BEYOND BORDERS

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みなさま、ご無沙汰しております。

やっと「19世紀にイギリスが何をやっていたのか」書き終わったら安堵して、すっかり間が開いてしまいました。
夏休みのせいなのか?PV数多のにビックリびっくりしています。


全然進まなくてごめんなさいキティちゃん×汗、です。

 

 

日本の幕末と19世紀のイギリスを中心とした世界情勢、当初2月ぐらいで終わらせるつもりでほとんど下書きができておりました(^0^;)



私なりの校了をする時間を捻出するのが難しくガーン

3月と5月、それぞれ1ヶ月間の集中講義を受けガーン(今年買い直したパソコンも頻繁に故障し、何度もに出しガーンガーンガーン
また、今年中学生になった娘の新生活の支度と全教科の指導がんばろー!
に時間を取っていました。

 

 

社会科だけではないですよ。全教科です。
娘にとって一番しんどそうなのは社会科。

これは地域に寄るようですが、「地理と歴史」並行型授業なのです。

 



地図の見方や日本の歴史などは小学校のおさらいではありますが、不登校であった娘には初めてで(いえ、昨年しっかり私が教えたはずなのですが354354)。

それに世界地理、歴史の中にも世界史が加わり、「地理+日本史+世界史」のようなもので、気の毒になりキティちゃん(|i|i|)、つい「私がキラキラキラキラ」勉強しております。



そこでの発見はまた新たに述べさせていただくとしてー


そして、19世紀全体とその後もまだまだ述べさせていただくとしてー

(それがどのように現代の国際政治に結びつくまで持って行くために書いていたので)

 

 

これをずっと書いている間、「あれも解説したいしー、これも解説したいしー」ということが山ほどあったのですが、ぐっと押さえておりました。

 

 

 

やっと昨日ぐらいから日本で「ISの兵士が大量投降」とニュースに出ていますが、何を今さらやれやれ

相撲界のトラブル、日大アメフト、ボクシング連盟会長の権力乱用(今朝は全く同時間に日テレ・TBS・フジ・テレ朝がこれをやっていましたね。ここまで揃うと笑えます。私はTV東京の韓流ドラマを見ておりました嬉しいw)、国会議員の不倫、芸能人の不倫、アイドル・人気俳優の結婚・・・こういったことばかりがニュースで繰り返される。

 

 

だいたいこういうときは

「日本のニュースで伝わって来ないけれど、何か重大ニュースを発表できないでいるな・隠しているな」
と考えて間違いありません。

 

 

異様なバブルが起こっている国々

アフリカで続く激しい戦争

新たな資源大国

毎日2000人弱!「誘拐」され治安が悪くなってしまった国・・・

 

 

 

昨年もタイトルからすぐに探せないようなところでさらっと述べさせていただいているのですが、(今回もですねキャハハ
「そもそもIS自体がやらせ」

なのです。

その証拠もオシントで充分に出ています。

 

「『悪』を仕立て上げ国際世論で責める」やり口は非常に多いですね。

 

 


簡単に諜報活動(インテリジェンス Intelligence assesment)について説明しますね。
オシント OSINT open source intelligence

公開情報  誰でもアクセスできる新聞・ニュース・論文から得られる情報   

 

ヒューミント HUMINT human intelligence

人から得る情報 仲間同士、敵同士の貸し借り、時には弱みを握って情報を持ってこさせる

 

シギント SIGINT signals intelligence 

通信や信号から得る情報  盗聴・暗号・潜水艦の音の傍受など

 

 

そもそもインテリジェンスという言葉は「行間を」読むという意味なのです。

万人が知ることのできる情報の中で、価値ある意味を見いだせるか。

 

 

例えば、実際に報道されている内容と異なった状況を示す写真・映像であったり、

 

1つの事件を数カ国のニュースを照らし合わせて

「自国に都合のよい(敵国を罵る・信憑性に欠ける・自国民を秘密にし騙しておきたい)内容」か

「ほとんどの国で共通している(恐らく本当と思われる)内容」か

 

で精査できることなど。

 

 

日本ではアメリカ・イギリス・フランスなどに都合のよい内容が圧倒的です。

情報源が偏っている。
そして、日本の報道機関が未だに自主規制をして、それらの国の顔色を伺っているという訳です。



あと、

6月の米朝首脳会談

中国の南太平洋&アフリカ進出

防衛省の「日報」隠蔽問題
「TPP」の怖さ

数週間前の「『西郷どん』スペシャル」

 

