　年が明けたと思っていたら今年も、もう四、五カ月が過ぎた。野にも山にも新芽の緑が見られる。

「早いよな。もう皐月(さつき)（五月）も末の日だよ」

　講義が終わった後、亮策さんに呼び止められた。

「玄節は気にしていてくれて何度か聞いて来たから教えるよ。

一か月後、文月（七月）に江戸で民間備荒録が出版されることになったらしい」

　清庵先生は何も言わないけど、それを知らせる手紙が鱗（衣関）さんから先生に届いたと言う。

「本当ですか、凄い。凄い事ですよね」

　声にせず、首を縦に振る亮策さんだ。顔がほころんでいる。

　七月、元碩(げんせき)君の父上である曾根希(まれ)卓(たか)先生が藩医となり、三代目曾根意三を名乗ることになった。この目出度いお達しのあった日、清庵先生が良かった、良かった、丸く収まったと一(ひと)人口(りぐち)にして言うのを思いがけなくも診療所の廊下で耳にした。

　そして、申の刻の講義の時だった。先生は、芦幸七郎（芦東山）にかかる伝聞を私達に聞かせた。文机を前に、「病は口より入るが、禍(わざわい)は口より出ずる。己が良く知ってもそれを口にするには時と場所を選ばねばならぬ」と言った。

「京の都に遊学し、また江戸の宝(むろ)鳩(きゅう)巣(そう)の門下生となって儒学を学び、本藩（仙台藩）に置いても一目置かれるようになった幸七郎が、或る日、藩校内の座列について不満を言い、上言（上訴）した。

それが災いして元文三年（一七三八年）、藩主伊達吉村公に蟄居を命じられ、実に二十四年もの間(あいだ)、幽閉された。

　幸七郎が許しを得て生まれ故郷の磐井郡の渋民村（現一関市大東町）に戻ることが出来たのは宝暦十一年（一七六一年）になる」

　宝暦十一年と言えば俺はまだ四、五歳の頃になる。先生はその頃に幸七郎のことがよく話題になったものだと語った。

そして、政治、経済、教育等に鋭い批判と見識を持った彼が普通に世に有ったら、もっと仙台藩にとって有益だったろう、仙台藩は大損をしたものだと言う。しかし、その一方で、奢れる気持ちを口にしてはならぬ、己の考えのみを主張してはならぬと語った。

　そのことがまだ頭の中に残る八月初め、衣(きぬ)関(どめ)（鱗。衣関甫(ほ)軒(けん)）さんが江戸から帰って来た。伊藤さんの姿はなかったけど、出版されたばかりの民間備荒録が先生の手元に届いた。

　そして、明日から盆（旧盆）の入りだというその日の講義の教壇に、先生の代わりに衣関さんが立った。江戸の医療事情を最初に語った。

「人、人、人、他国から江戸に集まる人の多さにまず驚かされる、それに合わせて江戸では医者が足りない。

鍼灸、あんまの施術者は引っ張りだこだ。膏薬、塗り薬の類(たぐい)を扱う薬屋が江戸の町に増えている。また、長崎からカピタン（阿蘭陀商館長）一行が来て、近頃は唐の漢方よりも阿蘭陀の医学の方が江戸の医者の間で評判になる。

随行してくる阿蘭陀人の医者や通詞達の漏らす彼(かの)国(くに)の医療施術、薬種が話題になっている。

　余計なことを言えば、物珍しい舶来の物、ご禁制の品々も江戸では隠れて人々の間に横行している」

　医療事情のことも舶来の物の話も江戸について私の想像を掻き立てた。衣関さんは一呼吸おいて、それから民間備荒録にかかる話に入った。

　最後の校正と専門の彫師の版木の手彫りにかなり時間が掛かったらしい。

「出版された民間備荒録は今江戸で大評判になっている、飢饉の惨状を知る藩ではことのほか話題になっている」

衣関さんが綺麗に装丁された民間備荒録を右手に掲げた。私も皆も、おーっと声を上げた。

「皆も既に知っているだろうからここでは内容について話すことはない。

ただ、十六年も前に書かれたこの（民間）備荒録が何故今江戸で出版されたのか、何故、色褪せない書なのか、それを改めて考えて欲しい。ここに一冊を置いて行く」

　衣関さんが退席すると、自然と亮策さんを囲むように皆が集まった。

　亮策さんは文机の上の備荒録を無造作に手にすると、最初に私に手渡した。それだけで身が引き締まる思いがした。

民間備荒録と大書された表紙の左横に衣関さんの言葉が添えられて有る。先生がこの書を書いたのは特別な意図があるわけではない。ただあまねく（広く）世の民を救わんがため、領内の窮民のためにと思って筆をとられた、とある。

　また、申椒堂(しんしょうどう)（版元、江戸の須原屋市兵衛）が発刊をと奨めたが、先生が固く断った。それ故、松台さんと相談して一緒に発刊を先生に請い、実現したのだと経過をも記している。

　はしがきの最初の序(じょ)には前典(てん)薬頭(やくのかみ)、橘(たちばなの)寿(じゅ)国(こく)と有る。父から借りて読んだのにはそれが無かった。

亮策さんの説明によると、典薬頭とは幕府に仕える医者の最上席にある者の職位なのだそうだ。それを聞いただけでも備荒録に対する世の評価と関心の高さを思う。興奮を覚えた。

　序の冒頭に書かれている「太古、天使が医の道を始めたのは何よりも民衆が諸々の病で死ぬことを憂え、ひとえにそれを憐れみ、悼む心情からである」の一説に感動した。　

　診療に関わるようになった今、医者の持つべき第一の心得として強く心に響く言葉だ。

二つ目の序を記した常州（常陸(ひたち)国(のくに)、現、茨城県）の小田成(なる)朝(とも)医師についても亮策さんにお聞きした。だけど、知らないと言う。

[付記」小生作成した資料集には回転させて正常に記録されているのですが、アップロードしてここに持ってくると、何故か回転してしまいます。小生の電子機器の操作技術では修正方法が分からず、当面上記のままとさせて下さい。ご迷惑をおかけします。

大槻玄沢抄・第一章 磐井の里・１０