BEYOND BORDERS

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時空も超える!

歴史・政治・地理・文化など学び、実際にその地に行き検証したくて高校時代に航空会社に入社を決意!!
留学・海外暮らしの経験のない私が、そこから語学を猛勉強アップ

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次々とイギリスの植民地化されていったインド。

中にはインドに抵抗し戦い、「インドのジャンヌ=ダルク」と呼ばれ女性もいました。

 

ジャーンシー王国の王妃、ジャーンシー=バーイー、23歳の若さでした。

彼女の故郷も結婚先の王国もイギリスに支配され、彼女は反乱軍の戦闘に立ちました。

敵からも讃えられるほど美しく勇敢でした。

この戦いで彼女は命を落とします。

 

イギリスに雇われていたインド人の傭兵・シパーヒーはヒンドゥー教徒・イスラム教徒両方おり、能力も高く優秀な人たちでした。

このシパーヒーたちが反乱を起こし、インド全土で大混乱を起こしました。

 

そのきっかけは1857年、彼らに配られたエンフィールド銃という新式の銃でした。

 

この銃では弾と火薬をセットにし、一方ずつ包まれており、装填時に歯で噛み破る必要がありました。

当時の銃は銃口から弾と火薬をこめる前装式(先ごめ式)でした。

そして、その中に牛と豚の脂がしけるのを防ぐために使われていました。

 

ヒンドゥー教徒にとって「牛」とは神の乗り物、神聖なもの

 

 

イスラム教徒にとって「豚」とは不浄なもの

 

 

それを口にしろというのですから、イギリスに雇われていた彼らにも宗教的禁忌であり、強い抵抗感を生じたのです。

インド各地で起きていたイギリスへの反乱が、彼らが年金暮らしで象徴的存在であったムガル皇帝を反乱のシンボルに担ぎ出したことで「全インド反乱」となりました。

民族的反抗運動となったのです。

 

この1857年の大反乱が「シパーヒーの反乱」と言います。

「セポイの反乱」の方が通じやすいかもしれませんね。

 

インド北部の都市カーンプルで500人以上ものイギリス人が殺害されると、援軍を送られ(この時代あちこちで戦争をしていたイギリスは、なかなか兵を回ることに苦慮していました)増兵したイギリスは、報復としてインド各地で放火・無差別大虐殺が行われました。

 

捕まえたインド人を大砲の先に縛り、それを吹き飛ばすという処刑方法を楽しんでいたのです。

 

イギリスはこの鎮圧のためインド人を大虐殺し、ムガル帝国を滅ぼしました。

ムガル皇帝バハードゥル=シャー2世は退位させられ、1862年、ビルマ(ミャンマー)のラングーン(ヤンゴン)に流刑となり、生涯を終えました。

 

1858年1月、これまでのイギリスの東インド会社当地ではなく、イギリスがインドを直接統治するようになります。

それから約20年を経た1877年、イギリス領インドは「インド帝国」となり、ビクトリア女王が初代皇帝となります。

イギリスはケシ(アヘンを作るための花)、綿花、茶などの商品作物をインド農民に強制栽培させました。

 

このインドのイギリスによる植民地統治は、マハトマ=ガンディー登場の1947年まで続きました。

 

 


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17世紀、イギリスはインドを足掛かりにアジアへの進出を始めました。

17世紀末にはカルカッタ・ボンベイに商館を作りました。

 

18世紀になるとイギリスだけでなくフランスもインドへ進出し、しばしば両国は衝突しました。

インドは彼らにとって魅力的なものがたくさんありました。

 

胡椒・綿花・香料・藍・真珠・宝石…

 

1757年、「プラッシーの戦い」でイギリス(イギリス東インド会社)軍は、フランス・ベンガル太守の連合軍を破り、インドからフランスを駆逐しました。

 

 

 

インドには1526年に建国された「ムガル帝国」(1526~1858)というイスラム国家がありました。

ティムール朝(ティムール帝国)のバーブルによって建国された国で、バーブルがモンゴル人の子孫だったため、ペルシア語でモンゴルを意味する「ムガル」と名付けられました。

 

 

最盛期にはほぼ全インドを統治していましたが、18世紀になると力が弱まり、小さい国に分裂してしまいました。

これを藩王国といい、ムガル帝国は藩王たちの同盟を結んだ集合体となっていました。

 

 

イギリスは本来ムガル皇帝の持つ税金を集める権利「租税徴収権」を獲得し、藩王たちはイギリスから「年金」をもらって暮らしていました。

そして、日本の「藩」に後継ぎがいないと「お家取りつぶし」があったように、ムガル帝国内の「藩」も直系後継ぎがいないとイギリスに潰されました。

こうしてイギリスはインド各地を植民地化していきました。

 