などなどもお話したかったのですが。

 

本日はここまでにしておきますねキティちゃん×汗

19~20世紀にも戻らないとにゃ



 

 


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大英帝国の19世紀と称しながら、ここ3回はオスマン帝国を中心に中東・北アフリカ・バルカン半島の情勢について書いてきました。

19世紀に実に多くの戦争を繰り返したイギリス。

ここでは書いておりませんが、北米でもアフリカ大陸でも行っています。

 

清(中国)では徹底的な破壊・殺害が繰り返され、やがてそれは中国内部から異国と異民族王朝を倒す動きと発展していきます。

イギリスは中国で奪うべきものを奪った後、次に目を付けたのは中国人を異国に働きにいかせるという事実上の奴隷貿易を行いました。

北米では黒人の奴隷貿易が世論上反対される中、まだまだフロンティアの開発に多くの人材が必要でした。
そのための代わりの人材として、ダイナマイトを扱うような危険な仕事を中国人にやらせたのです。
それ以前に渡航中に亡くなる人も少なくなかったのです。

こうして世界に散らばった中国人は華僑となっていきました。

イギリスの直接統治下になったインドでも、多くの人が印僑として海外で働く人材となりました。

アフリカの「ナイジェリア」、南太平洋の「フィジー」など、「あれ?」と思うようなところに偏って多いインド系の人が多いところはそういった由縁です。

 

また、勇猛なインド人はイギリスの戦闘の先陣で戦わされる兵となりました。
彼らは戦いたかった訳ではありません。
「アヘン戦争、太平天国の乱に参加したら、独立・解放される」

と言われていたのです。

これは第2次大戦の時もそのように言われ、マレー・シンガポールなどで先陣に立たされました。

 

多くの戦利と引き換えに、イギリスはイギリス兵の命や損害も被っていました。
日本が武力によってではなく、経済的に丸め込まれ、いずれは傀儡国にしようと目論んでいたとは言われ、かなりラッキーであったと言えるでしょう。

 

 

そんな戦争を繰り返していたイギリスが、19世紀に1つの大きな転換を迎えます。

それがオスマン帝国を味方することを口実に乗り出したロシアとの戦い「クリミア戦争」でした。

 

 

日本では徳川慶喜が初めて手に取るカメラに大喜びしていた時-イギリスでは海底電信のおかげで戦況が刻一刻伝えられるようになったのです。それもカラーで、です。
 

ほぼライブで伝わる戦況にイギリス人は夢中になり、おかげで識字率も向上したほどです。
正確な写真は、ロシアに有利に働くこともあり、ヴィクトリア女王も歯がゆい思いをしたようです。



そしてもう1つ、軍事医療の改革です。

かのナイチンゲールはこのクリミア戦争で看護師として活躍した人なのです。

もともと裕福な家庭に育った彼女は、両親から与え得る教育を受け、いくつもの語学にも長けていました。
その彼女はクリミア戦争に向かった際には、イギリス軍は

「女性がいると軍の風紀が乱れる」

と、兵の看護を拒否しました。

そして、彼女がやらせてもらえたのがトイレ掃除だったのです。

それでも彼女は挫けず、そこを軍の突破口とし、看護をするように至ります。
彼女は兵士が戦闘の負傷で亡くなるよりも、その後治療が施されずに放置されていました。

ロシアよりフランスより、イギリス人兵士が一番多く「壊疽」になっていました。

また、衛生的ではない環境で感染症が多く発生していました。

 

 

このような環境の中、彼女は敵・味方区別なく看護にあたったのです。

よくこのような女性を女性性のみをクローズアップし「優しい」「献身的な愛」と表現しますが、彼女は非常に聡く精神的にも強い人でした。

帰国後、戦地での負傷・看護の諸処のケースをグラフにし、プレゼンしたのです。

男性社会で明らかな差別を受けても、それに耐え、その間に状況を見抜き、いざという時に真価を発揮。

そして、その後内容を統計学を駆使し、納得させる…そのくらい優秀なビジネスパーソンだったのです。

彼女の職業の1つとして「実業家」とあるのもよくわかりますね。

これを機に世界中で軍事医療の在り方が見直されるようになり、兵舎病院、陸軍の衛生改善が行われ始めたのです。

 


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19世紀、盛んに世界進出に繰り出すイギリス。

 

中国でのアヘン戦争・太平天国の乱・第2次アヘン戦争、イギリスでのシパーヒーの乱という大きい戦いだけでなく、もう1つ大きい戦争に乗り出しています。

(いったいどれだけ戦争しているのか?この「大英帝国のー②」に戻ってもう一度確認しましょう!

