シャーマ『風景と記憶』 第1章「リトアニアのバイソンの地にて」

 リトアニアにバイソンがいるなんて知らなかった。どこにいるかと言うと,たぶん発音できないだろう地,ビャウォヴィエジャの森。ポーランドとベラルーシの国境にまたがる原始の森,今はユネスコの世界遺産となっている。

19世紀末に撮影されたとされる、生体のコーカサスバイソンを撮影した写真

※ヨーロッパバイソンの画像として挙げた。コーカサスバイソンは絶滅している。

 

しかしシャーマの叙述は,ミワコイ・フッソスキの詩から始まる。1520年ごろポーランドのクラクフから司教に随行してローマに赴いた詩人。彼はリトアニアのバイソンに捧げる頌詩を詠んだ。彼はこの野獣を故国と風景の英雄的不屈の象徴として書き,その生物学的特徴についても詳しく述べた。またバイソン狩りの伝統についても書いている。ポーランドのバイソン伝承の原型を作ったのがフッソスキ。(ちなみに1386年リトアニア大公ヨガイラはポーランド王女と結婚し,それぞれの国が主権を持つポーランド・リトアニア連合となっていた)

 18世紀にヨーロッパバイソンの故郷ビャウォヴィエジャの地を狩猟と言う形で最も楽しんだのは,ポーランドの玉座についたザクセン選帝侯たち,アウグスト二世やアウグスト三世たち。その後エカテリナ二世の愛人だったポニアトフスキが王位に就くと,リトアニアの森を経済的な資源とみなし森林の伐採が始まっていく。やがて歴史の様々な流れの中でほぼ全リトアニアがロシアに支配されるようになる。第一次世界大戦ではロシアとドイツの狭間で,大量の木が伐採され,動物たちは狩りの対象となり,さらに戦況が悪化するとバイソンは食肉の対象とみなされるようになった。1914年には,800頭から460頭に半減し,1918年にはありとあらゆる動物が軍隊の食料として殺され,一桁のバイソンが生き残った,1921年に自然消滅したとする資料もあるという。

 1929年,戦前にリトアニアから輸出された各地の動物園からバイソンが繁殖を目的として先祖の土地に帰還した。この後に登場するのが,ナチスのヘルマン・ゲーリンク,初代帝国狩猟長官,熱烈な狩猟家だがバイソンには畏敬の念を持っていた。1939年ドイツがポーランドに侵入し数週間でビャウォヴィエジャに到達。ヘラジカとバイソンは,ゲーリンクのものとなり,それゆえ森林や森の動物たちは聖なる森で保護されねばならなかった。一方ビャウォヴィエジャの人口の12%を占めるユダヤ人たちは“狩られて”,銃殺され,あるいは連行されてトレブリンカの絶滅炉で最期を遂げた。「トレブリンカに立つ無数の独立した石が彼らの記念碑である。」(同書p86)。前回に載せたトレブリンカに立つ石のことであろう。シャーマがその画像を載せないのは,敢えて,なのだろうという気がした。その痛みを感じすぎるからか,生半可に画像を載せておしまいという簡単なことにしたくないという意思か。

 ドイツ人たちは風景もドイツ化しようとした。テュートンの『故郷』に作りかえようとする。そのために村人を追い払いまたは射殺し,家屋や家畜を焼き払い…。ナチスが撤退するとき,ゲーリンクは狩猟館を燃やすように命じ彼の夢は炎の中に消えたわけだが。

 この第1章の最後は森のガイド役についての文で締めくくられる。

 

―彼はバイソンのくすんだような臭いも,バイソングラスの入ったウォッカのアーモンドのような甘い香りも忘れないでいた。私が共産主義から民主主義への「大転換」についてたずねると,彼は「国なんて知ったこっちゃない」と答えた。「ぼくの国はこれ」彼は嬉しそうに木々に向って手を振りながら微笑んだ「自然さ,そう自然という国さ」、と。― (P91)

 ここまで読んで初めて自分がそのウォッカを知っていることに気付いた。何十年も名前さえ思い出したことも無かったのだが。ズブロッカ。

ズブロッカとは,ジュブルフカというのが本来の発音に近いそうで,バイソンをポーランド語でジュブルという。バイソンが好んで食べる草がジュブルフカ,このウォッカに漬け込んである。

 学生時代に,友人にバイソングラスを漬け込んだ強いお酒があると聞き,飲んでみた。味も香りも覚えていないがとにかく強い酒でアルコール40度近い。そんなに飲めたわけでもないが,このお酒を置いていると「アル中か」と言われた覚えがある。好奇心で手にしたようなお酒で,ラベルのバイソンも見ていたが,なんとなくメルヘンのように思っていた。それがヨーロッパに現実に存在すると,森とその歴史を少し知った今,改めてこのラベルのバイソンを見てみようか。