それだけに留まらず、イギリスは農民にアヘンや茶といった輸出用の農作物を作らせます。

また、以前は綿花で作られた布をインドから購入していましたが、18世紀後半に産業革命を迎えていたイギリスは機械で織った布を逆にインドへ買わせていました。

 

その流通のためにインド国内に鉄道を敷いていました。

1853年、ボンベイからアジア初の鉄道が敷かれました。

 

また、イギリスはインド社会の中で比較的身分の高いカースト(インドの身分制度)から、傭兵を用いました。

傭兵とは雇う兵士です。

イギリス東インド会社に雇われたインド人兵士を「シパーヒー(セポイ)」と言いました。

これはペルシア語で兵士を意味します。

彼らはあっという間に200万人を越しました。

 

イギリスに雇われているので、イギリスの植民地支配のために戦う存在でした。


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みなさまだいぶご無沙汰しております。

「大英帝国の19世紀」シリーズ、4月中にインドや中東の辺りまでとっくに下書きはできていたのですが、相変わらずパソコンも私も💦不調の日々でございます。

 

1年で一番活動しやすい時期なのですが・・・。

 

春休みもGWも寝込んでおり娘をどこにも連れて行ってあげられなかったので、13日、彼女の行きたがっていたK-POPの聖地「新大久保」に行ってまいりました。

新宿で一緒にお買い物を楽しみ、食事をし、コリアンタウンへ。

その後、久しぶりに外出した私は、かねてより行きたかった上野の東京国立博物館で開催されている「サウジアラビア王国の至宝」展にも参りました。

 

 

 

実はこちら会期が延長されたもので、本来なら見逃していたものなのですが、ジャスト13日までの展示でした。

 

一昨年「黄金のアフガニスタン~守り抜かれたシルクロードの秘宝~」展では、これまた久しぶりの外出だったのですが、暑い中上野の山を歩き回り、日本橋で思考が停止。

浅草という私にとってはアウェイの地で倒れてしまったことがありました。

 

ですので、今回は雨降りということもあり、無理せずタクシーも利用しました。

 

アフガニスタンにしても、サウジアラビアにしてもなかなか行くのが難しい地です。

集約された秘宝があるなら、ぜひ日本で見たいものラブ

 

サウジアラビアは治安や情勢が悪いとは申しませんが、イスラム教の中でもかなり厳格な「ワッハーブ派」であります。

異国のものからすると「何が罪に値するのか」非常にわかりにくいのです。

 

旅行者もビジネスマンも重々用心すべき国なのです。

お酒はアウト、音楽・写真集など異国のものにとってはどこからがまずいものかわかりません。

 

また、その時の判断するものの心次第(ビジネス次第!?)で、通常許されていることで、監禁・刑を言い渡されることもあります。

非常に不確定なのです。

(現地のサウジアラビアのアッパークラスにはヨーロッパで【お酒も女性もOK】の「抜け道」もあります。)

 

イスラム国家には「シャリーア」(イスラム法)により、身体刑があります。

この国にもありまして、

「手首を切り落とすガーン

「掘った穴に人を入れて、頭だけが地表に出、そこを大勢の人が石を投げつけるという『石打の刑』ガーンガーン

公開「斬首刑」ガーンガーンガーン

などあります。

ブログで国家を批判したとされたブロガーは

「むち打ち1000回ガーンガーンガーンガーンガーン」。

 

恋愛がらみでは、

男性より女性の方が「たぶらかした、そそのかしたびっくり」と罪が非常に重くなる

ので、知らないで出かけるの危険ですよ。

女性の権利が著しく制限されているので、旅行でも父や夫などの男性保護者の許可が必要です。

 

裁判はわかろうがわかるまいがアラビア語で通され、そのまま刑が施行されます。

 

 

そういう点では安易に近づかない方がよさそうな国なのですキョロキョロ

表面上アメリカやイスラエルを敵視していますが、今一番リアル敵国はイラン。

そのためにはイスラエルとも手を組んでいますし、ISに出資している国でもあります。

そして、ここ数年続々と逮捕されるロイヤルファミリーたち。
「サウ-ド家のアラビア」という意のサウジアラビアでは、大臣・国のトップはロイヤルファミリーで構成されています。

「汚職を働いた」という逮捕理由ですが、そんなことは建前であり、石油問題が理由です。
(ちなみに一夫多妻制の国なので、王子だけでも1000人以上いますので・・・爆笑

 

 

さてさて、アラビア半島の圧倒的な面積を占めるサウジアラビア。

 

 

このアラビア半島にはいくつもの国が勃興していました。

100万年以上前のアジア最初の石器も展示されています。

 

この地域は陸路・海路を使って商人たちが通って行った交易路が張り巡らされています。

そして、イスラム教が興ってからは、メッカ(マッカ)への巡礼の道も整備されていきます。

 