戦争にしても、海軍力保持にも非常にお金がかかります。

このお金を捻出するのに利用したのが「アヘン売買」ということです。) 

 

 

オスマン帝国は地図でご覧いただければおわかりのように、後にロシア・ソ連領、現ウクライナ領となっている黒海の北側も領有していました。この地をめぐる争いで、オスマン帝国とロシアは幾度となく争いが続きます。

 

黒海北側にある「クリミア半島」はロシアにとって、地中海へ出るための大切な「不凍港」、軍事基地です。

ソ連が瓦解し、次々に旧ソ連領から独立国が登場しましたが、クリミアを含め大切な軍事基地・宇宙基地などは未だロシアの飛び地となり、ロシアの管轄下にあります。

カザフスタンのバイコヌール宇宙基地(←元はICBMの発射基地でした)もロシアは年間使用料を支払い、租借しています。

 

もう一度前々回のブログ、オスマン帝国内の独立運動とロシアの南下について見直して下さい。

「東方問題」です。

 

ここにおいてロシアとオスマン帝国との戦いが2度起こります。

 

1度目は「クリミア戦争」(1853年3月~1856年3月)です。

 

 

1853年、ロシアはオスマン帝国領内のギリシア正教徒の保護の名目で侵入します。

しかし、イギリス・フランス・サルデーニャ王国がオスマン帝国側につき、ロシアは破れます。

近代史上、大規模な戦争となり、両側に多くの死者を出しました。

 

 

次は「オスマン・ロシア戦争(露土戦争)」(1877年4月~1878年3月)です。

 


ロシアはオスマン帝国に勝ち、「サン=ステファノ条約」を結びます。

この条約でブルガリアの自治と、オスマン帝国領内のルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立が認められます。

こうしてロシアはバルカン半島へ勢力拡大を果たします。

ここまでくれば地中海への出入りも簡単になります。

 

 

これを黙って見過ごすをヨーロッパ列強ではありません。

 

1878年「ベルリン会議」を開きます。

イギリスとオーストリア(当時は今より大帝国で広大な領土を持っていました)が「サン=ステファノ条約」に反発し、ドイツのビスマルクを調停役とし、ロシアの南下を阻止しました。

「ベルリン条約」において

 オーストリア ボスニア・ヘルツェゴビナ

 イギリス    キプロス島

 

の領有が認められました。


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日本はお隣の中国(清)の状況を聞き、急ピッチで近代化を図っていきます。

このようにオスマン帝国も自国内の独立問題を多々抱え、その都度ヨーロッパ列強が介入してくるようになると、国政を変えヨーロッパに負けない強国を目指すようになりました。

 

この改革を「タンジマート」と呼び、トプカピ宮殿のギュルハネ(ばら宮)で発表された内容を「ギュルハネ勅令」と言います。

 

 

写真は1839年、ギュルハネ勅令を発表している外務大臣ムスタファ・レシト・パシャ。

タンジマートとは「タンジマーティ・ハイリエ」の略語で「恩恵改革」の意味です。

神権国家から法治国家を目指し、中央集権から官僚制度を整え、西欧諸国を味方にするためにも「非ムスリムの権利」を認めたものです。

 

非ムスリムーキリスト教徒を不当に扱っていると他国から内政干渉されないためでした。

特にロシアはそれを口実に南下を目論んでいました。

 

オスマン帝国と日本の歴史は非常に似ているのです。

ヨーロッパ列強に近く、地続きであるが故、オスマン帝国の方が日本よりずっと過酷ではありました。

 

西洋化・近代化運動はお隣の中国の洋務運動より、日本の明治維新より、オスマン帝国が先でした。

 

 

 

明治になり、日本は富国強兵と陸軍・海軍ともに力を入れ、実際に戦争を体験することになりますが、オスマン帝国も兵力に力を入れました。海軍は日本を表敬訪問に訪れたこともあります。

最近の日本ではかなり知名度が上がりましたが、天皇に表敬訪問した後、エルトゥールル号は和歌山沖で沈没しました。
かなり古い艦、トレーニングにできていない海兵で台風の時期に動いてしまったからです。
1890年(明治23年)9月11日、遭難。500名以上の犠牲者を出しました。
 

台風にあおられ、岩礁に激突。

機関部に浸水し、水蒸気爆発を起こしたのです。

この時、地元の日本人たちが手厚く救助に当たったのです。

 

