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9月から体調不良が続いています。

その間も多くの方がご覧に下さっていて、いつも驚いています。

今回は入院するかと思いました。

 

私を知って下さっている方は

「ずいぶん無理したんだろうな」

と思われているかもしれませんが、無理する前に倒れました (^^;

 

この秋は大きな国際ニュースがいくつか飛び込んできました。

・安田純平さん解放される

・カショギ氏不審死

・アメリカ中間選挙

・ゴーン氏逮捕・拘留中

・北方領土2島返還論

などなど

 

 

どのくらいの頻度でどこまで書けるかわかりませんが、安田さんのことやカショギ氏事件の背景など、「中東情勢」について触れたいと思います。

 

 

 

 

まず、安田さん解放

多くの日本の方は

「拉致していたのは・・・ISとは関係ないの?どこの団体?」

「そう言えばISってどうなったの?」

「どうして『カタール』の名が出てくるの?」

 

と、疑問に思われたのではないでしょうか?

 

 

 

舞台となったシリア。

 

まず、なぜ「シリア」が紛争地域になっているか、です。

おわかりになりますか?

 

政府側とその反体制派の戦闘で、長く紛争が続いています。

 

 

2010~2012年にかけてアフリカ地中海沿岸諸国の大規模反政府運動で独裁政権が次々に倒れましたね。

 

「アラブの春」と呼ばれました。

 

チュニジアから発生し(ジャスミン革命)、インターネットを通じ、瞬時に各地に広まりました。

 

次々と以前の政権が倒れ、最後に回ってきたのが「シリア内戦」なのです。

 

しかも、「リビア」の「カダフィの隠し金」もトルコ経由でシリアに流れたと言われています。

 

 

この

『民衆側から権力者を倒す』

という形はよくアメリカが仕組むことなのであります。

 

「アラブの春」という北アフリカ・中東の独裁政権国家転覆というのは、アメリカのシナリオです。

 

「リビア」「カダフィ」というと、日本では「悪の枢軸国」「アラブの狂犬」… 非常に悪しきイメージが浸透していたかと思います。

 

これこそがまさにマスコミを巧みに利用した情報操作。

 

アメリカの意に沿わない権力者は、往々にアメリカに消されてきました。

 

フィリピンのマルコス大統領しかり、イラクのフセイン大統領然り、です。

 

マルコス大統領は旧日本軍の「隠し軍資金」「お宝」を発見。

アメリカに渡さず独占しようとしたところ、革命が起きました。

 

フセイン大統領は石油決済がドル建てで行われているところ、「ユーロ決済」を試みようとしたためでした。

 

チュニジアのベジ・ガイドセブシ大統領は、

アメリカから『チュニジアに米軍基地(AFRICOMアメリカアフリカ軍))を置かせてほしい』

との要望を断ったところ、1か月後、テロに見舞われました。

 

 

 

 

 

リビアは2004年まで社会主義国でした。

 

原油を算出することもあり、大学までの教育費は無料、医療費無料、海外で医療を施す場合の補助費、廉価なガソリン代、住宅資金の半額を援助などの行き届いた福祉が行われていました。

 

 

そして、「カダフィの隠し金」とは、

「アフリカにアフリカのための中央銀行」

「リビアではないアフリカ中央の国」

で作ろうと画策していた資金でした。

 

アフリカ版ユーロみたいなものですね。

 

 

 

それに反対するのはアメリカ他、アフリカの国々の旧宗主国イギリス・フランスなどです。

 

フランスは現在自国はユーロを使用していますが、旧植民地であったアフリカ諸国には「アフリカフラン」の使用を義務付けています。

 

そこからの莫大な利益で国家を運営しているので、大反対していました。

 

 

カダフィは逮捕後、移送中に殺害されたことになっていますが、これはフランスの特殊部隊によるものでした。

 

 

そこから「カダフィの隠し金」をみな血眼で探しまくり・・・

シリアで内紛が始まった際、ISの資金とした使われました。

 

当初、ISというのは単なるアラブのテロリスト集団ではなく、プロのカメラマンに撮影させ、主にアメリカの2~3段階古い兵器やユニフォームをまとめ買いする、戦略があり、統制も取れていました。

 

 

シリア内紛の報道では政府軍と反政府軍とISの3つ巴に見えましたが、実際には

 

      シリア政府・イラク政府 と 反政府側 に分かれ

 

そして、その後ろにそれぞれ組織が連なり、

さらにその後ろには支援国(大国が資金・武器援助をしていた)

 

というのが真相です。

 

私がさらさらと図解をできるとよいのですが(そういうアシスタントの方欲しいなあラブ

 

反政府側

前面  自由シリア軍(反政府軍) ヌスラ戦線 (アルカイダ) ムスリム同胞団 サラフィスト 

     IS (ラフマーン軍、イスラーム軍、シャーム解放委員会、トルクメン=シリア軍などは目的により「反政府軍」にも「IS」にもなる

支援国 アメリカ トルコ サウジアラビア カタール イスラエル イギリス フランスなど 

  支援というのは、兵器・物資などの兵站、食料投下、テントで医療を施す、軍事教練を行う、給与を支払う、攻撃に加わるなどです。

 

 

爆弾爆弾爆弾爆弾爆弾爆弾爆弾爆弾爆弾

 

