Riemenschneider in Rothenburg: Sacred Space and Civic Identity in the Late Medieval City, Katherine M. Boivin著,Pennsylvania State Univ Pr 2021/5/2 第2章聖血祭壇の続き。

プレデッラの上、祭壇の中核を成す最後の晩餐の部分。

 

 Tilman Riemenschneider artist of the late Gothic Holy Blood altar 

photo by Holger Uwe Schmitt  CC-BY-SA-4.0

この部分については,最も触れられることも多い。

使徒たちは長く狭いテーブルの周りに2つのグループに分かれており、グループの中心にいるのはユダ。彼はお金の袋を握りしめイエスに向かって歩いていく。一般的にはイエスが中心の位置にいるので、ユダが中央にいるのは、特異で明らかに意味のある選択。イエスとユダの斜めにねじれた位置関係が、この場面に実際よりも奥行きが深いという印象を与える。ユダの右足の角度のつけ方は,とどまる印象、一方右手で衣服を持ち上げているのは、左への動きの方向性の感覚を与える。この背反した印象により、ユダが左に向かって進むのかどうかがあいまいになり,見るものをその場に深く引き込む。

 と,以上のようなことは他の研究者の著作でも書かれており、特に珍しいとは思わないが、使徒の頭上の植物のモチーフが、祭壇の中央ケースの階段状の上部ゾーンを、『想像力豊かな混ぜ合わせメランジェ』で埋めるという記述は、Erhart Harschnerの仕事を評価する著者の立場を表わすものと言える。下の画像の、一番上の蔦が絡まっているような部分。

Rothenburg ob der Tauber, St. Jakob, Helig Blut Retabel photo by Tilman2007

CC BY-SA 4.0

また、イエスのすぐ隣の髭のない使徒は観る者のほうに視線を向け、右手で祭壇下方(かつてホストの聖体拝領が展示されていたプレデッラの中央アーチの部分を)指さす。この空間の奥の深さ、凹みを錯覚させるのには,背景の窓が張り出していることも一役買っている。

Heilig-Blut-Altar in St.Jakob in Rothenburg ob der Tauber - Rückseite CC BY-SA 3.0

Kappel für den Heilig-Blut-Altar in St.Jakob in Rothenburg ob der Tauber CC BY-SA 3.0

Rothenburg ob der Tauber, St. Jakob, Heiligblutaltar CC-BY-SA-4.0
3枚とも photo by Tilman2007 

 

この背景図から伺われるように、背面は平らではなく後ろ側に突き出ている。この効果によって実際よりも背景の空間が広がっているように思うのだ。

 ※これについては,写真を見る限り、真正面から見るよりも角度をつけて斜めから見る方が効果的だろうと思う。リーメンシュナイダー関係の文献を見ると,奥行きがほとんどない:浅く感じると書いてあるものもある。それは見る視点の違いか?

 

上記の指摘はそれほど目新しいとは思えないが,Katherine M. Boivinの重要な主張は次のことにあると思う。つまり聖血祭壇の、中央の最後の晩餐の部分は,『教会の内部を彷彿とさせるような空間』を暗示している。それはこの祭壇自体が立っている礼拝堂のミニチュアコピーのようであり,中世の巡礼者が訪れた当時の時空間と、イエスの最後の晩餐の場面をつなぐ役割をする。私なりに言い換えれば、最後の晩餐でのイエスの振る舞いが、あたかも現在行われている聖餐の儀式と,巡礼者にとって時空を超えてつながっていることを実感するように、しつらえられている。それがリーメンシュナイダーとハーシュナーの作り上げた祭壇の重大な機能のひとつだったということ。

 

ミニチュア・コピーということに関しては,上の礼拝堂の天井の写真と一番下の最後の晩餐空間の天井の部分を比較すれば,その類似は明か。実際に礼拝堂の空間に身を置いて,正面の下から仰ぎ見た時にこそ、見えるもの、感じるものがあるのではないだろうか。

 このことは,私が読んだ限りの文献にはほとんど触れられていないことだったので、新鮮。

ただ他の絵画や彫刻作品についての研究では,それが誰の注文で、どのような意図で作られ、どんな場所に設置されたかということは重要視されてきているので,リーメンシュナイダーの祭壇についても同様の視点が必要であろう。

 

 その上で,時代や環境が違うわたしたちにも感動させる何かがあることも事実。その何かをどんな言葉で語ろうか?