成田の鷺山城跡探検・佐倉の土浮古墳群探訪 | 西村治彦の日記

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成田の鷺山城跡探検・佐倉の土浮古墳群探訪

 この日は、成田市の「鷺山(さぎやま)城跡」を探検することになりました。

同行は、城跡と古墳の黒子さんです。

 成田市下方字根古屋に「鷺山城跡」はあります。二人が、すぐ近くまで車で来ているのですが、「城跡」らしき跡は 見当たりません。バス停には、「下方根古屋」と書かれています。

「下方(しもかた)」は、現在は、この地の名称になっています。「根古屋」とは、「鷺山城跡」に勤める家来たちが、住んでいた「寝小屋」であります。つまり、「寝る小屋」です。城の「下方に、寝る小屋つまり屋敷」があったのです。それで、今日まで、当時の名称が残っている「下方根古屋」であります。「根古屋」の上方には、「城」があるはずです。

 しかし、多くの民家が建ち、森は茂り、外からは、どこに「城跡」があるのか分かりません。

「下方根古屋バス停」の前にある「民家」に入って、

尋ねてみましょう。

 「こんにちは!この近くに、鷺山城跡はありませんか?」。尋ねるのは いつも、黒子さんです。女性だと、不審に思われずに、いつも 詳しいことを教えて下さります。男だと、強盗だと思われることもあるでしょう。女性同伴は正解です。

 この家の主は、丁寧に教えて下さりました。

「この家の裏が鷺山城跡です!この家の門から出て、左折して、すぐ左折する。左側に小屋があるから、その手前を左折すると、そこは、鷺山城跡です!」

「ありがとうございます!」

 確かに、「下方根古屋」の上方に「鷲山城跡」がありました。戦国時代の500年もの昔から、付近の地理は変わっておりません。

 私と黒子さんは、教えられた通りに、「鷺山城跡」に向かいました。

全国に、「鷺山」と呼ばれる地名は多いです。

「鷺(さぎ)」が群がって、森の木の上に巣を作り、住みつきます。それで、そのような場所を、人々は「鷺山」と呼びます。ここは、成田市の「鷺山」です。

「鷺山城」は千葉宗胤の子、馬場五郎胤重が築き、千葉氏宗家の本佐倉城主・輔胤、孝胤、昌胤、良胤代々の隠居城でありました。

一説に37代良胤、38代邦胤とは双子で、良胤は、天正元年3月5日 父胤富の後を継いだが病弱のため、弟邦胤に追われ、「鷺山城」に入りました。しかし、更に敗れ、奥州に逃れて死んだと言われています。

近くにある「西光寺」内には、良胤とその子・當胤の墓が残されています。良胤の孫・知胤は、公津の家臣団に養育され、江戸時代を通じて千葉家再興運動を続けたと言います。良胤父子を養育した木内左馬介の孫が、江戸時代の義民・「佐倉惣五郎」であります。

 さて、二人は、「鷺山城跡」に登って行きました。そう険しくもない「小山」ですが、天気が悪いです。滑らないよう注意です。

暫く登って行くと、「2郭=二の丸」がありました。

そこには、「妙見神社」がありました。「妙見神社」と来たら、それは、「千葉氏」の信仰する「妙見」です。この「鷺山城」は、「千葉氏」と縁が深いことが分かります。

「妙見神社」の、その脇には「鷺山城跡(公津城)」の標柱が立っていました。

「妙見神社」の反対側は、広い「廓」になっていました。

当時は ここには、城主の館や武士の館があったものと思われます。

その「妙見神社」の前を先に進むと、竹藪が酷くて先には進めませんでした。

どうも ここが、鷺山城の終点のようであります。

「鷺山城」は 本格的に戦うために作った「城」と言うより、城主の隠れ屋的な「城」であったと思われます。敵の大群に襲われたら、ひとたまりもない、と感じました。帰りは、ゆっくり下って、元の「下方根古屋」に戻りました。千葉県にも、多くの「大から小までの城跡」が残っています。千葉県だけでも、1000を超える「城跡」があるそうです。強くなりたい武士たちが、ごろごろしていたことが分かります。群雄割拠で、淘汰されて、最後 日本を制覇するまで、どれだけの命が捨てられたことでしょうか。

(つづく)

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  鷺山城跡