Philosophy on Deth:(2)Lucretius Puzzle
存在と不存在そして剥奪論が複雑に絡み合う。剥奪論は人生のgood thingsを存在していれば享受できるが、存在していなければ享受できない。だから死はbadであるという。しかし不存在が悪であるとすれば未生の子供たちやその前段階の胎児、水子に常に哀惜の念を感じなければならないというのは、直感的ではない。つまり不存在が悪であるとすれば、実は死後の不存在と生前の不存在がある。死後のみ悪いというのはどういう理屈なのか。人生の無限の不存在を切り離す方法として穏当な存在要件という概念「いずれかの時に存在していた」という概念を導入すれば、存在年数がゼロになったときに死の悪性が消えてしまうというマジックが起きる。寿命の長い短いで確かに長寿の方が素晴らしいが、普通はそこそこの寿命を全うするのが人生であり、それはそれで良いのではないかというのが当たり前の回答になる。



(2)Lucretius Puzzle
 
 誰かの人生を考えてみよう。誰かが素晴らしい長寿を得たと仮定しよう。存在してからの寿命が102030405060708090年にもなった。素晴らしい人生である。さて、90年の人生の代わりにわずか1020304050年の人生を想像してみよう。我々には死という原因によって方や50年方や90年の寿命が生じた。我々は90年、100年の寿命を全うしたものの代わりに50年の人生を悪いと言うことが出来る。そしてもし穏当な存在要件を受け入れたら、我々は結局は50年の寿命であろうと90年の寿命であろうと、いずれの時にか存在したということが出来る。だから得られたであろう失った40年という歳月はその人にとっては悪いといえるだろう。でもそれでも十分じゃないか。それが我々が求める答えだ。これは直感と相いれないものではない
 
 50年の寿命の者の代わりに、1020年で死んだ人間を想像してみよう。(0632)これもさらに悪い。もし死ななかったらすべての特別なgoodsを得られたであろうことを考えてみよう。そしてもし50年や90年の代わりに20年後に死んだらことはもっと悪くなっていたかもしれない。あと一年で死んでしまったということを想像してみると、これもまた悪い。これらはすべて完全に直感です。短い人生は彼らにとって悪いことです、それはより多くの人生のgood thingが剥奪されるからです。だから人生90年は悪くないのです。人生50年は悪い人生10年はもっと悪い。人生1年もっと悪い人生1か月もっともっと悪い。人生1分もっともっと悪い。1秒の命はとてつもなく悪い。さて決して存在しなかった人間を想像してみてください。これは素晴らしい。これが穏当な存在要件を受け入れた結果です
 
 人生が短くなればなるほど、完全に生まれてこなかった、あるいは存在しなかった、いつの時か存在したという要件を満足しなかった。我々は人生が短くなればなるほどもっともっと悪いとしてきたが、最後には小さな分子の1秒という数を消してしまうと、とたんに悪いものではなくなってしまう。我々はいかがわしいことは何もしていない。これは穏当な存在要件を受け入れただけのように見える。もちろん存在要件を全く受けいれなかったら「もっとも悪いのは生まれた来なかったものである」。しかしもしLarryに哀惜の念を禁じえないといったら。1.5十億の何十億のものに哀惜の念を表明しなければならない。どの見方がバランスがとれているだろうか、どの見方が妥当だろうか。我々がこの謎を考え始めた時あらゆる代替的な方法はそれぞれ魅力的ではなかった。多分最も希望が持てたのは結局もっとも妥当性が少ないとしてきたものではなかったか。私はいまだすべてが不確かだが。
 
 さて剥奪論のもう一つの問題というか謎に戻りましょう。そしてこの特定の謎が我々が存在要件を受け入れるか否か、明確な存在要件を受け入れるか否か、穏当な存在要件を受け入れるか否か、あるいは存在要件を否定するかどうかという問題を提起します。我々は誰であってもいずれの時に存在したことを実際に扱おうとしているからです。これは実際に誰かが答案用紙に書いたLucretiusの謎、Lucretiusが我々に与えた謎なのです。これは直接の引用ではありません。しかしLucretiusが基本的に言っているのは、ほとんど我々は我々が死ぬことに対して苦しみ不安を持っていることです。我々はだから死は悪いものだと考えています。この期間が終わった後は私の死後私は存在しないと考えています
 
 そして剥奪論はなぜそれが悪いのかは、この不存在の期間の間人生のgood thingを享受できないからだといっています。その通りです。とLucretiusは言っていますは、ちょっと待ってくれ君が死んだあとは君が存在しない唯一の期間ではない。これは君だけが生きてきた、人生のgood thingsを享受してきた唯一の期間ではない。そこには別の不存在の期間がある、それが自分が生まれる前の期間である。私はちょうどこのタイムラインからスイッチを入れた。自分の生まれる前を想像してみよう。ちょうど自分の死後自分が存在していない無限の期間があるように、そして驚愕とともに認識するのは生まれる前にそこに無限の期間があったことである
 
 もし不存在がそんなに悪いなら、そして剥奪論が言おうとしているのは、これは自分の生まれる前の無限の時間があったことを苦しむべきではない。しかしLucretiusは愚かにも、誰も生まれる前の無限の時間という事実について苦しむ者はいない。どの場合でも死後の不存在の困惑について理解しうるものはない。Lucretiusはこれを謎とは提起はしていない。Lucretiusは我々がいずれは死ぬということに係る議論として提起している。ほとんどの哲学者はLucretiusの議論の最初から最後までは同調はしていない。ほとんどの哲学者はこの議論のどこかが違っていると言いたいように見える。それがどこかというと、可能性としてはここにあるのではないか。一つの可能性としてはただ彼に同意することである。生まれる前の無限の期間は何も悪いことはない。だから無限の不存在については何も悪いものはない。だから自分の死後の無限の不存在も悪いことはない。これもLucretiusに同調する一つの可能性である。第二の可能性は、Lucretiusは正しい。我々はこの二つの無限不存在として平等にを扱う必要がある。しかし我々は戻ることが出来ない。Lucretiusに代わって言えば、こちらにも何も悪いものはないし、こちらにも何も悪いものはない。多分何か我々が死んだ後のほうが悪い(1212)