ティルマン・リーメンシュナイダーの《聖血祭壇》 / 薩摩雅登 著より。同時代の最後の晩餐の例。今まで見てきたものは、おもにプレデッラだったが、フランケン地方に隣接するチェコ・ボヘミア地方には「15世紀の祭壇厨子内に『最後の晩餐』図像が配された例が少なからず認められる。」(p345)。その一つがプラハ近郊のクトゥナ・ホラ(鉱山の意味)という町の聖バルバラ聖堂にある。

: Interior of the Church of Saint Barbara (Kutná Hora)  photo by 

Scotch Mist

CC-BY-SA-4.0

 

以下薩摩氏の著作から。

この町は銀山で栄えた町で、通常ならキリストか聖母マリアを主聖人として左右に鉱山の守護聖人・聖バルバラやボヘミアの守護聖人の聖ファイトを配すのだが、ここに最後の晩餐が配されるのはなぜか? 薩摩氏はフス派の二種聖餐が関係するのではという仮説を述べている。

15世紀冒頭にボヘミアで大規模な宗教改革運動が勃発、指導者ヤン・フスは1415年に火刑に処せられたがその後もボヘミアでは改革運動が続く。その過程で「二種聖餐」という儀式を行う一派が登場した。聖餐の儀式は1215年のラテラノ公会議で確立されたが、そこでは聖職者だけが二種(聖体:パンと聖血:ワイン)拝領を行うことが決められ、俗人は聖体(パン)の拝領だけが認められた。ところがボヘミアでは、キリストの言葉に基づき(最後の晩餐におけるイエスの言葉)俗人にも聖体と聖血で聖餐の儀式を行うことが始まった。カトリック側はバーゼル公会議(1434-35)でフス派にこれを容認、ボヘミアやスロバキアでは30年戦争で敗北するまで「二種聖餐」が公認あるいは黙認されたという。つまりボヘミアにおいては「最後の晩餐」は教義上重要な画像であったので、厨子内に表されたのではないか。

 当時の巡礼の状況を考えると、聖血祭壇のあるローテンブルク市はチューリンゲン・ザクセン地方、ボヘミア地方から、スペインのサンチャゴ(※聖ヤコブ)・デ・コンポステーラまで続く巡礼路の途上に位置していた。サンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼というとフランスからのルートが有名であるが、「この道はドイツからポーランドやデンマークなどへも通じており、ボヘミア地方やザクセン地方からの最も有名な巡礼路がニュルンベルク、ローテンブルク経由の道であった。その路上においてローテンブルクは聖ヤコブを町の守護聖人としており、その上聖地から伝来したとされる『イエス・キリストの血』を聖遺物として有していたから、スペインへの巡礼路の中で南ドイツ地方の重要なステーションであった。」(p347)

 

以下私見。薩摩氏の仮説は興味深いのだが、一つの疑問は、本当にボヘミア地方から多くの巡礼者が来たのだろうかという点。というのもKatherine M. Boivin『Riemenschneider in Rothenburg: Sacred Space and Civic Identity in the Late Medieval City』,には、ローテンブルクの聖ヤコブ教会を訪れた巡礼者は、ほぼ(数十キロ程度の)近隣の地域に限られていたという記述があったからである。ただ,結果はそうであったにせよ,祭壇を制作する時に,ボヘミア地方の巡礼者を当て込んで…「最後の晩餐」図を採用したということはあるかもしれない。なぜその図像を採用したかという文献は今のところなさそうだから、いずれにしても仮説? リーメンシュナイダーあるいは市の担当者などが日記や手紙に記したものがあれば解明されるかもしれない。

 ボヘミアというとチェコで、南ドイツから遠く離れているような気がするが、調べると約315キロ。遠いと思うが、大聖堂で有名なケルンとは約360キロの距離。 現在の国境で考えると遠い気がするが、当時の感覚ではどうだったのか? 特に文化面のことは何も知らないに等しいので、いまのところ地図を眺めているだけだが。

Kepler Saint Empire 1600 travail personnel (own work), d'après File:Holy Roman Empire ca. 1600 NASA.gif sur une base File:Saint Empire 1620 fr.svg
作者  

Denys, base : User:Thomas_Grollier

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最後の晩餐図について。キリストが中心にいて、ユダは手前にひとり離れて座っている。

いつ頃の制作かわからないが、レオナルドの影響を感じる。特にレオナルドのキリストの向かって左側の、ヨハネ、ペテロ、ユダの3人の顔が並んでいるところと、ボヘミアの(使徒は違うが)ペテロからユダの3人のライン。使徒がキリストに背を向けていたり、はっきりと横顔が見えるところ。手を上げている仕草などもレオナルド風。この一点だけで言うのも何だが、イタリアの影響も感じられる、直接かどこかほかの地域を経由したものかわからないが。