 

 

 

 

今回の展示では写真撮影可でしたので、たくさん撮らせていただきました。

「カーバ神殿の扉」「サウジラビア王国建国した王の刀」「黄金のコーラン」など素晴らしい展示も400点以上ありました。

 

 

 

 

アロマセラピーをなさる方はよくご存じ、この地は没薬(ミルラ)・乳香(フランキンセンス)などの産地でもあります。

大変高価なもので、古代より宗教儀式に使われて来ました。

 

 

エジプトの墳墓からも出てきていますが、「東方の三博士」がキリストの誕生の際の贈り物に、この「乳香」と「没薬」と「黄金」を贈ったことでよく知られていますね。

 

現在の中学の社会科では「地理と歴史」が交互で行われています。
中学1年になった娘には世界地理や世界史は初めての内容。

 

大雑把で構わないので、「イスラム」「アラビア」「砂漠」など、掴んでくれたらいいなと思っていました。

展示の内容自体は非常に高度ですが、結構まじめに見てくれていましたラブラブ

 

 

 


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怒り狂った英仏(それはそうです、正式な使節団を騙して誘導・監禁し、残虐な拷問を加えた後、遺体を放置しておいたのです。夏場なので遺体は腐乱し、ウジがわいています。)は、皇帝の離宮である「円明園」のものを強奪した後、焼き尽くしました。

 

 

この中には太平天国鎮圧に協力したあの常勝軍のゴードンもいました。

ゴードンは第2次アヘン戦争(1856~60)のためイギリスから派遣され、1860~62年まで北京にいました。

その後、太平天国からの防衛のため、上海へ派遣されます。
(その後、彼はエジプト・スーダン・ベルギー・コンゴ・インドなど、実に様々な地域に赴くことになります。)

 

 

「円明園」とは西洋の技術の結集である、西洋庭園です。中国風庭園の片隅にありました。

13年の工期を費やし、1760年にできたものでした。

 

世界文化遺産になっています。すべて残っていたらどんなに素晴らしいものだったか・・・。

 

清に布教で訪れていた宣教師のカスティリオーネ(中国名・老世寧(老西寧))が、古代ギリシアの彫刻や、ベルサイユ宮殿をもとに、建物を設計しました。

 

清が最大領土となった時の皇帝・乾隆帝は文化・芸術を愛し、中華のものだけでなく西洋のものも多く取り入れました。

噴水と時計を掛け合わせ、12支の像の作り、定刻になるとその口から水が流れ出しました。

 

主にフランスが強奪をし、イギリスが「捕虜殺害の報復」として焼き放ち、互いに批難し合いました(;^_^A

 

 

この行為を非常に野蛮と憂いた知識人はヨーロッパにも多くいました。

 

「アヘン戦争」でのキーポイント・試験によく出るところは

・三角貿易であったこと

・清は開港させられ(第1次で5港、第2次で10港)、不平等条約を結ばされたこと

・香港を割譲させられたこと

・「円明園」の消失

 

この4番目、意外に大事なポイントです。

西洋人が西洋文化の極致を自らが破壊したからでしょう。

 

 

 

1860年、清はイギリス・フランスと北京条約を結びました。

 

・天津(←北京に近い港です)の開港

・イギリスへ香港・九龍半島の割譲

・中国人の渡航許可

 

この3番目、何が問題かおわかりになりますか?

一見、中国人が自由に海外に出かけられるよいことのように見えます。

これは新たな商売、中国人の労働力売買貿易「苦力」の輸出です。

 

奴隷貿易が禁止されると、ヨーロッパやアメリカでは労働者が不足しました。

劣悪な労働環境に中国人の輸出をはじめるのです。

航海中に死亡することもあり、現地でも危険な作業は白人に代わりに中国人にさせました。

大陸横断鉄道の建設がその例です。

爆破作業は中国人苦力にさせ、白人は監督していました。

 

苦労した中国人労働者はやがて各地で「チャイナタウン」を建設し、結束してことになります。

 

 

 

1860年と言えば、日本では「桜田門外の変」が起きた年です。

京では放火・暗殺で荒れに荒れていた頃です。

日本が長い間憧憬してきた大国・中国でこのようなことが起きていることを知るや、開国かどうかで悩むのももっともでした。


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さらなる市場の拡大を川を上って「内陸」に求めていたイギリスに口実ができました。

というより無理やり作りました。

 

 

 

 

広州沖に停泊中のアロー号に清の役人が乗り込み、中国人船員12人のうちの3人を海賊容疑で逮捕をしました。

これをイギリスは

「国旗が辱められた」

と、広州を攻撃し始めました。

 

 