台風の時期で、漁業で成り立つその村も十分な食料の蓄えがありませんでした。

しかし、できる限りの食料を持ち寄り、冷えた体を寄り添って温め、「大切なものだろう」と海からできる限りの品を拾い集めました。

当初、日本人が窃盗をしようとしていると誤解したトルコ人たちでしたが、日本人は破れた衣類は縫い、金属類は磨いて保管していたのです。

当時の一般の日本人はトルコ人もオスマン帝国も知りません。

ただ、人道上懸命に尽くしたのです。

そして、日本海軍が生存者をイスタンブールに送り届けました。

 

以来、このことは「エルトゥールル号事件」としてトルコの人たちの間で語り継がれ、とても親日な国となりました。

 

 

それから約100年近く経った1895年、イラン・イラク戦争の時です。

イラクのサダム・フセインがイランの上空の航空機の無差別攻撃宣言をしました。

各国の航空機がイランに残る自国民のための臨時便を出す中、日本だけは邦人救出のフライトを出せないでいました。

自衛隊には法制上制限があり、日本航空の乗員はストライキを起こし運航を拒否しました。



この窮地に、イランに残るトルコ人を助けに行ったトルコ航空は、自国民を歩いて帰国させ日本人を運んでくれたのです。

エルトゥールル号の事件を恩に感じていたトルコは、まさにこの時恩返しをしてくれたのです。

 

 

この話は本としても映画としても有名になっています。

最近のものでは2015年に公開された「海難1890」が有名です。

ぜひ、ご覧になってみて下さいね。


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前回まででイギリスの中国での戦争、インドの植民地化を見て来ました。

ここまでで「充分おなかいっぱいショボーン💦」だと思われますが、この時代、イギリスはまだまだ戦争をしているところがありました。

 

現在のトルコを中心にして存在した「オスマン帝国」への介入です。

(私が高校生の時は「オスマン=トルコ」と呼称されていましたが、その当時はトルコと言われてなかったということで、現在は「オスマン帝国」になっています。)

 

オスマン帝国は13世紀末に小アジア半島で起こり、16世紀の第10代皇帝のスレイマン1世の時に最盛期を迎えます。

長い歴史を持っている国です。

非常に高度な文化を持ち、優れた人間なら人種を問わず官吏に採用する柔軟性を持っていました。

 

 

 

 

領土最大時には西アジアだけでなく、北アフリカ、そして東ヨーロッパをも支配していました。

 

 

今の時代、「トルコ」と言えば小アジア半島にある国ですが、どうでしょう?

オスマン帝国は現在は別独立国になっているところまで支配が及ぶ大国だったのです。

 

ヨーロッパの人にとり、

 

・732年にはウマイヤ朝が「トゥール・ポワティエ間の戦い」でフランク王国まで攻め込んで来たり、

・イベリア半島(現在スペインやポルトガルのある)もイスラム勢力である後ウマイヤ朝(756~1031)があったり、

・近代には東ヨーロッパ(主にスラブ諸国のあたり)がこのオスマン帝国領

であったので、

「イスラム」「イスラム勢力」「イスラム教徒」にナーバスになるのももっともなのですキョロキョロ

 

 

ロシアが帝国として安定・拡大してくると、ロシアとオスマン帝国を黒海を挟み、領土争いを何度も起こします。

ロシアとしては、「不凍港」を持ち、「地中海へ進出」したくなります。 →ここで解説しています

 
 

 

 

地中海へ出て来られては迷惑なのがイギリス・フランスでした。

そのため両国はしばしばオスマン帝国側につき、ロシアと対峙します。

 

19世紀になると国民主義の影響を受け、民族解放運動が盛んになります。

オスマン帝国から次々に独立国が登場します。

領土が広大で様々な民族と宗教を内包しており、常に危機をはらんでいました。

 

1798年にナポレオンが、当時「敵」と見なしていたイギリスがインドへ行き来するエジプトに遠征します。

オスマン帝国はアルバニアのムハンマド=アリーに追い払わせ、彼をエジプト総督にします。

 

 

フランス革命の影響を受け、ヨーロッパの国民国家の統一・独立を促す考え方は、ギリシアに強く反映し、1821年、ギリシア独立戦争が起こります(1821~29)。

 

ギリシアの思想・芸術を自分たちの文明の始祖と見なすヨーロッパは、ギリシアのオスマン帝国からの独立を支援します。

イギリス・フランス・ロシア、それぞれが特別な国だけがこの地に影響を及ぼすことをきらいました。

 

