勝浦城跡・城主正木頼忠・娘お万の方・徳川家康の側室・水戸藩主・尾張名古屋藩主を産む | 西村治彦の日記

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この日は、千葉県勝浦市にある「勝浦城跡」を訪れました。 「勝浦城」の城主・正木頼忠は、私がなりました。 正木頼忠の娘は、この日 同行のまっちゃんです。 その名を「お万の方」と申しました。 「お万の方」は才媛で、徳川家康に見初められ、家康の側室となりました。 「お万の方」は 家康との間に、男子を二人もうけ、第10男は、「徳川頼房」で、「水戸藩初代藩主」となりました。 人気の「水戸光圀」は、

「​​​徳川頼房」の子供です。 

第十一男は、「徳川頼宣(よりのぶ)」です。  紀伊和歌山藩の初代藩主です。 「お万の方」は、立派な子供を産みました。 歴史を大きく変えました。

「勝浦城」は、お万の方が、「14歳の頃、家督争いで、正木憲時が勝浦城を攻めました。正木頼忠は「お万の方」を、勝浦城の崖から、「白い布」をロープにして、うまく逃がしました。「 お万の布晒し」と言われている故事です。

「勝浦城址」には、「お万の布晒しの崖」がありました。 その先には「八幡神社」がありました。

暫く歩くと「本丸」がありました。 「本丸」は広くて、当時は ここに武士たちや「お万の方」が住んでいたと思われます。 本丸からも、海が見えます。 周囲は 高い崖になっていて、海からは、「勝浦城」は攻められませんね。 

「本丸」 を過ぎて、石段を登っていきます。 やがて、見晴らしの良い「物見台」に到着しました。 当時は、「物見台」で 海からの攻撃を見張っていたのでしょう。  崖が高くて、敵は攻撃が出来ませんね。

現在、ここ「物見台」には「お万の方」の銅像が立っていました。  城主の娘です。 「お万の方」がいたからこそ、日本の歴史が変わっていたのです。

私は この「勝浦城」の「お万の方」を論ずる時、  江戸時代には「お万」と言う言葉は 意味がありませんでした。  同行のまっちゃんは、「特に何でもありません!」と申して「お万の方」を演じて下さりました。 大海原を見下ろす「勝浦城跡」で、「お万の方」は、江戸時代を懐かしんでいるようでした。  「物見台」を少々散策して、また下に降ります。

「勝浦城跡」は 素晴らしかったです。 帰りは、鴨川に寄って、美味しい寿司を食べて帰ったのでした。

 

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