 

シリア政府・イラク政府

前面 革命防衛隊 ヒズボラ    

支援国 ロシア イラン

                   

 

こんな感じです。

反政府側支援国ISを空爆するときは「事前通告」していました。

一方、政府側支援国であるロシアが空爆した時は、数カ月で壊滅状態に追い詰めました。

 

アメリカ、イギリス、フランス等ロシアのIS空爆はけして共闘関係ではないのです。

 

そして、各国がそれぞれの思惑で支援する団体が、総まとめでISと呼ばれています。

ISの中の各組織は2転3転と名前を変え、同じものであったり、重複している組織もあり、掴みどころのない存在です。

 

ISとして銃を持っていた人が、ある時には正義の味方の団体にも顔を出す

国際機関の援助のトラックの中にISの兵士が隠れて移動

イラク軍機はISとの戦闘中、米英軍機がISに物量投下しているのを見ている

 

など、ISの存在は反政府側にあり、支援国がそれぞれの思惑で資金や武器を提供していました。 

プーチン大統領は公式の場で、「ISを支援しているのは40か国以上」と言及しています。

 

後藤さん・湯川さんたちを拉致・殺害したのは「IS」。

 

今回はというと、旧ヌスラ戦線で「比較的穏健派」と呼ばれる団体ですが(;^ω^)、アルカイダであり、ISの分派でもあったわけです。

昨年秋ぐらいから相当な空爆が続けられ、ISはほぼ壊滅に近い状況にあります。

 

支援していた国が援助を止め、引き揚げてしまったため資金が底をつき、弱体化したのです。

 

そのため、シリアでは身代金目的の誘拐が絶えません。

 

 

OPECの中でもサウジアラビアの独壇場を快く思わずにいた「カタール」。

 

武装勢力の誘拐犯たちと各国間の調整役として動き、

「サウジアラビアのお客さんを自国につけたいラブラブ

と、動き回っていました。

 

 

カタールは「世界最大の液化天然ガスの産出国であり輸出国」です。

 

サウジアラビア経由ではなく、世界の大国と直接取引するべく、その存在を知らしめようと努めます。

 

人質救出交渉は、そのアピールの一環で最たるものでしょう。

 

安田さん救出に協力したことによって、日本政府や日本のビジネス界に新たなビジネスパートナー候補として目を向けさせようとしているのです。

 

サウジアラビアは独自外交をするカタールを敵視し、2017年より断交に至ります。

 

サウジアラビアは小国カタールの周りに運河を巡らし「島国」「孤立化」させ、さらにその沿岸に「核廃棄物」を処理していこうとしていますびっくり

 

 

12月3日、とうとうカタールは2019年1月よりOPECを脱退すると発表しました。

 

ISを援助していた中でも多額出資していたサウジアラビア。

 

サウジアラビアとトルコは緊張関係にありますが、サウジアラビアにとって一番の敵は「イラン」(シーア派)。

(逆にカタールはそのトルコやイランに支援されています。)

 

 

サウジアラビアは

・アメリカやイスラエルとも非常に緊密な関係にあります

・アメリカ軍に守られています(なぜなら、サウジアラビアの中で最も原油が産出する地域は、シーア派の住人(敵対)が多いからです。)

 

 

アメリカドルお金の価値(基軸)は、原油の決済がドルで行われることにあります。

 

 

現在は金本位制ではないので、サウジアラビアが

「原油価格はアメリカドルでしか受け取らない」

とした「ワシントン=リヤドの密約」によって、アメリカドルが世界のキーカレンシーとなり得るのです。

 

そのためアメリカはサウジアラビアとの外交をとても尊重しています。

 

打倒イランのためなら、サウジアラビアはイスラエルとも手を結びます。

 

(これまた「アラブの春」の余波で始まった「イエメン内戦」(2015年~)最高政治評議会フーシ派というシーア派の一派でイランに支援されており、ハーディ大統領派にはサウジアラビア、その後ろにイスラエルが支援、代理戦争化しています。)

 

サウジアラビアという国は政教一致、イスラム教国の中でもかなり戒律の厳しいワッハーブ派(スンナ派の一部)で、女性の人権が守られていなかったり、身体刑を見せもののように公開している国ではあります。

単純に

 

イスラム教 vs キリスト教・ユダヤ教

 

といった宗教対立ではないのが、現在の国際関係。

 

トランプ大統領が大統領就任後、初めて訪れたのは近隣諸国ではなく、サウジアラビアなのです。

 

そのような両国の関係なので、トランプ大統領は「サウジ領事館カショギ氏暗殺事件」でも、ムハンマド皇子を名指し攻撃しない(できない)わけなのです。

 

さて、話をカショギ氏の事件の方に移しましょう。


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海上自衛隊は『旭日旗(自衛艦旗)の掲揚の自粛』を要請されていたため、11日に済州島で行われた国際観覧式の参加を見送りました。

 

「自衛艦旗の掲揚は義務である」

と毅然とした態度で臨んでよかったと思います。

一昨年にもこんなことがありました。

 

 

 

卑屈なまでの外交姿勢を取り続けている中、今回の判断は「よくやった爆  笑」です。

 

 

当日、文在寅大統領が乗艦した駆逐艦にはなんと抗日の英雄と見なされている『李舜臣』将軍の旗が掲げられていました。

「抗日旗」です。

ここまですると・・・

国際ルールを知る、常識的な韓国海軍の方は恥ずかしく、肩身の狭い思いをなさったと思いますショボーン

 

韓国にとって海上自衛隊は旧日本海軍を彷彿させる忌まわしいものなのでしょうか?