オスマン帝国はエジプトに支援を頼み、

 

オスマン・エジプト vs イギリス・フランス・ロシア の戦い

 

となりました。

 

1829年、ギリシアはオスマン帝国から独立を果たすことができました。

 

すると戦いに協力したエジプトがイスラエル・ヨルダンの地域(この地域を現在はシリアとは別、エジプトの東北地域をシリアと呼びました)をオスマン帝国に要求するようになりました。

オスマン帝国内のエジプトであったはずが、次第に自己主張をするようになってきたのです。

 

 

1831年、第1次エジプト・トルコ戦争が起こります。

オスマン帝国の昨日の敵、ロシアに援軍を頼みましたが、負けてしまいます。

 

1839~40年、第2次エジプト・トルコ戦争が起こります。

エジプトが強くなりすぎることに、ヨーロッパ列強も警戒します。

まだスエズ運河ができる前ですから、インド・アジアへはこの地を通らなくてはなりません。

 

フランス・エジプト vs オスマン帝国・ロシア・イギリス・プロイセン の戦い

 

となります。

 

 

少し複雑ですか?

要は

・オスマン帝国各地から独立運動が起こる

・ロシアは不凍港の獲得のため、南下したい

・イギリスはロシアの南下に警戒、植民地インドへ通じる道を常に確保する必要がある

・フランスはイギリスの動きに敵対

です。

 

 

1840年、ロンドン会議にて

オスマン帝国はアリー一族の世襲王権を認める

エジプトはシリア(先に記したようにエジプト東北のイスラエル・ヨルダン地域)を手放す

 

ことでエジプトは独立を認められ、独立君主国ムハンマド=アリー朝エジプトとなりました。

 

 

 

このようなオスマン帝国領内で帝国に支配されていたギリシア・エジプト・スラブ人(←主にバルカン半島にいます)などの独立意識が高まると、ヨーロッパ列強が介入して来ました。

 

これを「東方問題」と言い、バルカン半島の問題は第1次世界大戦の要因にもなって行きます。

 

 

 

 

 

 


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次々とイギリスの植民地化されていったインド。

中にはインドに抵抗し戦い、「インドのジャンヌ=ダルク」と呼ばれ女性もいました。

 

ジャーンシー王国の王妃、ジャーンシー=バーイー、23歳の若さでした。

彼女の故郷も結婚先の王国もイギリスに支配され、彼女は反乱軍の戦闘に立ちました。

敵からも讃えられるほど美しく勇敢でした。

この戦いで彼女は命を落とします。

 

イギリスに雇われていたインド人の傭兵・シパーヒーはヒンドゥー教徒・イスラム教徒両方おり、能力も高く優秀な人たちでした。

このシパーヒーたちが反乱を起こし、インド全土で大混乱を起こしました。

 

そのきっかけは1857年、彼らに配られたエンフィールド銃という新式の銃でした。

 

この銃では弾と火薬をセットにし、一方ずつ包まれており、装填時に歯で噛み破る必要がありました。

当時の銃は銃口から弾と火薬をこめる前装式(先ごめ式)でした。

そして、その中に牛と豚の脂がしけるのを防ぐために使われていました。

 

ヒンドゥー教徒にとって「牛」とは神の乗り物、神聖なもの

 

 

イスラム教徒にとって「豚」とは不浄なもの

 

 

それを口にしろというのですから、イギリスに雇われていた彼らにも宗教的禁忌であり、強い抵抗感を生じたのです。

インド各地で起きていたイギリスへの反乱が、彼らが年金暮らしで象徴的存在であったムガル皇帝を反乱のシンボルに担ぎ出したことで「全インド反乱」となりました。

民族的反抗運動となったのです。

 

この1857年の大反乱が「シパーヒーの反乱」と言います。

「セポイの反乱」の方が通じやすいかもしれませんね。

 

インド北部の都市カーンプルで500人以上ものイギリス人が殺害されると、援軍を送られ(この時代あちこちで戦争をしていたイギリスは、なかなか兵を回ることに苦慮していました)増兵したイギリスは、報復としてインド各地で放火・無差別大虐殺が行われました。

 

捕まえたインド人を大砲の先に縛り、それを吹き飛ばすという処刑方法を楽しんでいたのです。

 

