辞書、この我が友 | けいすけ's page~いと奥ゆかしき世界~

けいすけ's page~いと奥ゆかしき世界~

日々感じたことや思ったことをつれづれなるままに綴っていきたいと思います。

辞書を買うなら、新品よりも中古がいい。もちろん紙媒体の辞書のことである。


電子辞書も一応持っているしこれまでそれで事足りていた。しかし、電子辞書は便利な半面、最近すこし味気なく感じられてきた。こんな「味気なさ」「あっけなさ」などは合理性や効率を重んじる人からすれば存在しないに等しいだろう。そして今は電子辞書はおろか、「グーグル大先生」が瞬時に何でも教えてくれる時代である。


今年の正月、茨城の実家に帰省したとき、自分の部屋の中で一冊の国語辞典を見つけた。それは、もう使われなくなって久しい机の上に、無造作に放置されていた。思わず手にとってパラパラめくってみた。ところどころ見出しの言葉が鉛筆や赤ボールペンの線や丸で丹念にチェックされていた。そういえば、「言葉を調べたらその言葉にチェックしなさい、同じ言葉を調べたらその上にさらにグリグリとチェックを加えなさい」と言ったのは自分が中学一年のときの英語の先生だった。先生は英語の辞書について言っていたが、私はそれを国語の辞書に応用してせっせと調べた言葉に印をつけていたのだ。


いったいいつから国語の辞書にこんなことをしていたのか思い出せないが、放置されて眠っていた辞書をめくりながら、辞書の底力のようなものが感じられた。


辞書の底力といっても、それは別に「紙の辞書は電子辞書と違って言葉を探すのに苦労するから、かえって電子辞書よりもしっかり覚えられる」なんていうことではない。それは結局「紙の辞書の方が言葉を覚えるのには効率が良い」といっているに過ぎない。効率や能率、合理性を重んじる考え方の論理に乗っている過ぎない。第一誰も苦労なんて好き好んでしようとは思わない。


「辞書の底力」とは、その携帯力である。辞書ほど一度買ったらずっと読まれ続ける書物も少ない。高校で英語の辞書を買ったとする。教科書は学年ごとに変わっていくが、辞書はずっと同じものを使っていた人が多いはずである(もちろん電子辞書を使っていた人もいるはずだが)。


国語辞典も古文辞典も漢和辞典も同様であろう。それらは、使用者が一番長く触れ続ける書物である。触れ続けていくうちに、辞書は徐々に徐々に傷んでくる。ましてや、見出し語や解説にグリグリチェックを入れ続けていけば、まさしく使用感たっぷりの様相を示してくる。


その使用感は、自分とその辞書との間で過ごされた時間の結晶である。辞書と自分の関係が可視化された姿である。自分が歳をとっていくにつれて、書籍も歳をとっていく。辞典はきっと、いつも誰かと一緒に歳をとっていくのである。電子辞書や、ましてやグーグル大先生は歳をとるようには思えない。


長年使っていなかった国語辞典を見て、ああ、お前も老けたなぁと思ってしまった。久しぶりに同窓会で

旧友に会ったときのような。私はその辞典を東京に持って帰ることにした。



そんな経験を経て、今月の初めくらいに仕事場で使う用の国語辞典を買いに書店に行った。お目当ての出版社の国語辞典があったが、手にとって箱から辞書を出して、めくってみて、驚いた。


…違う、何かが違う。まっさらな紙をペラペラめくりながら、言い知れぬ違和感を覚えた。これじゃ使えない、と思ってしまった。そして、丁寧に辞書を箱に戻して、どうしようもないもどかしさを抱えたまま店を出た。


そのときの違和感が何だったのか、おぼろげに分かってきた。私は中学一年のときから一貫して、「辞書とは汚すものだ」という認識を持ち続けてきたのである。これから汚すものとしては、新品の辞書はあまりにも美しすぎたのだ。生まれたばかりの赤子のあどけない表情を前にしたら、誰も粗雑にすることはできない。


だから、こちらが気楽に付き合える相手を選ぶならば、もう世の中の酸いも甘いもある程度知ってしまった中年以上がいい。そうした相手であれば、こちらも思う存分向き合うことができる。中古の辞書がいいというのはそういうことである。お互いはじめましてだが、その後つきあっていく相手としては申し分ないだろう。


紙媒体の辞書と電子辞書、どちらがいいというわけではない。ただ、紙の辞書の方が、楽しい。それはあたかも友人と付き合っているかのような。共に歳をとっていけば、いっそう離れられなくなるだろう。