 

 

38度線で分断された北朝鮮と「休戦状態」にある韓国では「陸軍」が主流なのは必至。

それに比べて四方を海に囲まれ、過去海戦でも実績のある日本は、海上防衛にかけては世界的にも優れています。

特徴としては

・機雷除去能力

・海中での静粛性(音が静か)と潜水深度に優れたハイテク潜水艦の建造技術→こちらのブログ

・潜水員の「深度450m」という潜水能力(飽和潜水)は世界トップクラスキラキラ

 

海上防衛を不得手とする韓国海軍にとって「海上自衛隊」はこれ以上ないお手本なのです。

 

海上自衛隊が大型輸送艦やイージス艦など新たな装備を進めると、韓国海軍も慌てて同じものを購入する徹底ぶり。

(こういう「トナリキョロキョロを見て持ち物を真似する子」っていますよね(^0^;))

 

 

過去、機雷掃海訓練を見学。

日本のP-3C哨戒機での対潜水戦略を注視。

そして、

「自国でも日本のような新型潜水艦を作りたい!!

と建造技術やその運用方法についても情報を求めて来ました。

 

一昨年の2016年11月、「軍事情報包括保護協定」(GSOMIA)を日韓で締結。

韓国側はこれにかなりの期待をしていたはずです。

 

その場その場の「事大主義」で北朝鮮・中国・アメリカなどにすり寄る韓国。

半島に存在する国家として大変なのはお察ししますがショボーン・・・

 

 

 


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自身の体調、多忙さ、家族の入院が重なったこともありましたが、今後の在り方に悩み、ブログを綴ることができないでおりました。


この休んでいる間も昨年から私が述べているテーマが19世紀各国がどのように動いているか(その中には幕末もあったため)で、大河ドラマで「西郷どん」が放映されているためか、アクセス数が高い日が続いています。

特にコレ→慶喜とフランス

(私は今年の大河が幕末の「西郷どん」とは、全く関心なく知りませんでした。)

 

みなさまの歴史に対する関心の高さに驚きました。

 

当初、このブログでは現在の国際情勢をスポット的に解説しようとしていたのですが、その背景の地理・歴史を知らなければ話は進められません。

遅々として進まないブログではありますが、この試みはけして間違っている訳ではないと思っております。

 

中学生の多くは地理と歴史を交互に学んでいることは前ブログでも記しましたが、数年後には高等学校で「日本史」「世界史」がなくなり、「歴史」1本にまとめられます。

 

日本側・世界側、両方から歴史を見ていく力が必要となり、それには地理を把握していることが前提になってきます。
(高校生も大変ですが、これを教えていくことができるかと教員にもその力量が問われます。)

 

 

ブログでは

ヨーロッパの国が航路開拓した動機と、それにおける南北アメリカ大陸・アフリカ大陸で起こったことから述べ、ペリー来航、幕末、アヘン戦争シパーヒの反乱東方問題クリミア戦争などを見てまいりました。

ここまでで、私が述べたかったことは4分の1ぐらいに過ぎません。

恐らくこのブログを読んでくださっている方々も、

 

・そして、どのように明治は開けて行ったか

・日清戦争後、国際社会の中で日本はどのような構図の中に置かれたか

・日英同盟の真意

・GHQが削った日露戦争前後の日本人政治家の活躍、日本の高い国防力

・日露戦争は日本にとって果たして勝利だったのか、日本が取った誤った選択

 

など続きを「知りたい」のではないかと思います。

 

 

このような感じで「日中紛争から第2次世界大戦」もお伝えしたいテーマでした。
過去ブログで「慰安婦問題」「南京大虐殺」がどのように捏造されたものかは記しておりますが、ほとんどの日本人が知らない、教科書に書かれていない

「大陸で日本が国家ぐるみ、軍主導でやらかしたこと」

もあります。

 

 

話は変わりますが、今年になってから中国共産党のウイグル人弾圧は一層強まり、新疆ウイグル自治区のウイグル人の大都会はゴーストタウンと化し、多くの人が「キャンプ」と呼ばれる収容所に収容されています。

ホロコースト状態になっているのです。

収容所の隣には火葬場もあります。

行方不明とされている多くのウイグル人著名人は、ここで亡くなったと見られています。

 

そして、「法輪功」の時と同じように、国家ぐるみの「臓器売買ビジネス」が横行しています。

 

過疎化の街では、漢人が入植。

男性がウイグル人女性と結婚することが奨励されています。

 

ウイグル人両親の子は、親を失ったまま中国当局に保護され、徹底した「漢人教育」を施され、そののち「養子」と言えば聞こえはいいのですが、人身売買に近いことが行われています。

 

これくらいの内容なら1~2回、2~3回のブログで綴れそうです。

 

 

 

また、「旭日旗」とは何か、それにまつわる問題についても過去ブログで述べていますが、今月10~14日に済州島で開かれる韓国主催の観艦式に、『旭日旗の掲揚自粛』を要請された海上自衛隊は参加を見送りました。