実際にはー

アヘン戦争後、不平等条約で中国人がイギリス船籍に勝手に入れないことを商売にしていました。

「イギリス船籍」という一筆を中国人に売り、中国人がアヘン密輸や人身売買にそれを利用していたのです。

その通報を受けた広州の役人が、アロー号に乗り込んだのです。

船籍期限切れの「イギリス船籍」の紙が落ち、国旗も掲げられてはいませんでした。(イギリス側は本当に期限切れに氣づかなかったよう)

 

 

また、フランスは宣教師一人が殺害されたことを事由に清朝に抗議し、イギリスと一緒に戦争を始めました。

そのフランス人宣教師はそれまでにも布教禁止と逮捕されたことがありました。

が、また繰り返したので惨殺されたのでした。

 

ここにアロー号事件、アロー戦争、第2次アヘン戦争(1856~60年)が起こります。

アメリカとロシアは参戦しませんでしたが、既に得ていた南京条約の改正には参加を表明しました。

 

1858年、清は両国に負け、「天津条約」を結ぶことになります。

 

 

・賠償金の支払い

・10港の開港

・キリスト教の布教の許可

・外交官の北京駐在

・外国人の中国国内旅行・貿易の自由、治外法権

・外国艦船の揚子江航行の自由

 

ところが1859年、英仏の批准書を持った使節団が北京へ向かうところを清側のセルゲリンチン将軍(モンゴル人、チンギス=ハンの子孫)に阻害され上海へ後退します。

 

その翌年1860年、英仏軍が再度進軍したところ、清は英仏使節団をだまし、監禁し拷問を始めました。

11名の死者も出ました。

これに怒り狂った英仏は、さらなる勢いで中国で強奪・婦女暴行・虐殺を始め、北京へ向かうのです。


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イギリスのアヘンで世の中が乱れていた中国では

 

「天の上帝から『この世の悪魔と戦い、人々と平等に暮らせる地上の楽園を作る』」

 

と、キリスト教の教えをもとにした洪秀全の太平天国に、「平等」に惹かれ多く参加します。

 

1851年、広州から内陸に入った金田村から太平天国軍は勢いに乗り、長江まで迫りました。

時の皇帝、感豊帝は太平天国が

「土地を平等に与える」

というものですから、清国の正規軍「八旗(はっき)」を送り攻め滅ぼそうとします。

 

「八旗」とは、満州人(女真族)の兵制で、黄・白・紅・藍の4色にそれぞれの色に縁のついた4x2の8つの旗で区別されたものです。
各旗は300人=1ニル、5ニル=1ジャラン、5ジャル=1グサ(旗)という編成でした。

 

1853年、北上しながら仲間を増やしていった太平天国軍は200万人にもなり、南京を占領し「天京(てんけい)」と改名し、自分たちの首都としました。

 

皇帝は

淮南(わいなん)にいる李鴻章の「淮軍」

湖南省にいる曾国藩(そこくはん)の「湘軍」

といった義勇軍にも征伐を命じます。

 

太平天国の初期はリーダーに恵まれました。

が、1856年に内部分裂「同士討ち」が起こり、4万人が命を落とします。

 

そして清廉なはずの太平天国軍も、略奪や婦女暴行をするようになり、自称キリストの弟の洪秀全も歴代の皇帝がやっていたように、多くの女性をそばに置くようになり、乱れていきました。

 

清王朝は敵であった海外の力も借りて、この太平天国を滅ぼしにかかります。

「淮軍」「湘軍」・その他の義勇軍、さらに西洋の軍がつぶしにかかります。

 

当初は全て西洋人からなる洋槍隊でした。

それをアメリカ人ウォードが中国人兵士を傭兵にし、組織していきます。

 

このような司令官=西洋人、兵士=中国人の軍の中で一番活躍したのが、司令官がイギリス人チャールズ・ゴードンの部隊でした。
 
 
 
彼は行く先々で勝利してくので、異国人嫌いの西太后からも
Ever Victorious Army 常に勝つ軍
と称えられるようになったのです。
 
西洋の圧倒的な軍事力には敵わず、1864年鎮圧され、ここに「太平天国の乱」は終結しました。
洪秀全が拝上帝会を起こしてから20年後のことでした。
 
日本では「禁門の変」「下関戦争」「第1次長州征伐」のあった年です。→こちらのブログで書いています
 
西洋式の軍を間近で見ていた李鴻章は、西洋の科学技術や学問を積極的に取り入れて富国強兵を図るようになりました。
これを「洋務運動」と言います。
 
清の内部から国力を上げていこうとする動きが始まったのです。
 
 
 
 

 

 


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南京条約で得たものだけでは物足りなく、次の機会を伺っていたイギリス。
イギリスを見ていて、自国も利を得たいと思っていた他の列強諸国。

