈は簡単である。「政治(ポリティックス)」とは、人々が力を合わせて「善(よ)い国(ポリス)」を作るものである。ところが「善い国」がどのような国であるかを論じることができるのは、ほんのわずかな、りっぱな知識をもった「哲学者」でしかない。大衆は「哲学者」ではありえないのである。

 多くの政治家は、大衆の好みや気質を知っていることをもって「知識」だと思っているが、それは間違っている。人々が「必要としているもの」と「善いもの」は必ずしも一致しない。「人々がほしがっているもの」を与えるのが政治ではないのである。

 「人々がほしがっているものは何か」ではなく、「善い国はどうあるべきか」を政治の基準におく哲学者は、大衆からはもっとも嫌われる、とプラトンはいう。だから、民主政治と哲人政治は容易には相いれないのである。

 「民意を反映することこそが政治だ」とする民主主義者の理屈と、「善い国を作ることが政治だ」とするプラトンの理屈のどちらに言い分があるのであろうか。むろん、われわれは、民主主義の枠組みをはずすことはできない。だが、それが、下手をすれば「政治」というもののレベルをかなり引き下げてしまう、という危険を伴っていることは十分に知っておかねばならないのである。(さえき けいし)



(産経より  転載)