これも1~2回のブログで綴れそうです。

 

しかし、1つの歴史のテーマをブログで綴るには限界があります。

特に多角的に見ていく場合には。

 


私は自身のキャパシティから、こちらアメブロでは「コメント欄」を使用しておらず、フェイスブックで質問・ご意見を伺っておりました。
しかし、そのフェイスブックでも投稿内容より、個人的に私と親しくなりたいとメッセンジャーを濫用する方が多く、苦慮しておりました。

今回よりしばらくこちらのコメント欄をオープンに致します。

フェイスブックでは

・書籍化してほしい

・ミニオンライン講義

・Skype/zoomを使用した個別講義・Q&A

 

などのお声をいただいておりました。

基本的なことは書籍(文字)で、特定のマニアックな?テーマは特定の方のみご欄いただける動画がよいのかもしれません。

 

 

返信はできないかと存じますが、みなさまのご意見をお待ちしております。


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みなさま、ご無沙汰しております。

やっと「19世紀にイギリスが何をやっていたのか」書き終わったら安堵して、すっかり間が開いてしまいました。
夏休みのせいなのか?PV数多のにビックリびっくりしています。


全然進まなくてごめんなさいキティちゃん×汗、です。

 

 

日本の幕末と19世紀のイギリスを中心とした世界情勢、当初2月ぐらいで終わらせるつもりでほとんど下書きができておりました(^0^;)



私なりの校了をする時間を捻出するのが難しくガーン

3月と5月、それぞれ1ヶ月間の集中講義を受けガーン(今年買い直したパソコンも頻繁に故障し、何度もに出しガーンガーンガーン
また、今年中学生になった娘の新生活の支度と全教科の指導がんばろー!
に時間を取っていました。

 

 

社会科だけではないですよ。全教科です。
娘にとって一番しんどそうなのは社会科。

これは地域に寄るようですが、「地理と歴史」並行型授業なのです。

 



地図の見方や日本の歴史などは小学校のおさらいではありますが、不登校であった娘には初めてで(いえ、昨年しっかり私が教えたはずなのですが354354)。

それに世界地理、歴史の中にも世界史が加わり、「地理+日本史+世界史」のようなもので、気の毒になりキティちゃん(|i|i|)、つい「私がキラキラキラキラ」勉強しております。



そこでの発見はまた新たに述べさせていただくとしてー


そして、19世紀全体とその後もまだまだ述べさせていただくとしてー

(それがどのように現代の国際政治に結びつくまで持って行くために書いていたので)

 

 

これをずっと書いている間、「あれも解説したいしー、これも解説したいしー」ということが山ほどあったのですが、ぐっと押さえておりました。

 

 

 

やっと昨日ぐらいから日本で「ISの兵士が大量投降」とニュースに出ていますが、何を今さらやれやれ

相撲界のトラブル、日大アメフト、ボクシング連盟会長の権力乱用(今朝は全く同時間に日テレ・TBS・フジ・テレ朝がこれをやっていましたね。ここまで揃うと笑えます。私はTV東京の韓流ドラマを見ておりました嬉しいw)、国会議員の不倫、芸能人の不倫、アイドル・人気俳優の結婚・・・こういったことばかりがニュースで繰り返される。

 

 

だいたいこういうときは

「日本のニュースで伝わって来ないけれど、何か重大ニュースを発表できないでいるな・隠しているな」
と考えて間違いありません。

 

 

異様なバブルが起こっている国々

アフリカで続く激しい戦争

新たな資源大国

毎日2000人弱!「誘拐」され治安が悪くなってしまった国・・・

 

 

 

昨年もタイトルからすぐに探せないようなところでさらっと述べさせていただいているのですが、(今回もですねキャハハ
「そもそもIS自体がやらせ」

なのです。

その証拠もオシントで充分に出ています。

 

「『悪』を仕立て上げ国際世論で責める」やり口は非常に多いですね。

 

 


簡単に諜報活動(インテリジェンス Intelligence assesment)について説明しますね。
オシント OSINT open source intelligence

公開情報  誰でもアクセスできる新聞・ニュース・論文から得られる情報   

 

ヒューミント HUMINT human intelligence

人から得る情報 仲間同士、敵同士の貸し借り、時には弱みを握って情報を持ってこさせる

 

シギント SIGINT signals intelligence 

通信や信号から得る情報  盗聴・暗号・潜水艦の音の傍受など

 

 

そもそもインテリジェンスという言葉は「行間を」読むという意味なのです。

万人が知ることのできる情報の中で、価値ある意味を見いだせるか。

 

 

例えば、実際に報道されている内容と異なった状況を示す写真・映像であったり、

 

1つの事件を数カ国のニュースを照らし合わせて

「自国に都合のよい(敵国を罵る・信憑性に欠ける・自国民を秘密にし騙しておきたい)内容」か

「ほとんどの国で共通している(恐らく本当と思われる)内容」か

 

で精査できることなど。

 

 

日本ではアメリカ・イギリス・フランスなどに都合のよい内容が圧倒的です。

情報源が偏っている。
そして、日本の報道機関が未だに自主規制をして、それらの国の顔色を伺っているという訳です。



あと、

6月の米朝首脳会談

中国の南太平洋&アフリカ進出

防衛省の「日報」隠蔽問題
「TPP」の怖さ

数週間前の「『西郷どん』スペシャル」

 

