太宰治『惜別』 | けいすけ's page~いと奥ゆかしき世界~

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日々感じたことや思ったことをつれづれなるままに綴っていきたいと思います。

太宰治の『惜別』は近年好きになってよく読んでいます。




主人公が仙台の医学生時代に世話になった恩師と旧友のことを思い返すというかたちで物語は進んでいきます。




登場人物はそんなに多くないのですが、そのなかでも、「藤野先生」という人がとても素敵に描かれています。




中国出身の学生で後の魯迅である「周さん」の講義のノートを藤野先生が毎週朱筆を入れてくれていた、という事実を知った主人公が、先生の人柄を尊敬し、怠惰な自分を戒め、以後先生の授業には必ず出ようと決心する場面があります。




「勉強しよう。藤野先生の講義には、どんな事があっても出席しよう。このように誰にも知られず人生の片隅においてひそかに不言実行せられている小善こそ、この世のまことの宝玉ではなかろうかと思った。」




だんだん「周さん」は医学の勉強よりも文学熱が高まってくるのですが、そのとき、文芸が果たす役割を次のように説明します。




「事実は小説より奇なり、なんて言う人もあるようですが、誰も知らない事実だって、この世の中にあるのです。しかも、そのような、誰にも目撃せられていない人生の片隅に於いて行われている事実にこそ、高貴な宝玉が光っている場合が多いのです。それを天賦の不思議な触覚で捜し出すのが文芸です。」




この発言の裏に藤野先生が見え隠れしているのはあきらかでしょう。それほど彼は先生に感銘を受けたのでしょう。この小説自体がそのような性格を含み持っているようです。




とにかく、このような誰にも気づかれない不言実行の小善を為す「宝玉」が本当に美しい。寂寥極まるときに読みたい小説です。