十 それぞれの道

「今年は暑い日が続きますね」

「飢饉になるような夏では困る。夏は暑くていい。草木も喜ぶ。生き物も元気が出る。人とてそうだ。バテそうになったら精の付く物を食べれば良い」

「確かに。江戸に来る時にも越ケ谷の宿でしたっけ?鰻を食べたのは。

もう少しで江戸入りだ。元気に江戸入りせねば、精をつけねばと食べた鰻でしたね。

あれからもう二年半ですからね。月日の経つのは早い、早い。あっという間ですね」

 今日は藪入りだ。昨日までの盂蘭盆会(うらぼんえ)が終わり、久々の休みに何処へ行こうかとなって神田明神まで足を伸ばした。

源内先生の初盆(ういぼん)に菊川の鰻の話を思い出した。由甫さんも私も目の前の鰻丼にちょっぴり贅沢を感じる。

それにしても・・・。半年前の正月の藪入りの時はまつ(・・)と一緒だった。歌舞伎見物を諦めて浅草寺にお参りした。それが今はまつ(・・)は側に居ない。

 阿蘭陀語の講義のあった日の帰りに三度、更科を覗いた。まつ(・・)は使いに出ているとかで二度会えなかった。

それが続いた時は、また来れば良いと思った。あの頃、流行り風邪で来る小浜藩の人々、町方の人々の診察に毎日が明け暮れ忙しかった。

 せめて良沢先生の処からの帰りに、もっと頻繁に更科を覗いていればきっとまつ(・・)に会えていただろう。

愛宕下(愛宕下大名小路、一関藩上屋敷)に呼び出されて遊学期間の延長が決まったと伝えられた二月末のあの日のうちに更科に顔を出せば良かったのだ。もう一年は江戸に居られる、まつ(・・)に会おうと思えばいつでも会える。そう思ったのがいけなかった。

 まつ(・・)と初めて一緒に行った浅草寺詣りから更科に三度目に行った時、三月三日のひな祭りの日だった。蕎麦屋の(あるじ)まつ(・・)の叔父の言葉だ。あの時、頭の中が真っ白になった。

「へえ。まつ(・・)は二日前に江戸を発ちました。ご縁が有って田舎に帰りました。

大槻様は医者として学者としてこの先、将来のある身。

 さぞ立派なお医者様になられるお方。まつ(・・)にはまつ(・・)の生き方がございます。人にはそれぞれの道がございます」

言われたその言葉を何度繰り返し思ったことか。

もと居た長町(ながまち)宿(のしゅく)に戻ったのか、田舎は何処だ、生まれは何処だと何度聞いても教えてくれなかった。

 仲見世で買った福笑いと女出世絵双六で()()ちゃんはる(・・)ちゃんと一杯楽しく遊べる、思い出を一杯作れると言って笑顔を見せたまつ(・・)は、あの時、そうなることを隠していたのだろうか。

ねえ、如何(どう)思う?、山芋を擦り下ろしたとろろ(・・・)蕎麦、大根を擦り下ろした蕎麦、餅を入れた蕎麦、(わらび)やゼンマイを入れた春の山菜の蕎麦、きのこ(・・・)や銀杏を入れた田舎蕎麦、そんなのが有ったらきっと評判になる、人気が出るお蕎麦屋さんになると語ったまつ(・・)

 男と女の関係になったのもあの日一度限りだ。口吸い(接吻)を思えば今も唇が火照(ほて)る。手のひらに残るまつ(・・)の胸のふくらみ、柔らかさと、指に残るまつ(・・)の秘部に触れた感触は忘れようにも忘れられない。

 思い出しては悶々として何度涙で枕を濡らしたろう。それからももう六ケ月が過ぎたのかと由甫さんとの言葉とは別のことを考えていた。

 思い出すと今も溜息が出る。私のそれを聞いたら、鰻の味は苦くない、美味しいだけだ、精をつけねばと甫周先生がからかいそうだ。

 

             十一 大槻玄沢となる

 この秋、大相撲の谷風の連勝が何時まで続くのかと話題になっている。二年前の三月、私と由甫さんが江戸に来た時から始まった谷風の白星街道は今も続いている。

江戸の(はな)は火事と喧嘩と聞くけれど、やっぱり華は大相撲だ。おらが国さの谷風梶之(たにかぜかじの)(すけ)だ。

 火事場の屋根で(まと)いを振る火消しの姿や、その後に勢揃いして引き上げる姿に胸をときめかす娘の気持ちも分からないでもない。だけど、それは火事で住む所や家財を失った他人(ひと)の不幸の上に立つものだ。

 また、戦のない平和な世にちゃらちゃらした派手な着物姿でたわいない辻喧嘩をする旗本の次男三男坊に胸をときめかす娘も居ると聞くが、その気持ちが分からない。

 相撲取りが紋付着流しの大きな身体にあの特徴ある(まげ)で江戸市中をゆっくりゆっくり供連れで歩く姿は実に絵になる。年に二場所しかない本場所とはいえ(一場所七日の取組、途中十日の取組に変った)。江戸市中を歩く風情を見るのには金がかからない。