などなどもお話したかったのですが。

 

本日はここまでにしておきますねキティちゃん×汗

19~20世紀にも戻らないとにゃ



 

 


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大英帝国の19世紀と称しながら、ここ3回はオスマン帝国を中心に中東・北アフリカ・バルカン半島の情勢について書いてきました。

19世紀に実に多くの戦争を繰り返したイギリス。

ここでは書いておりませんが、北米でもアフリカ大陸でも行っています。

 

清(中国)では徹底的な破壊・殺害が繰り返され、やがてそれは中国内部から異国と異民族王朝を倒す動きと発展していきます。

イギリスは中国で奪うべきものを奪った後、次に目を付けたのは中国人を異国に働きにいかせるという事実上の奴隷貿易を行いました。

北米では黒人の奴隷貿易が世論上反対される中、まだまだフロンティアの開発に多くの人材が必要でした。
そのための代わりの人材として、ダイナマイトを扱うような危険な仕事を中国人にやらせたのです。
それ以前に渡航中に亡くなる人も少なくなかったのです。

こうして世界に散らばった中国人は華僑となっていきました。

イギリスの直接統治下になったインドでも、多くの人が印僑として海外で働く人材となりました。

アフリカの「ナイジェリア」、南太平洋の「フィジー」など、「あれ?」と思うようなところに偏って多いインド系の人が多いところはそういった由縁です。

 

また、勇猛なインド人はイギリスの戦闘の先陣で戦わされる兵となりました。
彼らは戦いたかった訳ではありません。
「アヘン戦争、太平天国の乱に参加したら、独立・解放される」

と言われていたのです。

これは第2次大戦の時もそのように言われ、マレー・シンガポールなどで先陣に立たされました。

 

多くの戦利と引き換えに、イギリスはイギリス兵の命や損害も被っていました。
日本が武力によってではなく、経済的に丸め込まれ、いずれは傀儡国にしようと目論んでいたとは言われ、かなりラッキーであったと言えるでしょう。

 

 

そんな戦争を繰り返していたイギリスが、19世紀に1つの大きな転換を迎えます。

それがオスマン帝国を味方することを口実に乗り出したロシアとの戦い「クリミア戦争」でした。

 

 

日本では徳川慶喜が初めて手に取るカメラに大喜びしていた時-イギリスでは海底電信のおかげで戦況が刻一刻伝えられるようになったのです。それもカラーで、です。
 

ほぼライブで伝わる戦況にイギリス人は夢中になり、おかげで識字率も向上したほどです。
正確な写真は、ロシアに有利に働くこともあり、ヴィクトリア女王も歯がゆい思いをしたようです。



そしてもう1つ、軍事医療の改革です。

かのナイチンゲールはこのクリミア戦争で看護師として活躍した人なのです。

もともと裕福な家庭に育った彼女は、両親から与え得る教育を受け、いくつもの語学にも長けていました。
その彼女はクリミア戦争に向かった際には、イギリス軍は

「女性がいると軍の風紀が乱れる」

と、兵の看護を拒否しました。

そして、彼女がやらせてもらえたのがトイレ掃除だったのです。

それでも彼女は挫けず、そこを軍の突破口とし、看護をするように至ります。
彼女は兵士が戦闘の負傷で亡くなるよりも、その後治療が施されずに放置されていました。

ロシアよりフランスより、イギリス人兵士が一番多く「壊疽」になっていました。

また、衛生的ではない環境で感染症が多く発生していました。

 

 

このような環境の中、彼女は敵・味方区別なく看護にあたったのです。

よくこのような女性を女性性のみをクローズアップし「優しい」「献身的な愛」と表現しますが、彼女は非常に聡く精神的にも強い人でした。

帰国後、戦地での負傷・看護の諸処のケースをグラフにし、プレゼンしたのです。

男性社会で明らかな差別を受けても、それに耐え、その間に状況を見抜き、いざという時に真価を発揮。

そして、その後内容を統計学を駆使し、納得させる…そのくらい優秀なビジネスパーソンだったのです。

彼女の職業の1つとして「実業家」とあるのもよくわかりますね。

これを機に世界中で軍事医療の在り方が見直されるようになり、兵舎病院、陸軍の衛生改善が行われ始めたのです。

 


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19世紀、盛んに世界進出に繰り出すイギリス。

 

中国でのアヘン戦争・太平天国の乱・第2次アヘン戦争、イギリスでのシパーヒーの乱という大きい戦いだけでなく、もう1つ大きい戦争に乗り出しています。

(いったいどれだけ戦争しているのか?この「大英帝国のー②」に戻ってもう一度確認しましょう!

