六重罪のひとつ「決定邪見」についての質問 | テーラワーダ仏教とヴィパッサナー瞑想実践

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六重罪のひとつ「決定邪見」についての質問

 

質問

ブッダの教えを批判していた者が悔い改めて生涯仏教を実践して亡くなった場合も、この人は地獄に堕ちるのでしょうか?またブッダの説法を直接聞けない私たちも決定邪見の罪を犯すことがあるのでしょうか?

 

ブッダの教えを批判した罪に関しては、世尊が存命中に殺そうとしたアングリマーラも阿羅漢になっていますし、議論を吹っ掛けてやっつけようと思った人が、その場で説法を聞いて悟る話も経典に残っていますので悔い改めて生涯仏教を実践して亡くなった場合は、その批判した罪によって地獄に落ちる心配はありません。

 

次の生で必ず地獄に落ちると言われている重業は

母を殺す、父を殺す、阿羅漢を殺す、仏陀の身体に血豆をつくる、サンガを分裂させるです。

 

註釈によっては決定邪見を入れる場合もあります。

 

 

 

またブッダの説法を直接聞けない私たちも決定邪見の罪を犯すことがあるのでしょうか?

 

心に不善心が生じれば全て悪業になるのですが、不善心の力に応じて悪業の重さが変わってきます。仏教では人の物を奪いたいほどの強い欲、他者を殺したいほどの怒り、善業、不善業の結果などを否定するような邪見を特に問題とします。

 

仏教実践においては有身見(五蘊のそれぞれ、または全て、またはそれ以外に永遠不滅の真我、魂などがあると考えること)を取り除くことが重要で、邪見を完全に取り除くと預流者になることができます。

 

悟っていない限り邪見はあるのですが、邪見の強さに応じて結果をもたらします。

 

次の生で地獄に生まれ変わるような強い邪見を決定邪見といいます。決定邪見と普通の邪見と分けるために、仏陀が説法しても取り除くことができないような強い邪見を決定邪見と定義しています。

 

お釈迦様の存命中の六師外道と呼ばれいた人たちの中で業と業果を否定するような教えを説いている人は決定邪見者と呼んでいます。

 

その当時でも、お釈迦様に議論を吹っ掛けて論破しようと思っていた人が、説法を聞いて悟った話が経典にあるので、お釈迦様が直接説法するしないに関係なく邪見が強くなければ心配することはないと思います。

 

現代人の中には死後の世界を全く信じない人が多いかもしれません。その人が一生道徳的な生き方をしたとしても、来世の善業、不善業の結果を否定しているので邪見となります。

 

それらを強く信じていると決定邪見となり、どんなに善い行いをしたとしても地獄に落ちると考えるのは無理があると思います。

 

有名なマハーガンダヨン僧院のウ・ジャナカービヴァンサ長老のアビダンマッタサンガハの解説であるティンジョーバーターティカーには

長い間ヴィパッサナー瞑想を実践して集中力や智慧が高まって無常、苦、無我を洞察して悟りが生じるように、決定邪見においても瞑想修行のように強く邪見について考えて集中していき、あたかも悟ったように強い邪見に達すると決定邪見になると解説しています。

 

ブッダの説法を聞けない私たちであっても決定邪見になる可能性はありますが、普通はただの邪見だと思います。

 

業の種類、業の結果の与え方、五重罪を詳しく知りたい方は「ブッダの教え上級レベル」をご覧ください。