質問
聖者は五戒を破ることがあっても、重篤な業を形成しないと聞きました。
聖者は我見などの煩悩がないので五戒を破っても悪趣に落ちる業は作らないのでしょうか?
戒を破る度合いにもよるのでしょうか。
答え
まず聖者の定義をしましょう。
世の中には自称悟った人はたくさんいますので、ここではテーラワーダ仏教で説く聖者です。
預流道、預流果
一来道、一来果
不還道、不還果
阿羅漢道、阿羅漢果
の八段階のレベルに分けられます。
預流道以上はテーラワーダ仏教で聖者と言われています。
それ以外は凡夫です。
テーラワーダ仏教では、預流道で全ての悪見相応心と疑相応心が取り除かれます。
取り除かれるという意味は輪廻から解脱するまで二度と生じなくなるということです。
聖者は悪趣に落ちないといわれていますが、なぜ落ちないのでしょうか?
答えは二度と悪趣に落ちるような悪業を為さないのと、過去に為した悪趣に落ちるような悪業が機能しなくなるからです。
悪業をなす悪見相応と疑相応と悪趣に落ちるような強い不善心が生じないので努力なしに自然と五戒を守れます。
ですからテーラワーダ仏教では在家の聖者なら五戒を破りません。
比丘ならば意識的に227戒を始めとするすべての戒を破ることはありません。
なぜなら仏法僧に対する聖者の信は揺るぎなく強いので、世尊が作った戒を時代に合わないとか、こんな小さな戒は破っても良いとか言って破ることは無いのです。
ですから小戒でも守るのですから、重罪である四波羅夷罪などを破ることなどありえません。
だれであれ五戒を破るならば悪趣に落ちる悪業を作っているのですから、業果を得れば悪趣に生まれるでしょう。
聖者が悪趣に落ちるということはありえないので、五戒を破ることはありません。
聖者になっているのでたとえ破っても悪業にならないという考えは、業と業果の否定ですから邪見です。
そのようなことを言う人は邪見があるということで聖者ではありません。
地下鉄サリン事件などを起こした麻原教祖は最終解脱者だといわれていました。
彼を盲信して弟子が悪業をなし、人生をめちゃくちゃにされた被害者や弟子が多くいます。
彼のポアの理屈は
「たとえ自分が悪趣に落ちても、相手に悪業を積ませない」ということです。
本音かどうか知りませんが業と業果の否定はしてませんでした。
自分は悟っているので戒など破っても、「重篤な業を形成しない」を作らないなどという理屈は麻原以下です(笑)
もしその人に不善の思(cetana)がなければ不善の行為を行うことはできません。
不善行為を行う原動力は不善の思(cetana)です。
五戒を破るような不善の思(cetana)は悪趣に落ちる業道となります。
次生では無いかもしれませんが、解脱しない限り避けることはできません。
俺は悟っているので、戒を破っても問題ないという人を信じるのは勝手ですが、悟りの意味がテーラワーダ仏教とは違うと思ってください。
覚醒体験、神秘体験などを経験したことがある人は多いと思いますが、それが悟りかどうかはテーラワーダ仏教ではどんな煩悩が取り除かれたかで判断します。
いくら話が素晴らしいと思っても、注意が必要でしょう。
今説明したことは悟らなくても理解できることです(笑)
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