戦争にしても、海軍力保持にも非常にお金がかかります。

このお金を捻出するのに利用したのが「アヘン売買」ということです。) 

 

 

オスマン帝国は地図でご覧いただければおわかりのように、後にロシア・ソ連領、現ウクライナ領となっている黒海の北側も領有していました。この地をめぐる争いで、オスマン帝国とロシアは幾度となく争いが続きます。

 

黒海北側にある「クリミア半島」はロシアにとって、地中海へ出るための大切な「不凍港」、軍事基地です。

ソ連が瓦解し、次々に旧ソ連領から独立国が登場しましたが、クリミアを含め大切な軍事基地・宇宙基地などは未だロシアの飛び地となり、ロシアの管轄下にあります。

カザフスタンのバイコヌール宇宙基地(←元はICBMの発射基地でした)もロシアは年間使用料を支払い、租借しています。

 

もう一度前々回のブログ、オスマン帝国内の独立運動とロシアの南下について見直して下さい。

「東方問題」です。

 

ここにおいてロシアとオスマン帝国との戦いが2度起こります。

 

1度目は「クリミア戦争」(1853年3月~1856年3月)です。

 

 

1853年、ロシアはオスマン帝国領内のギリシア正教徒の保護の名目で侵入します。

しかし、イギリス・フランス・サルデーニャ王国がオスマン帝国側につき、ロシアは破れます。

近代史上、大規模な戦争となり、両側に多くの死者を出しました。

 

 

次は「オスマン・ロシア戦争(露土戦争)」(1877年4月~1878年3月)です。

 


ロシアはオスマン帝国に勝ち、「サン=ステファノ条約」を結びます。

この条約でブルガリアの自治と、オスマン帝国領内のルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立が認められます。

こうしてロシアはバルカン半島へ勢力拡大を果たします。

ここまでくれば地中海への出入りも簡単になります。

 

 

これを黙って見過ごすをヨーロッパ列強ではありません。

 

1878年「ベルリン会議」を開きます。

イギリスとオーストリア(当時は今より大帝国で広大な領土を持っていました)が「サン=ステファノ条約」に反発し、ドイツのビスマルクを調停役とし、ロシアの南下を阻止しました。

「ベルリン条約」において

 オーストリア ボスニア・ヘルツェゴビナ

 イギリス    キプロス島

 

の領有が認められました。


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日本はお隣の中国(清)の状況を聞き、急ピッチで近代化を図っていきます。

このようにオスマン帝国も自国内の独立問題を多々抱え、その都度ヨーロッパ列強が介入してくるようになると、国政を変えヨーロッパに負けない強国を目指すようになりました。

 

この改革を「タンジマート」と呼び、トプカピ宮殿のギュルハネ(ばら宮)で発表された内容を「ギュルハネ勅令」と言います。

 

 

写真は1839年、ギュルハネ勅令を発表している外務大臣ムスタファ・レシト・パシャ。

タンジマートとは「タンジマーティ・ハイリエ」の略語で「恩恵改革」の意味です。

神権国家から法治国家を目指し、中央集権から官僚制度を整え、西欧諸国を味方にするためにも「非ムスリムの権利」を認めたものです。

 

非ムスリムーキリスト教徒を不当に扱っていると他国から内政干渉されないためでした。

特にロシアはそれを口実に南下を目論んでいました。

 

オスマン帝国と日本の歴史は非常に似ているのです。

ヨーロッパ列強に近く、地続きであるが故、オスマン帝国の方が日本よりずっと過酷ではありました。

 

西洋化・近代化運動はお隣の中国の洋務運動より、日本の明治維新より、オスマン帝国が先でした。

 

 

 

明治になり、日本は富国強兵と陸軍・海軍ともに力を入れ、実際に戦争を体験することになりますが、オスマン帝国も兵力に力を入れました。海軍は日本を表敬訪問に訪れたこともあります。

最近の日本ではかなり知名度が上がりましたが、天皇に表敬訪問した後、エルトゥールル号は和歌山沖で沈没しました。
かなり古い艦、トレーニングにできていない海兵で台風の時期に動いてしまったからです。
1890年(明治23年)9月11日、遭難。500名以上の犠牲者を出しました。
 

台風にあおられ、岩礁に激突。

機関部に浸水し、水蒸気爆発を起こしたのです。

この時、地元の日本人たちが手厚く救助に当たったのです。

 

台風の時期で、漁業で成り立つその村も十分な食料の蓄えがありませんでした。

しかし、できる限りの食料を持ち寄り、冷えた体を寄り添って温め、「大切なものだろう」と海からできる限りの品を拾い集めました。

当初、日本人が窃盗をしようとしていると誤解したトルコ人たちでしたが、日本人は破れた衣類は縫い、金属類は磨いて保管していたのです。

当時の一般の日本人はトルコ人もオスマン帝国も知りません。

ただ、人道上懸命に尽くしたのです。

そして、日本海軍が生存者をイスタンブールに送り届けました。

 

以来、このことは「エルトゥールル号事件」としてトルコの人たちの間で語り継がれ、とても親日な国となりました。

 

 

それから約100年近く経った1895年、イラン・イラク戦争の時です。

イラクのサダム・フセインがイランの上空の航空機の無差別攻撃宣言をしました。

各国の航空機がイランに残る自国民のための臨時便を出す中、日本だけは邦人救出のフライトを出せないでいました。

自衛隊には法制上制限があり、日本航空の乗員はストライキを起こし運航を拒否しました。



この窮地に、イランに残るトルコ人を助けに行ったトルコ航空は、自国民を歩いて帰国させ日本人を運んでくれたのです。

エルトゥールル号の事件を恩に感じていたトルコは、まさにこの時恩返しをしてくれたのです。

 

