サイモン・シャーマの『風景と記憶』(河出書房新社)を読み始める。本文だけで663ページ。プロローグ 迂回。ここから始めたことに大きな意味がある。シャーマの父祖の地,そしてユダヤ人に関わることであり,「風景と記憶」という語に込められた意味もこのプロローグをまるまる読まないと理解できない。

 まずこの“リトアニア”が現在のバルト海沿岸の小さな国とは違う国境を持つ国だったことを理解するのが大変。ネットで探すと良い図版があったので載せておく。

 

何世紀にもわたりリトアニアは,南は黒海から西はブク川,北はバルト海にまで達する広大な版図を抱えていたという。上の地図で言うと薄緑の部分である。現在の国名で言うとロシア,ポーランド,リトアニア,ベラルーシ,ウクライナなどと言ったところだろうか。

 シャーマは,ギビーの村(※現在ではポーランド北東部の果て,リトアニアとの国境に位置する)を目指して車を走らせる。そこにある深い森は「リトアニアの王たちとドイツ騎士団の騎士たちを,パルティザンとユダヤ人を,ナチのゲシュタポそしてスターリンのNKVDをみてきた。そこは斃れた兵士たち六世代分の外套のボタンが森のシダの下に見つかる,憑かれた土地なのだ。」(同書P34)

 ギビーの村の教会の外,丸石がある斜面を登っていくと木の十字架があり,1945年の初めにポーランド国軍を支持したという理由で何百人という男女が,スターリンの秘密警察によって殺されたとある。小さな丘には石板群があり500に及ぶ名前が刻まれていた。が本当の衝撃はその先にあったという。十字架の向こう側には美しい光景が広がっていて「明るい若木の帯が地平線の底を形作っているその背後には…深い緑の原始林が密集し,子供たちの手を取る巨人たちと言った風情で聳立していた。中景にはネマン川にそそぐ多くの湖や川のひとつが銀色の帯となって,葦の湿地と緑のトウモロコシ畑の中を縫って流れていた。点在する木の小屋の窓が,アヒルがのんびり遊ぶ穏やかな池の縁に沈んでいく西日を受けていた。」(p35) これこそがギビーの人々がそのために命をおとしや故国の風景,彼らの記憶が形を結びこの風景そのものとなった。このような丘,墳丘も古い土着の伝統。

 そこで筆者の連想はホロコーストで命を落とした人々は帰郷もかなわなかったという連想に及ぶ。トレブリンカ。(※ワルシャワの北方90キロにあり,ポーランドのユダヤ人絶滅を目的に作られた収容所。1942年から1943年の14か月間で73万人以上が殺害されたという。ナチスによって破壊されたため現在は建物は存在しない。)

 このリトアニアの村や森のどこかに,シャーマの一族もいた。彼の曽祖父は,森から木を切り出し下流の町に木を流すことで生計を立てていた。そこが正確にはどこかは分からない。

 (ポーランドでのユダヤ人の歴史も複雑で,宗教的にもユダヤ,ギリシア正教,カトリックと絡み合っており,ユダヤ人虐殺も1794年に起こっている。) 聞き覚えのある地名をさがして,シャーマがたどり着いたプンスクでユダヤ人の墓を見つけるが,すでに人の手により作られた痕跡を失いかけ,石に書かれたヘブライ語を読み取る事さえ困難だった。というところでこのほぼ40ページにわたるプロローグは閉じられる。

 目の前の風景がどのような政治的,宗教的,社会的,文化的な歴史を経て形作られてきたものかということが,この書の語ることであろう。がそれだけではなく,表象あるいはイメージの歴史でもあるり,それらの相互作用についても語られている。

 

 プロローグを読んで,トレブリンカの今の風景を知りたくなり探した。

ユダヤ人のゲットーからの国外追放 September 16, 1942

ゲットーからトレブリンカに移送されるユダヤ人 1942-43

トレブリンカに残る鉄道線路。2006年

この鉄道によって多数のユダヤ人が移送された。

Monument in the former Treblinka, Nazi German death camp in occupied Poland.Author Adrian Grycuk
トレブリンカに今あるメモリアル,記念碑,直立する尖った石の群れがなんとも鮮烈な印象だ。現在では電車もなく,外国人が訪問するにはそれ相応の準備が必要だそうだ。
シャーマは別にユダヤ人の歴史も書いているので,この書では収容所についてはあっさりと触れているにすぎない。私自身はリトアニアの歴史もトレブリンカのこともほとんど知らなった。知るべきこと,多すぎるほど。