イギリスはこの鎮圧のためインド人を大虐殺し、ムガル帝国を滅ぼしました。

ムガル皇帝バハードゥル=シャー2世は退位させられ、1862年、ビルマ(ミャンマー)のラングーン(ヤンゴン)に流刑となり、生涯を終えました。

 

1858年1月、これまでのイギリスの東インド会社当地ではなく、イギリスがインドを直接統治するようになります。

それから約20年を経た1877年、イギリス領インドは「インド帝国」となり、ビクトリア女王が初代皇帝となります。

イギリスはケシ(アヘンを作るための花)、綿花、茶などの商品作物をインド農民に強制栽培させました。

 

このインドのイギリスによる植民地統治は、マハトマ=ガンディー登場の1947年まで続きました。

 

 


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17世紀、イギリスはインドを足掛かりにアジアへの進出を始めました。

17世紀末にはカルカッタ・ボンベイに商館を作りました。

 

18世紀になるとイギリスだけでなくフランスもインドへ進出し、しばしば両国は衝突しました。

インドは彼らにとって魅力的なものがたくさんありました。

 

胡椒・綿花・香料・藍・真珠・宝石…

 

1757年、「プラッシーの戦い」でイギリス(イギリス東インド会社)軍は、フランス・ベンガル太守の連合軍を破り、インドからフランスを駆逐しました。

 

 

 

インドには1526年に建国された「ムガル帝国」(1526~1858)というイスラム国家がありました。

ティムール朝(ティムール帝国)のバーブルによって建国された国で、バーブルがモンゴル人の子孫だったため、ペルシア語でモンゴルを意味する「ムガル」と名付けられました。

 

 

最盛期にはほぼ全インドを統治していましたが、18世紀になると力が弱まり、小さい国に分裂してしまいました。

これを藩王国といい、ムガル帝国は藩王たちの同盟を結んだ集合体となっていました。

 

 

イギリスは本来ムガル皇帝の持つ税金を集める権利「租税徴収権」を獲得し、藩王たちはイギリスから「年金」をもらって暮らしていました。

そして、日本の「藩」に後継ぎがいないと「お家取りつぶし」があったように、ムガル帝国内の「藩」も直系後継ぎがいないとイギリスに潰されました。

こうしてイギリスはインド各地を植民地化していきました。

 

それだけに留まらず、イギリスは農民にアヘンや茶といった輸出用の農作物を作らせます。

また、以前は綿花で作られた布をインドから購入していましたが、18世紀後半に産業革命を迎えていたイギリスは機械で織った布を逆にインドへ買わせていました。

 

その流通のためにインド国内に鉄道を敷いていました。

1853年、ボンベイからアジア初の鉄道が敷かれました。

 

また、イギリスはインド社会の中で比較的身分の高いカースト(インドの身分制度)から、傭兵を用いました。

傭兵とは雇う兵士です。

イギリス東インド会社に雇われたインド人兵士を「シパーヒー(セポイ)」と言いました。

これはペルシア語で兵士を意味します。

彼らはあっという間に200万人を越しました。

 

イギリスに雇われているので、イギリスの植民地支配のために戦う存在でした。


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みなさまだいぶご無沙汰しております。

「大英帝国の19世紀」シリーズ、4月中にインドや中東の辺りまでとっくに下書きはできていたのですが、相変わらずパソコンも私も💦不調の日々でございます。

 

1年で一番活動しやすい時期なのですが・・・。

 

春休みもGWも寝込んでおり娘をどこにも連れて行ってあげられなかったので、13日、彼女の行きたがっていたK-POPの聖地「新大久保」に行ってまいりました。

新宿で一緒にお買い物を楽しみ、食事をし、コリアンタウンへ。

その後、久しぶりに外出した私は、かねてより行きたかった上野の東京国立博物館で開催されている「サウジアラビア王国の至宝」展にも参りました。

 

 

 

実はこちら会期が延長されたもので、本来なら見逃していたものなのですが、ジャスト13日までの展示でした。

 

一昨年「黄金のアフガニスタン~守り抜かれたシルクロードの秘宝~」展では、これまた久しぶりの外出だったのですが、暑い中上野の山を歩き回り、日本橋で思考が停止。

浅草という私にとってはアウェイの地で倒れてしまったことがありました。

 

ですので、今回は雨降りということもあり、無理せずタクシーも利用しました。

 

アフガニスタンにしても、サウジアラビアにしてもなかなか行くのが難しい地です。

集約された秘宝があるなら、ぜひ日本で見たいものラブ

 