 

この話は本としても映画としても有名になっています。

最近のものでは2015年に公開された「海難1890」が有名です。

ぜひ、ご覧になってみて下さいね。


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前回まででイギリスの中国での戦争、インドの植民地化を見て来ました。

ここまでで「充分おなかいっぱいショボーン💦」だと思われますが、この時代、イギリスはまだまだ戦争をしているところがありました。

 

現在のトルコを中心にして存在した「オスマン帝国」への介入です。

(私が高校生の時は「オスマン=トルコ」と呼称されていましたが、その当時はトルコと言われてなかったということで、現在は「オスマン帝国」になっています。)

 

オスマン帝国は13世紀末に小アジア半島で起こり、16世紀の第10代皇帝のスレイマン1世の時に最盛期を迎えます。

長い歴史を持っている国です。

非常に高度な文化を持ち、優れた人間なら人種を問わず官吏に採用する柔軟性を持っていました。

 

 

 

 

領土最大時には西アジアだけでなく、北アフリカ、そして東ヨーロッパをも支配していました。

 

 

今の時代、「トルコ」と言えば小アジア半島にある国ですが、どうでしょう?

オスマン帝国は現在は別独立国になっているところまで支配が及ぶ大国だったのです。

 

ヨーロッパの人にとり、

 

・732年にはウマイヤ朝が「トゥール・ポワティエ間の戦い」でフランク王国まで攻め込んで来たり、

・イベリア半島(現在スペインやポルトガルのある)もイスラム勢力である後ウマイヤ朝(756~1031)があったり、

・近代には東ヨーロッパ(主にスラブ諸国のあたり)がこのオスマン帝国領

であったので、

「イスラム」「イスラム勢力」「イスラム教徒」にナーバスになるのももっともなのですキョロキョロ

 

 

ロシアが帝国として安定・拡大してくると、ロシアとオスマン帝国を黒海を挟み、領土争いを何度も起こします。

ロシアとしては、「不凍港」を持ち、「地中海へ進出」したくなります。 →ここで解説しています

 
 

 

 

地中海へ出て来られては迷惑なのがイギリス・フランスでした。

そのため両国はしばしばオスマン帝国側につき、ロシアと対峙します。

 

19世紀になると国民主義の影響を受け、民族解放運動が盛んになります。

オスマン帝国から次々に独立国が登場します。

領土が広大で様々な民族と宗教を内包しており、常に危機をはらんでいました。

 

1798年にナポレオンが、当時「敵」と見なしていたイギリスがインドへ行き来するエジプトに遠征します。

オスマン帝国はアルバニアのムハンマド=アリーに追い払わせ、彼をエジプト総督にします。

 

 

フランス革命の影響を受け、ヨーロッパの国民国家の統一・独立を促す考え方は、ギリシアに強く反映し、1821年、ギリシア独立戦争が起こります(1821~29)。

 

ギリシアの思想・芸術を自分たちの文明の始祖と見なすヨーロッパは、ギリシアのオスマン帝国からの独立を支援します。

イギリス・フランス・ロシア、それぞれが特別な国だけがこの地に影響を及ぼすことをきらいました。

 

オスマン帝国はエジプトに支援を頼み、

 

オスマン・エジプト vs イギリス・フランス・ロシア の戦い

 

となりました。

 

1829年、ギリシアはオスマン帝国から独立を果たすことができました。

 

すると戦いに協力したエジプトがイスラエル・ヨルダンの地域(この地域を現在はシリアとは別、エジプトの東北地域をシリアと呼びました)をオスマン帝国に要求するようになりました。

オスマン帝国内のエジプトであったはずが、次第に自己主張をするようになってきたのです。

 

 

1831年、第1次エジプト・トルコ戦争が起こります。

オスマン帝国の昨日の敵、ロシアに援軍を頼みましたが、負けてしまいます。

 

1839~40年、第2次エジプト・トルコ戦争が起こります。

エジプトが強くなりすぎることに、ヨーロッパ列強も警戒します。

まだスエズ運河ができる前ですから、インド・アジアへはこの地を通らなくてはなりません。

 

フランス・エジプト vs オスマン帝国・ロシア・イギリス・プロイセン の戦い

 

となります。

 

 

少し複雑ですか?

要は

・オスマン帝国各地から独立運動が起こる

・ロシアは不凍港の獲得のため、南下したい

・イギリスはロシアの南下に警戒、植民地インドへ通じる道を常に確保する必要がある

・フランスはイギリスの動きに敵対

です。

 

 

1840年、ロンドン会議にて

オスマン帝国はアリー一族の世襲王権を認める

エジプトはシリア(先に記したようにエジプト東北のイスラエル・ヨルダン地域)を手放す

 

ことでエジプトは独立を認められ、独立君主国ムハンマド=アリー朝エジプトとなりました。

 

 

 

このようなオスマン帝国領内で帝国に支配されていたギリシア・エジプト・スラブ人(←主にバルカン半島にいます)などの独立意識が高まると、ヨーロッパ列強が介入して来ました。

 

これを「東方問題」と言い、バルカン半島の問題は第1次世界大戦の要因にもなって行きます。

 

 

 

 

 

 