 

アメリカもイギリスに負けじとトルコでアヘンを栽培し、中国・清へ輸出しました。

イギリスのインド産に比べれば質が落ちますが、既に中毒になっていた清の人たちにとっては大差を感じません。

 

フランスはイギリスと同調し、第2次アヘン戦争・アロー戦争に参加します。

 

が、その前に中国・清では内乱がありました。「太平天国の乱」です。

 

アヘン戦争の賠償金でますます清の人民は苦しくなり、支配民族である満州人に不満を抱えていました。

そんな折、「洪秀全」という人物がキリスト教の教えをもとに「太平天国運動」を始めました。

満州人に強要された弁髪をやめ、男女平等を謳い、この世のものはみな平等としたので、多くの漢人が参加しました。

 

日本でも時々ありますがー

仏教系の新興宗教、キリスト教系の新興主教…これも洪秀全が「勧世良言(かんせりょうげん)というキリスト教の伝道書を手に入れはじめたもので、純粋なキリスト教ではありません。

 

洪秀全は官吏登用試験である「科挙」に3度落ち、精神的に病んでいました(^^;)

そんな折、夢を見ます。

金髪の老人に「悪魔を倒せ」という命を受けるのです。

改めて「勧世良言」を読み直すと、この老人こそキリスト教の神で、「自分はキリストの弟びっくりビックリマーク」だと思うのです。

そして、宗教結社「拝上帝会」を作ります。

 

 

科挙試験のために儒教をさんざん勉強した洪秀全です。
キリスト教の用語を用いた内容は儒教といったごちゃまぜのものでした爆笑

 

洪秀全は自らを「天王てんおう」を称し、5人の弟子を北王・南王・東王・西王・翼王とし、拝上帝会は1851年から「太平天国」と名を改め、本格的な革命軍として清と戦います。

 

太平天国軍は規律に厳しく、地主・裕福な商人から没収した戦利品や食料を平等に分け与え、占領地の人にも分配しました。

アヘン戦争後は増税で苦しんでいた民衆は続々と参加し、太平天国軍が進軍するたびに参加人数も増えて行きました。

 

 

当初は強奪・婦女暴行などけして許さない清廉な軍であったため、大変な人気を誇りました。

しかし、だんだんと5王の間、天王との権力関係にゆがみが見えてきます。

1856年、「天京の悲劇」が起こります。

 


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私は自分の体調上、感想・質問・コメントなどをフェイスブックで窓口を一つにして頂戴しております。

前回のブログでフェイスブックや個人的な質問・メッセージを多くいただいたので、今回はアヘン戦争についてもう少し綴ってみたいと思います。

 

現代は「第2の帝国主義時代」と言われています。

そもそも「帝国主義」とは何でしょうか?

 

欧米列強の世界侵略と植民地化の動きのことを言いました。

輸出市場・資源供給地を求めました。

海外に進出することは、国内問題から目をそらさせるのに非常に都合のよいものでした。

白人以外は「土人」とし、台頭に扱わず、その土地の産物を搾取したり、労働させることも正当化していました。

一言で言えば、「自国都合主義」?でしょうか。

 

「アヘン戦争」前後のイギリスをはじめとする列強の動きは、現代の国際政治を理解するのに大変わかりやすい例なので、以下順不同になりますが、述べてみますね。

 

 

・アヘンはアレキサンダー大王を広めた?

アヘンは「けし」の実の白濁の果肉汁を使用します。

 

お花が咲いて

 

真ん中に「けし坊主」というのがあります。花びらが落ちて

 

 

 

この液を使います

 

咳を止める効果・鎮痛効果・眠剤効果があるため、古代より薬として用いられて来ました。

東方遠征を行ったアレキサンダー大王は、広範囲にアヘンを広めました。

アヘンはアルコールに溶けるのでワインに入れて多用しており、彼は中毒死とも言われています。

 

後生になってドイツ・バイエル社がアヘンの濃縮したモルヒネを作り、医療に使われるようになりました。

その濃縮したモルヒネをさらに濃縮したものがヘロインとなり、これはアメリカで蔓延しました。

 

 

・廃人になるアヘンを輸出するということ

 

イギリスはアヘンが麻薬であることは、もちろん知っていました。

イギリス国内では違法とし、国内に持ち込ませないようにしていました。

他国の人が体や心が麻痺するのは構わないと、茶を購入した代金を取り戻すのに密輸を続けました。

 

中国では当初、宮廷の貴妃たちが媚薬として用いていました。
次第に皇帝の側近も中毒、役人や兵士も中毒。

清では1800年から数度禁止令を発令していましたが、輸入量は増加するばかりでした。中毒性がありますからね。

中国から大量の銀が流出するだけでなく、多くの人民が中毒・廃人となりました。

 

