厳しい社会を望む。


だらしなくて、いい加減で、適当で失礼で恥知らずで


いつも「自分自分」の世の中は嫌いだ。


なら、いっそ「厳しい社会」のほうがいい。


今朝の新聞のご意見欄に「電車内の化粧やめて」との記事が


掲載されていた。私も同感である。


何が悪いの!誰にも迷惑かけてないやろ!という声が


聞えてきそうだ。


確かに実害がないかもしれない。しかし


私は電車内で化粧するのは、服を着替えるようなものだと思う。


それならどうだろう?さすがに「いい」といっても


実行に移す人はいないだろう。


結局、自分勝手なのだ。自分都合なのだ。


自分の都合で恥ずかしかったり、恥知らずだったり。


いい加減なものさ。そんな人間の化粧するさまを


見たくもないのに見せられる者の、精神的な迷惑など


考えもしないだろう。


「自由」の履き違え、勘違いがここにある。


昔CMで「常識って言う奴とおさらばした時に


自由という名の切符が手に入る」というのが


あったんだが、まさに「自由」が金科玉条の如く


最重要の価値に祭り上げられてしまって


今、個人の自由を最大限に認めないものは


何であれ、許されざるものと見なされてしまうのだ。



アメリカ型の新自由主義が行き着くところまで行けば


あらゆる行動に対する政府の干渉を拒否する思想が


生まれてくる。


それが自由至上主義、自由絶対主義だという。


中絶する自由、テロ活動の自由、銃を乱射する自由


酒やドラッグに溺れる自由、などを妨げては為らないというような


行き過ぎた自由主義である。




恐ろしいことだ。こんな「自由」至上主義を


受け入れられる訳がないじゃないか。


もし、昭和が今よりもいい時代だった、と


思えるとしたら、今よりも少し「不自由」だったからではないか。


法律に引っかからなくても、人の横暴や無作法、


不愉快な行為などに対して、社会が今より厳しかった


からではないか。


「世間体」を気にすることは、良くないことのように


言われてきたが、そうだろうか。


厳格な宗教感もない日本では、世間の目、世間体こそ


人の行動規範となっていたのではないか。


「人目」を気にしなくなったら、ただの、ケダモノと同じだ。


人々が快適に過ごせるように、


厳しい社会を望む。私はそのほうが不自由であっても


なんぼかマシだと思う。