サウジアラビアは治安や情勢が悪いとは申しませんが、イスラム教の中でもかなり厳格な「ワッハーブ派」であります。

異国のものからすると「何が罪に値するのか」非常にわかりにくいのです。

 

旅行者もビジネスマンも重々用心すべき国なのです。

お酒はアウト、音楽・写真集など異国のものにとってはどこからがまずいものかわかりません。

 

また、その時の判断するものの心次第(ビジネス次第!?)で、通常許されていることで、監禁・刑を言い渡されることもあります。

非常に不確定なのです。

(現地のサウジアラビアのアッパークラスにはヨーロッパで【お酒も女性もOK】の「抜け道」もあります。)

 

イスラム国家には「シャリーア」(イスラム法)により、身体刑があります。

この国にもありまして、

「手首を切り落とすガーン

「掘った穴に人を入れて、頭だけが地表に出、そこを大勢の人が石を投げつけるという『石打の刑』ガーンガーン

公開「斬首刑」ガーンガーンガーン

などあります。

ブログで国家を批判したとされたブロガーは

「むち打ち1000回ガーンガーンガーンガーンガーン」。

 

恋愛がらみでは、

男性より女性の方が「たぶらかした、そそのかしたびっくり」と罪が非常に重くなる

ので、知らないで出かけるの危険ですよ。

女性の権利が著しく制限されているので、旅行でも父や夫などの男性保護者の許可が必要です。

 

裁判はわかろうがわかるまいがアラビア語で通され、そのまま刑が施行されます。

 

 

そういう点では安易に近づかない方がよさそうな国なのですキョロキョロ

表面上アメリカやイスラエルを敵視していますが、今一番リアル敵国はイラン。

そのためにはイスラエルとも手を組んでいますし、ISに出資している国でもあります。

そして、ここ数年続々と逮捕されるロイヤルファミリーたち。
「サウ-ド家のアラビア」という意のサウジアラビアでは、大臣・国のトップはロイヤルファミリーで構成されています。

「汚職を働いた」という逮捕理由ですが、そんなことは建前であり、石油問題が理由です。
(ちなみに一夫多妻制の国なので、王子だけでも1000人以上いますので・・・爆笑

 

 

さてさて、アラビア半島の圧倒的な面積を占めるサウジアラビア。

 

 

このアラビア半島にはいくつもの国が勃興していました。

100万年以上前のアジア最初の石器も展示されています。

 

この地域は陸路・海路を使って商人たちが通って行った交易路が張り巡らされています。

そして、イスラム教が興ってからは、メッカ(マッカ)への巡礼の道も整備されていきます。

 

 

 

 

 

今回の展示では写真撮影可でしたので、たくさん撮らせていただきました。

「カーバ神殿の扉」「サウジラビア王国建国した王の刀」「黄金のコーラン」など素晴らしい展示も400点以上ありました。

 

 

 

 

アロマセラピーをなさる方はよくご存じ、この地は没薬(ミルラ)・乳香(フランキンセンス)などの産地でもあります。

大変高価なもので、古代より宗教儀式に使われて来ました。

 

 

エジプトの墳墓からも出てきていますが、「東方の三博士」がキリストの誕生の際の贈り物に、この「乳香」と「没薬」と「黄金」を贈ったことでよく知られていますね。

 

現在の中学の社会科では「地理と歴史」が交互で行われています。
中学1年になった娘には世界地理や世界史は初めての内容。

 

大雑把で構わないので、「イスラム」「アラビア」「砂漠」など、掴んでくれたらいいなと思っていました。

展示の内容自体は非常に高度ですが、結構まじめに見てくれていましたラブラブ

 

 

 


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怒り狂った英仏(それはそうです、正式な使節団を騙して誘導・監禁し、残虐な拷問を加えた後、遺体を放置しておいたのです。夏場なので遺体は腐乱し、ウジがわいています。)は、皇帝の離宮である「円明園」のものを強奪した後、焼き尽くしました。

 

 

この中には太平天国鎮圧に協力したあの常勝軍のゴードンもいました。

ゴードンは第2次アヘン戦争(1856~60)のためイギリスから派遣され、1860~62年まで北京にいました。

その後、太平天国からの防衛のため、上海へ派遣されます。
(その後、彼はエジプト・スーダン・ベルギー・コンゴ・インドなど、実に様々な地域に赴くことになります。)

 

 

「円明園」とは西洋の技術の結集である、西洋庭園です。中国風庭園の片隅にありました。

13年の工期を費やし、1760年にできたものでした。

 

