リーメンシュナイダーに関して,中世史や騎士団に関する本を読んでいる。特にドイツ騎士団。「騎士の世界」(池上俊一、河出書房新社)を読んでいたら,以前の疑問が少し解消した気がしたので、そのことを書く。直接リーメンシュナイダーには関係ないのだが。

 

かいつまんで言えば、エドワード黒太子がなぜそんなにも戦争に強かったのか,疑問だった。

装備の違いとはどういうことか? 『騎士の世界』の第5章 武器と甲冑。まず騎士たちが特に騎士にふさわしい武器としてこだわった武器は剣と槍。一方弓はもともと狩りで使われていたが、軍事的に重要な武器としたのはフランク人であったという。アヴァール人やノルマン人と戦う中で,弓の使用も一般化していった。そして弩=クロスボウが、弓以上に効果的で重要になっていく。にもかかわらず,弓も弩も騎士たちにとってはふさわしくないものだった。これは品位に欠ける飛び道具で,平民の武器であると考えられた。11世紀末には卑怯な武器である飛び道具を禁止しようとする動きが出てくる。ラテラノ公会議や教皇の禁令など。しかし、それは無駄だった。13世紀には全ヨーロッパに弩が普及する。

 ところが「中世末に「長弓」が活躍するようになると、弩の命運は尽きることになる。百年戦争のクレシーの戦い(1346年)でイングランドの長弓隊にフランス軍が敗北したのは、象徴的である。」(p62-63〉

100年戦争について書き出すと長くなるので、この長弓に関する象徴的な戦いがクレシーの戦いとポワティエの戦い。

イングランドの長弓戦術が本格的なフランス騎士団を相手にして最初に威力を示したのが、クレシーの戦いである。(p71) この時、黒太子はわずか16歳だったが、一部隊を率いたという。

ジャン・フロワサール  (1337–1410) Jean Froissart 
Battle of Crécy between the English and French in the Hundred Years' War.
フランス国立図書館

エドワード三世は,小さな丘の上に防御布陣を敷き,軍を三小隊に分け、うち二隊に射手を加えて前線に配置。この攻撃でフランス軍は1万2000人の騎士の内1542人が命を落としたという。イングランドはほとんど死傷者無し。

 次の1356年のポワティエの戦い。ここでは「フランス軍は騎兵隊の突撃でエドワード黒太子の射手を蹴散らしてから、歩兵に突撃させてイングランドの陣形を破り、さらに攻撃を重ねてとどめを刺す計画を立てた。」が、統制が欠如してここでも敗北、ジャン王は捉えられてしまう。

ロイゼ・リデ  (1420–) Bataille de Poitier à Nouaillé-Maupertuis en 1356, Chroniques de Froissart, manuscrits de Gruuthuse.   1470-1480頃

 

2枚の画像で,イングランド方は、長弓を構えている方である。この勝利には長弓の威力だけでなく、騎士軍が統制がとりにくいのに対して、歩兵の方が巧みな隊形をとって意表を突くことができたとある。ともあれ、おそらくエドワード黒太子は戦術の才があったのだろうが、このように騎士が衰退していったということが大きな原因であろうか。 ここでいったんエドワード黒太子のことは腑に落ちた気がするが,この百年戦争は,騎士の姿をした少女ジャンヌ・ダルクがおよそ70年後に現れて最終的にフランスがイングランド軍を退ける。それはなぜかという疑問がまた湧く。これは調べればわかりそうな気もするが,また別の機会に。画像だけ挙げておこう。

  Jean Pichore  (fl. from 1502 until 1521 ) .
Joan of Arc depicted on horseback in an illustration from a 1504 manuscript.
Date    1506Musée Dobrée