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次々とイギリスの植民地化されていったインド。

中にはインドに抵抗し戦い、「インドのジャンヌ=ダルク」と呼ばれ女性もいました。

 

ジャーンシー王国の王妃、ジャーンシー=バーイー、23歳の若さでした。

彼女の故郷も結婚先の王国もイギリスに支配され、彼女は反乱軍の戦闘に立ちました。

敵からも讃えられるほど美しく勇敢でした。

この戦いで彼女は命を落とします。

 

イギリスに雇われていたインド人の傭兵・シパーヒーはヒンドゥー教徒・イスラム教徒両方おり、能力も高く優秀な人たちでした。

このシパーヒーたちが反乱を起こし、インド全土で大混乱を起こしました。

 

そのきっかけは1857年、彼らに配られたエンフィールド銃という新式の銃でした。

 

この銃では弾と火薬をセットにし、一方ずつ包まれており、装填時に歯で噛み破る必要がありました。

当時の銃は銃口から弾と火薬をこめる前装式(先ごめ式)でした。

そして、その中に牛と豚の脂がしけるのを防ぐために使われていました。

 

ヒンドゥー教徒にとって「牛」とは神の乗り物、神聖なもの

 

 

イスラム教徒にとって「豚」とは不浄なもの

 

 

それを口にしろというのですから、イギリスに雇われていた彼らにも宗教的禁忌であり、強い抵抗感を生じたのです。

インド各地で起きていたイギリスへの反乱が、彼らが年金暮らしで象徴的存在であったムガル皇帝を反乱のシンボルに担ぎ出したことで「全インド反乱」となりました。

民族的反抗運動となったのです。

 

この1857年の大反乱が「シパーヒーの反乱」と言います。

「セポイの反乱」の方が通じやすいかもしれませんね。

 

インド北部の都市カーンプルで500人以上ものイギリス人が殺害されると、援軍を送られ(この時代あちこちで戦争をしていたイギリスは、なかなか兵を回ることに苦慮していました)増兵したイギリスは、報復としてインド各地で放火・無差別大虐殺が行われました。

 

捕まえたインド人を大砲の先に縛り、それを吹き飛ばすという処刑方法を楽しんでいたのです。

 

イギリスはこの鎮圧のためインド人を大虐殺し、ムガル帝国を滅ぼしました。

ムガル皇帝バハードゥル=シャー2世は退位させられ、1862年、ビルマ(ミャンマー)のラングーン(ヤンゴン)に流刑となり、生涯を終えました。

 

1858年1月、これまでのイギリスの東インド会社当地ではなく、イギリスがインドを直接統治するようになります。

それから約20年を経た1877年、イギリス領インドは「インド帝国」となり、ビクトリア女王が初代皇帝となります。

イギリスはケシ(アヘンを作るための花)、綿花、茶などの商品作物をインド農民に強制栽培させました。

 

このインドのイギリスによる植民地統治は、マハトマ=ガンディー登場の1947年まで続きました。

 

 


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17世紀、イギリスはインドを足掛かりにアジアへの進出を始めました。

17世紀末にはカルカッタ・ボンベイに商館を作りました。

 

18世紀になるとイギリスだけでなくフランスもインドへ進出し、しばしば両国は衝突しました。

インドは彼らにとって魅力的なものがたくさんありました。

 

胡椒・綿花・香料・藍・真珠・宝石…

 

1757年、「プラッシーの戦い」でイギリス(イギリス東インド会社)軍は、フランス・ベンガル太守の連合軍を破り、インドからフランスを駆逐しました。

 

 

 

インドには1526年に建国された「ムガル帝国」(1526~1858)というイスラム国家がありました。

ティムール朝(ティムール帝国)のバーブルによって建国された国で、バーブルがモンゴル人の子孫だったため、ペルシア語でモンゴルを意味する「ムガル」と名付けられました。

 

 

最盛期にはほぼ全インドを統治していましたが、18世紀になると力が弱まり、小さい国に分裂してしまいました。

これを藩王国といい、ムガル帝国は藩王たちの同盟を結んだ集合体となっていました。

 

 

イギリスは本来ムガル皇帝の持つ税金を集める権利「租税徴収権」を獲得し、藩王たちはイギリスから「年金」をもらって暮らしていました。

そして、日本の「藩」に後継ぎがいないと「お家取りつぶし」があったように、ムガル帝国内の「藩」も直系後継ぎがいないとイギリスに潰されました。

こうしてイギリスはインド各地を植民地化していきました。

 

それだけに留まらず、イギリスは農民にアヘンや茶といった輸出用の農作物を作らせます。

また、以前は綿花で作られた布をインドから購入していましたが、18世紀後半に産業革命を迎えていたイギリスは機械で織った布を逆にインドへ買わせていました。

 

その流通のためにインド国内に鉄道を敷いていました。

1853年、ボンベイからアジア初の鉄道が敷かれました。

 

また、イギリスはインド社会の中で比較的身分の高いカースト(インドの身分制度)から、傭兵を用いました。

傭兵とは雇う兵士です。

イギリス東インド会社に雇われたインド人兵士を「シパーヒー(セポイ)」と言いました。

これはペルシア語で兵士を意味します。

彼らはあっという間に200万人を越しました。

 

イギリスに雇われているので、イギリスの植民地支配のために戦う存在でした。

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