世界文化遺産になっています。すべて残っていたらどんなに素晴らしいものだったか・・・。

 

清に布教で訪れていた宣教師のカスティリオーネ(中国名・老世寧(老西寧))が、古代ギリシアの彫刻や、ベルサイユ宮殿をもとに、建物を設計しました。

 

清が最大領土となった時の皇帝・乾隆帝は文化・芸術を愛し、中華のものだけでなく西洋のものも多く取り入れました。

噴水と時計を掛け合わせ、12支の像の作り、定刻になるとその口から水が流れ出しました。

 

主にフランスが強奪をし、イギリスが「捕虜殺害の報復」として焼き放ち、互いに批難し合いました(;^_^A

 

 

この行為を非常に野蛮と憂いた知識人はヨーロッパにも多くいました。

 

「アヘン戦争」でのキーポイント・試験によく出るところは

・三角貿易であったこと

・清は開港させられ(第1次で5港、第2次で10港)、不平等条約を結ばされたこと

・香港を割譲させられたこと

・「円明園」の消失

 

この4番目、意外に大事なポイントです。

西洋人が西洋文化の極致を自らが破壊したからでしょう。

 

 

 

1860年、清はイギリス・フランスと北京条約を結びました。

 

・天津(←北京に近い港です)の開港

・イギリスへ香港・九龍半島の割譲

・中国人の渡航許可

 

この3番目、何が問題かおわかりになりますか?

一見、中国人が自由に海外に出かけられるよいことのように見えます。

これは新たな商売、中国人の労働力売買貿易「苦力」の輸出です。

 

奴隷貿易が禁止されると、ヨーロッパやアメリカでは労働者が不足しました。

劣悪な労働環境に中国人の輸出をはじめるのです。

航海中に死亡することもあり、現地でも危険な作業は白人に代わりに中国人にさせました。

大陸横断鉄道の建設がその例です。

爆破作業は中国人苦力にさせ、白人は監督していました。

 

苦労した中国人労働者はやがて各地で「チャイナタウン」を建設し、結束してことになります。

 

 

 

1860年と言えば、日本では「桜田門外の変」が起きた年です。

京では放火・暗殺で荒れに荒れていた頃です。

日本が長い間憧憬してきた大国・中国でこのようなことが起きていることを知るや、開国かどうかで悩むのももっともでした。


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さらなる市場の拡大を川を上って「内陸」に求めていたイギリスに口実ができました。

というより無理やり作りました。

 

 

 

 

広州沖に停泊中のアロー号に清の役人が乗り込み、中国人船員12人のうちの3人を海賊容疑で逮捕をしました。

これをイギリスは

「国旗が辱められた」

と、広州を攻撃し始めました。

 

 

実際にはー

アヘン戦争後、不平等条約で中国人がイギリス船籍に勝手に入れないことを商売にしていました。

「イギリス船籍」という一筆を中国人に売り、中国人がアヘン密輸や人身売買にそれを利用していたのです。

その通報を受けた広州の役人が、アロー号に乗り込んだのです。

船籍期限切れの「イギリス船籍」の紙が落ち、国旗も掲げられてはいませんでした。(イギリス側は本当に期限切れに氣づかなかったよう)

 

 

また、フランスは宣教師一人が殺害されたことを事由に清朝に抗議し、イギリスと一緒に戦争を始めました。

そのフランス人宣教師はそれまでにも布教禁止と逮捕されたことがありました。

が、また繰り返したので惨殺されたのでした。

 

ここにアロー号事件、アロー戦争、第2次アヘン戦争(1856~60年)が起こります。

アメリカとロシアは参戦しませんでしたが、既に得ていた南京条約の改正には参加を表明しました。

 

1858年、清は両国に負け、「天津条約」を結ぶことになります。

 

 

・賠償金の支払い

・10港の開港

・キリスト教の布教の許可

・外交官の北京駐在

・外国人の中国国内旅行・貿易の自由、治外法権

・外国艦船の揚子江航行の自由

 

ところが1859年、英仏の批准書を持った使節団が北京へ向かうところを清側のセルゲリンチン将軍(モンゴル人、チンギス=ハンの子孫)に阻害され上海へ後退します。

 

その翌年1860年、英仏軍が再度進軍したところ、清は英仏使節団をだまし、監禁し拷問を始めました。

11名の死者も出ました。

これに怒り狂った英仏は、さらなる勢いで中国で強奪・婦女暴行・虐殺を始め、北京へ向かうのです。

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