 

 

当時の人口の4分の1が中毒者だったそうです。

この19世紀の終わりに、明治維新を経て富国強兵だった日本が日清戦争を起こし勝利します。

 

これを契機に日本は勢いづいていくのですが、この当時の清の内情はボロボロでした。

中国人民の大多数を占める漢人に取っては、搾取する帝政も異民族である満州人の新王朝も外国人たちも敵でした。

 

当時、事実上の政権を担っていた西太后は戦争に反対でしたが、宮中で意見がまとまらないほど支配力は低下。

「日清戦争」と言いますが、実際には日本vs「李鴻章」(軍人・政治家)の私軍との戦いのようなものでした。

それに兵士もアヘンで弱っています。

「日本が滅法強くなっていた」だけで勝利した訳ではありません。

ひとたび人民が廃人になれば、立ち直るの時間がかなりかかるのです。

そういった意味でもアヘンの密輸は残酷なものでした。

 

 

・イギリスでも戦争に反対するものはいた

 

清へのアヘン持ち込みは「密輸」でした。

のち、首相を4度務めることになる自由党のグラッドストーンは

「密輸なのにイギリス国民の財産が強奪されたから戦争というのは、相手国の法に従っていない」

と戦争を反対しました。

彼の主張は通らず、イギリス艦隊は清へ派遣されることになります。

 

 

・イギリスの兵器には勝てなかった

 

清の武器では古すぎてとてもイギリス軍に歯が立ちませんでした。

渤海湾に入り、天津に来るとイギリスは大虐殺を始めました。

 

余談・薩英戦争でなんとか切り抜けた薩摩藩でしたが、死者こそ少ないものの城下町は炎に包まれました。→ここで解説しています

イギリス艦からのアームストロング砲は城下まで届く飛距離がありました。
あそこで戦闘を打ち切らなければ、危なかったのです。

 

 

・イギリスは戦勝で得たものに物足りなかった 中国国内まで船で入りたかった

 

南京条約を結び、5港開港、香港島の割譲、多額の賠償金、公行の廃止を果たし、翌年には不平等条約まで結べイギリスでしたが、期待したほどの利益は上げられませんでした。

さらなる市場拡大を求めたのです。

5港開港できましたが、内陸深い中国ですからそのまま船で国内を航行し商売したかったのです。

次の機会を狙っていましたが、インド・クリミアと広範囲に戦争を広げて過ぎている時期でもありました。

 

 

 


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昨年1月に購入したノートパソコンが「まさか」でちょうど1年で壊れました。
修理するとかなり時間も費用もかかるということで、新しいパソコンを購入、データを移し、すぐに使えるようにしたいと思っていました。

ところが!その新しいパソコンも1か月しないでメーカー修理、その後も調子がおかしく、ついに交換することになりました。
あと2~3日で受け取れるようです。
今こちらはデスクトップから書いておりますが、ほとんどベッドの上で過ごしている私は筆が進まず、なかなかブログが更新できなくてごめんなさいね。

そういう時は前のところまでを忘れないように、しっかり復習しておいて下さいね。~!



さて、いよいよ「アヘン戦争」です。

イギリスとしては
「自国の財産を勝手に処分された」
を理由にしていますが、中国という広大な市場に開港されている港が広州(広東の中にあります)1つでは不満でした。

 

貿易を拡大し、更に儲けようと企んでいます。

片貿易だったものをアヘンで黒字にしたイギリスが、最も多く中国・清に密輸していました。

 

インドでの栽培管理は主にユダヤ系サッスーン商会。

 

貿易は主にこれまたユダヤ系ジャーディン・マセソン商会が担っていました。
「ジャーディン・マセソン商会」・・・覚えていますか?
幕末のところで出て来ましたね→ここで解説しています
グラバー商会はジャーディンの長崎の出店のようなもの。
そこで各藩に武器をばら撒いたり、薩摩藩の英国留学を手伝っていました。

この辺りで日本史と交錯して来ますよ!

 

 

 

おおよそ戦争というものは、どんな大義ーそれがイデオロギーであっても、宗教上の理由でも、弱者を救うであってもーそれはプロパガンダ、戦争に参入し自国を正当化するものでしかなく、突き詰めていくと利権争い、人間の欲に従った行動に過ぎません。

 

古代から今現在もずっと変わりません。不変です。

 

今、この瞬間でも、日本にニュースとして入ってこないだけで、戦争・紛争が行われているところがいかに多いことか!

