不条理という名の青春 | けいすけ's page~いと奥ゆかしき世界~

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日々感じたことや思ったことをつれづれなるままに綴っていきたいと思います。

ぽつぽつと読者様がつくことはうれしいですね。まぁこのブログに何を書いたらいいのか、もはや分からなくなりましたが(笑)


もともと大学受験の勉強の記録を記そうと思って始めたブログもはや4年半ほど経ちました。

あんころは19歳でした。輝く大学時代を夢見ながら日々をぜぇぜぇ生きていました。



あの頃の未来に 僕らは立っているのかな

すべてが思うほど うまくはいかないみたいだ



世の中というのは、不条理です。それに抵抗するかのように、人間は自由平等という素晴らしい思想を200年前に開発しました。

ややもすると、人はその順序を逆にしがちです。その美しさに負けて、まずもって人間は自由で平等なものであるという幻想の虜になります。そしてその次に、世の中の不条理さがそれを邪魔するという発想をする。


しかし実情は真逆な気がする。この世界の住人たちはみな一人一人異質で、ごつごつしている。神の前での平等だとか、法の前での平等だとかいうけど、結局何かの前でないと平等を語れないように、一人ひとりが異質に作られている。


同質性は極めて近代的な発想なのかもしれない。いまの世の中はジャイアンもノビタもいてはならないように矯正させられている。そしてそれが当たり前で、果ては始めからみんな同じ人間のはずだという先入観を持ってしまう。


自由や平等は所与としてそこにあるものではなく、絶えず創出し続けなければならない。幸福の追求でさえ、それは権利として創出された。初期設定がごつごつした世の中だからこそ、そこに倫理が必要とされた。



「長寿の功」とはよく言ったものです。

「頑張ってもどうにもならないことはあるが、頑張らないとどうにもならない」とはよく言ったものです。

涙ぐましい。どちらも、ごつごつの世界を均して、そこに順序と方向性を作りだしている。


因果関係に論理関係を加えた科学的な思考は、過去を考察し抽象化し整理整頓する方法を採りつつ、未来の創造を見越している。が、その思考に押し潰され続ける人もいるかもしれません。こうすればこうなる・・・。期待。計画。しかし、いかんせん我々が生きる世界は予測不可能です。いつ原発が爆発するかも分からない。いつ大地震が来るかもわからない。


不条理は20世紀の文学のテーマとして有名です。しかし、実はそれは極めて原始的です。初期設定です。


未来を希望に満ちたものとして思い描くのには、不条理はあまりにも酷すぎる。だから不条理は絶望の事柄です。憂鬱の事柄です。不安の事柄です。


小林秀雄は慢性的に不安を抱える時代を生きる学生へ語った。

「不安なら不安で、そこから得をする算段をしたらいいではないか。学生時代から安心を得ようなどと虫がよすぎるのである。」

いったい、この不条理から何を得ればよいのか。


夜空の向こうは、思い描くことしかできない。そのスケッチと実際とがかけ離れていること、そこに不条理が宿っている。


だからといって、本当に絶望することなど、並みの人間にはできない。戯画化した絶望に悩む人は多い。しかし、世の中の大多数の人は、希望に向かって歩まずにはいられない。そうすることしかできない。これ自体が希望なのかもしれない。みんな、希望によって不条理の世の中へと背中を押され続けている・・。人は背中を見ることができないように、希望を振り返ることはできない。希望は背中に張り付いて、人を不条理の世界に促し続ける。そこからなんとか「得をする算段」をすることが、青春と呼ばれるのだろう。