Riemenschneider in Rothenburg: Sacred Space and Civic Identity in the Late Medieval City, Katherine M. Boivin著 Pennsylvania State Univ Pr 2021/5/21 より。第1章の 1.The City as Patron。

ローテンブルクの聖ヤコブ教会の「East Choir (東内陣)と呼ばれる部分は,およそ1303年から1350年頃に建設されたものと見られている。」 ローテンブルクでは、1336年にContractが結ばれ、裕福な市民が市の行政に参画できるようになった。それは市民政府がローテンブルクの宗教施設の業務、特に都市の教会空間に対する行政監督を得ることを目的として行われていったが,具体的には、市民政府とドイツ騎士団の間の政治的な争いという形をとるようになる。聖ヤコブ教会の内因が建設されたのは,この政治闘争の真っただ中であったわけだが,実際の建築にそれがどのように反映されているのだろうか? というのが前回。

 

 

 ※ ドイツ騎士団とはどんな集団かということについては、ここでは省略する。騎士と聖職者  

   からなり貴族身分のものが多かった。

 

 以下,上記著作から。

新しいEast Choir (東内陣)の建設プロジェクトに関し,ドイツ騎士団は制度的なパトロンとして,デザインと図像プログラムを担当し多額の資金も寄付したという。そしていわゆる平信徒は直接的には内陣建設キャンペーンの寄付を通じ、また間接的にも教会と騎士団に支払われたお金を通じて費用の多くを負担した。プロジェクトの実行は担当する熟練した職人がに美の事業を管理するという形態だった。

 一方,14世紀には市当局とドイツ騎士団の司祭の間の緊張も高まり様々な論争・紛争がおきて、裁判官による和解案が出された。それは現在係争中の問題と将来の議論について3人のメンバーからなる裁判所の決定に従うことと、さらに重要なことは、騎士団によって指名された一人と、市によって指名された一人の二人のチームが、教会の建物とそのすべての資源を監督することを命じたという点にあった。歴史的にはこれは騎士団のこれまでの支配に打撃を与える最初のステップに過ぎなかった。

 このような中での聖ヤコブ教会の内陣の建設は,行政上の権力がシフトしていこうという時であるにもかかわらず、プロジェクトの設計と実行はドイツ騎士団によって導かれたものである。そのことをKatherine M. Boivinは,ヴュルツブルクのDeutschhauskircheと比較することによって示そうとする。このドイッチュハウス教会はドイツ騎士団の教会である。ローテンブルクの聖ヤコブ教会の東内陣と比較すると,一般的な構成が似ている。特に空間の分節の仕方が似ているという。

聖ヤコブ教会の東内陣

Mittelschiff, Blick nach Osten (2016)Tilman2007 - Eigenes Werk CC BY-SA 4.0

ドイッチュハウス教会の外観

Deutschhauskirche Würzburg, ehemalige Deutschordenskomturei

12345678 in der Wikipedia auf Deutsch - Selbst fotografiert CC BY-SA 3.0 de

教会の内部、オルガンが見える。

Innenraum mit Blick zur Apsis, Baubeginn 1270, Einweihung 1320

 photo by DXR - Eigenes Werk CC BY-SA 4.0

この写真をみただけでは、どこが似ているの? と思うかもしれないが,著作では,天井のヴォールト部分の写真があり、確かによく似ている。壁ゾーンの分割と、天井の飾り(boss 天井のribの交差点に付ける飾り),リブが彫刻された持ち送りから上昇するにつれて、最終的には天井にまで到達する点など。

 似ているか似ていないかということを判断するのは,主観がどうしても入るので、難しいと思うが,中世の基準ではこれら二つの建物の関係は紛れないものだとKatherine M. Boivinは主張するのである。市民の大部分にとってその類似は明らかであったかどうかは定かではないが,少なくともローテンブルクの騎士団のメンバーにとっては,ヴュルツブルクの騎士団教会との親和性は読みやすいものだったと。

 1350年ごろまでに聖ヤコブ教会の東内陣は完成し,教会の次の主要なキャンペーンは,身廊に向けられることになる。

 

上記著作には載っていないが,この教会は1260年から1320年の間にドイツ騎士団の教会として建てられたという。現在までには様々な修復を受けているとのこと。