(「テロ」も戦争に誘導し、自国を正当化するための「自作自演」であることがほとんどです。)

 

 

そのために「歴史」から「現代政治」を説明しています。

19世紀というのは帝国主義、今よりもっと各国自国の「欲」に忠実でわかりやすいです。

 

 

前ブログで登場した「林則徐」。

 

 

 

彼は科挙でトップ合格した秀才中の秀才、しかも清廉潔白で中国の良心とも言えるべき官僚でした。

(科挙というシステムもおもしろいので、そのうち書きたいテーマです。)

 

彼は皇帝・道光帝にアヘン撲滅のための臨時の特別の大臣(欽差(きんさ)大臣)として、広州へ派遣されます。

 

アヘン常習者は1年の猶予の間に絶たねば「死刑」と厳しく言い渡されていたものの、既に国中にアヘンは蔓延。

 

 

アヘン商館の中国人は斬首。

広州へ貿易で来ていた外国人は出島に閉じ込め、兵糧攻め。

 

 

逃げおおせた者たちはマカオ、さらに香港と逃亡し続けます。

 

怯むことのない林則徐はまるで海での養殖のように、囲いで区切り沿岸に「人工池」を作ります。

その海水にアヘンを入れ、さらに消石灰を入れ溶かし、化学反応させてから引き潮に水門を開き、海に流しました。

 

 

 

1839年8月、清は「今後永久にアヘンを持ち込まない」という誓約書を出さなければ、貿易を断絶すると外国人に通告しました。

アメリカはこれに従い、アヘン以外の貿易を続けます。

イギリスは歯向かいます。(アメリカはそれまでイギリスが担っていた商売までちゃっかり取ってしまいます。)

 

1839年9月、ついにイギリスは武力を用います。

しかし、クリミアやインドにも勢力が分散していたイギリス軍はまだ用意が整いません。

 

1840年6月、やっと勢力が整い、各国からイギリス艦隊がシンガポール、そして、広州沖にイギリス艦隊が終結します。

ここに、「アヘン戦争」勃発。

 

中国・清はドイツから大砲を買い、広州の守りを徹底していました。

それをイギリスが知ると、広州を通過し、北上。渤海湾へ向かいます。

渤海湾・天津は内陸にある北京のゲート。

天津から北京へはおおよそ120km。

これには中国・清も大慌て。

 

 

 

道光帝は林則徐の活躍に満足していましたが、戦況が変化すると、その責任を彼に負わせ、彼を左遷してしまうのです。

どこに?
新疆にです。

新疆は以前に学習したように、清朝になって手に入れた「新しい土地」という意味の西北地区。ここで説明しています
乱暴に申して、広州が中国の右下なら、新疆は左上です。

広州は香港やマカオの辺り、左遷されたのは中央アジアにです。。

飛ばし過ぎガーン

 

イギリスが広州をスルーし、皇帝の住まい紫禁城のある北京近くへ迫ったことが効いたのです。

まだまだ完全に負けると決まったわけでもなかったのに、有能過ぎる林則徐がいなくなり、イギリスは大喜び、中国軍は一気に士気が下がりました。

勝敗というのは、こういうところで決まってしまうものなのですね。

 

1842年、戦争に負け、南京条約が結ばれました。

 

イギリスは

・多額の賠償金2100万両を要求(10兆円ぐらいとお考え下さい)

・公行の廃止

・5港を新たに開港(厦門、上海、広州、福州、寧波)

・香港島の割譲を要求。

 

さらに翌年

・領事裁判権(治外法権)

・協定関税制(関税自主権の喪失)

・租界(特権を認められた外国人居留地)の開設

という世界史上初の不平等条約を承認させました。

 

 

香港とは九龍半島サイドとビクトリア湾を挟んで、島である香港島から成りますが、この時はこの島の部分を要求したのです。


香港は風を遮り、水深の深い「良港」であることをイギリスはよく知っていたのです。

ビクトリア湾と書きましたが、19世紀の大繁栄を遂げたイギリスはビクトリア女王の時代、「パクス=ブリタニカ」。

 

栄華繁栄を極め、海外領土を広げ、やがてインド帝国の皇帝(女帝)となる彼女は非常に優秀な政治家であったと言えましょう。

 

ちょっとの脅しでぼろ儲け・・・こんなイギリスのおいしい姿をアメリカやフランスが見逃すはずはありません。

真似したくなるのの当然。

 

「眠れる獅子・中国」がこんなにも弱かったことは世界中に知れ渡り、西欧列強は「我も」と狙いにやって来、日本を始めアジア諸国は震撼します。


テーマ:

大英帝国の19世紀は戦争に次ぐ戦争でした。

 

フランスが主にヨーロッパ「大陸」内を主戦場としていたのに対し、イギリスはもっぱら海外植民地へ向かいました。

 

・米英戦争(1812~15) アメリカにとっての第2次独立戦争

・アフガン戦争(1838)南下するロシアからインドの植民地を守ろうとするイギリスが戦争を起こす

・第1次アヘン戦争(1840~42) アヘンの売買を続けたいイギリスが中国相手に開国を迫る

・第1次シク戦争(1845~46) イギリスとインドに残ったシク教徒の独立国との戦い

・第2次シク戦争(1848~49) この戦争後、イギリスが全インド征服を完成

・太平天国の乱(1851~64) 対英戦争ではないが、イギリスが中国の秘密結社相手に武力鎮圧

・クリミア戦争(1853~56) ロシアとオスマン帝国(オスマン=トルコ)の戦争に介入

・第2次アヘン戦争(1856~60) 第1次アヘン戦争での講和条約に不満の英仏が難癖をつけ、中国で大虐殺

・シパーヒーの反乱(1857~59) 「インド大反乱」、「セポイの反乱」。対英に対するインド人を大虐殺

・第二次アフガン戦争(1878〜80)アフガン王国の外交権を奪ってイギリスの保護国とする

 

 

そして日本との関連で言えば

・1854 日英和親条約

・1862 生麦事件

・1863 長州ファイブを英国留学させる 馬関戦争 薩英戦争

・1865 薩摩藩19名を英国留学させる

・1867 大政奉還 王政復古

 

ですからイギリスは日本にちょっかいを出してきた頃はクリミア(黒海)・中国・インドと大忙しです。

 

来日した際、ことごとく日本人に「軍艦」をちらつかせ威圧外交をしてきたイギリスですが、日本まで手が回らなかったのです。

ここで解説しています→軍艦を回せない


生麦事件から薩英戦争まで時間がかかったのは、太平天国の乱が一段落してからと以前書きました。

 

 

 

米英戦争に関しては以前書きましたので、第一次アヘン戦争から見ていきましょう。

 

イギリスでは「喫茶」の風習が流行していました。
初めは上流階級のみでしたが、いち早く産業革命を成し終えていたイギリスでは次第に中産階級にも広まりました。

 


そこで好まれた茶葉は中国の雲南省・四川省の紅茶でした。
イギリス人はそれを中国の陶磁器で飲むことを好みました。

他にも中国には「シルク(絹)」があり、これも大変好まれました。

 

 

イギリスは綿織物を機械で織ることが出来ていましたが、中国皇帝の好むシルクの虜になってしまいます。

 

こうなるとイギリスは完全に貿易赤字。

イギリスにとって中国はお気に入りのブランドが揃った百貨店のようなものです。

 

当時の中国は銀本位制で、銀で支払わなければなりません。イギリスの銀はすぐに底をつきました。


そこで、イギリスはスペインから、彼らが「新大陸」と呼ぶところで産出された銀を購入しました。

 

それは主にメキシコで産出される銀でした。
メキシコでは「どこを掘っても銀が出る」と言われるほどでした。

イギリスがスペインから購入した銀が中国に流れます。これではまだまだ貿易赤字は続きます。

そこでイギリスが考えたのが、「自国も何かを中国に売ること」でした。

 

19世紀イギリスはオスマン帝国と一緒にロシアと戦い、インドの諸侯と戦い完全植民地化を狙っていました。


既に獲得したインドの地で「アヘンの栽培」を始めます。

 



アヘンはデリケートな作物ではなく、地球上至る所で栽培できるものです。

発祥の地はメソポタミアと言われています。

インド・ベンガルのでインド人を使い、広大なアヘン畑を作りました。

 

 

イギリスは自国の大量生産できる綿織物をインドに売り、インド産のアヘンを中国に売り、その収益で欲しかった紅茶やシルクを購入しました。

 

これをイギリスの三角貿易と言います。

 

インドももともと綿織物の産地でしたが、手作業。

産業革命を経たイギリスの安い品には敵いません。

イギリス製品の市場とされたのです。

 

 

アヘンは中国(清)の宮中で「媚薬」として重宝されていましたが、次第に吸飲者が増え中毒者は200万人に達していました。

 

「アヘン窟」と呼ばれるところで吸飲し、廃人になる中国人が急増したことに中国皇帝・道光帝は危機を感じます。

 

中国の官吏登用試験「科挙」をトップで合格した「林則徐」という役人に、このアヘンの密売を処理することを命じます。


当時の中国は日本と同様鎖国をしており、長崎のように貿易を広州に限り、公行(特許商人の組合)にのみ交易を許可していましたが、イギリスは拡大を狙っていました。

 

「中国人の役人などワイロでどうにでもなる」

 

とタカをくくっていたイギリスですが、清廉潔白な林則徐はイギリスが持ち込んだアヘンを処分してしまいます。

イギリスは自国の財産に手を出したと怒り、軍艦を含め40隻の船で押し寄せ、戦争を起こしたのが「アヘン戦争」です。

 

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