 連勝が続く関脇谷風は明日にも大関になるだろうと人々の噂は絶えない。その谷風も大相撲も目の前に見ることが出来たのは工藤殿のお陰だ。

深川八幡(富岡八幡宮、現江東区富岡にある八幡神社)の大相撲で六尺三寸(約189センチ)、四十三貫(約162キロ)もある谷風を目の前にしたときはただただ驚くばかりだった。まさに、おらが国さの谷風だと実感した。

 また、歌舞伎役者の襲名披露だというのも江戸の華だ。当の役者の(のぼり)が芝居小屋に何本も立ち、大きな役者絵が軒に掲げられる。押すな押すなで押し寄せる人、人。それらを見るだけでも歌舞伎は江戸の華だと思う。

まつ(・・) と観ることの出来なかった歌舞伎芝居も工藤殿に連れられて初めて見た。桝席は一階も二階も着飾った女子(おなご)を連れた御大尽の席だった。あちこちから役者の屋号の声が飛びかかり、千両役者と叫ぶ者もいた。

 吉原での遊興にもお供した。夕闇の迫る大門を通ったばかりに続く光輝く街並と、行き交う人の多さに驚きもした。聞こえてくる三味の音にも風に乗る独特な化粧の匂いにも胸がワクワクした。

 楼に上がったとて私にそこでの金を払えるはずも無い。工藤様の御配慮でただ喰いただ飲みの(やから)だ。それどころか、

「女子の身体を知らずして治療も出来まい。今後のためにしかと確かめるところは確かめ、遊女に手ほどきを受けるが良い」

と、上がった楼の部屋から一人送りだされた。私が頬を赤く染めたのは酒のせいだけではなかった。

 工藤殿は銭,金を遊興に使うだけではない。今も人材の育成に力を注いでいる。諸大名が推挙する藩医や、あの大通詞吉雄耕牛先生の目にかなった長崎の若者、医学を志す若者を己の私塾、(ばん)功堂(こうどう)に受け入れている。

それらをして、工藤殿は医者としての評判を既に世にも勝ち得た上で還俗(げんぞく)したのだと良く分かる。

 儒学、歌(短歌、俳句)、書画を良く学べ、そのうえで諸外国に目を向けよ、諸外国の書に学べとも語る。日本(ひのもと)の民の幸せを図るためにも国力を強くしていかねばならない。そのためには農業に加えて、経済の柱となる新たな物を持たねばならないと説く。

印旛沼(千葉県)の干拓や蝦夷地(北海道)の開発は幕府が管理する農地を増やすことになるから幕府の財政を豊かにする。その一方で日本の物を諸外国に売る、その売ることの出来る価値ある物の開発、商品化をと交易の重要なことを度々口にした。

 幕府の財政を豊かにするには羅紗(らしゃ)や陶製品などあらゆる分野で殖産振興を進める必要がある、日本の金銀、資産を単に国外に持って行かれるだけだはダメだと説いた源内先生に通じる処がある。

 オロシヤその他の国との交易を推進して阿蘭陀から輸入する製品の価格を牽制する、また、北国の密輸を取り締まる、そのために蝦夷地にも奉行所を設置すべきだとも言う。阿蘭陀貿易だけに限ってきた幕府の政策転換を含む御意見だ。

 老中田沼(たぬま)(おき)(つぐ)殿とも通じているとお聞きしてはいるけど、一歩間違えれば工藤殿自身の身に危険の及ぶことも有りうる。その諸説を目に(うろこ)でお聞かせいただいた。

 

 玄白先生、甫周先生、淳庵先生、有坂さんも工藤殿と交誼を結んでいた。甫周先生が度々工藤邸を訪れていると知ったのは長月(九月)に入ってからだ。阿蘭陀語にオロシヤの言葉まで翻訳の手伝いをしていると知って吃驚(びっくり)だ。

オロシヤの捕虜になっていた男(モーリツ・ベ二ョフスキー。ポーランド人。和蘭通詞が誤ってハンべンゴロと訳す)が船を盗んでカムチャッカ(オロシヤ領)から逃げ出し、誤って日本に漂着した。

 その男が国に帰る段に出島の商館長に宛てた手紙には、オロシヤが日本を侵略する計画を立てているとあるのだと言う。その手紙を工藤殿が何処で如何(どう)(ひそ)かに手に入れたのか、工藤殿の頼みで甫周先生はその翻訳に当たっていた。

 工藤殿の誘いによって私も途中から手伝いに参加することになったけど、その作業は決して他言出来ない。

楼(天真楼)や先生(杉田玄白)との関係から時間の制約も有り大して協力は出来ないが、工藤殿のお陰で何か大きな世界が広がるような気がしている。

 恐れ多いことだけども、秘密の共有に依って甫周先生を兄とも思えるようになった。また二十三(歳)違いの工藤殿を江戸における父上のようにも思える。

 工藤殿御自身は翻訳できるまでには阿蘭陀語を理解できていないと見た。

翻訳作業の徒然(つれづれ)に話して、甫周先生は今でも父上の所に同居していると知った。工藤殿宅から橋を渡ればすぐ近くだと言う。さほど離れていない位置関係でさぞ通い易かろう。

(参考図)

また、甫周先生は十九(歳)にして幕府の奥医師になったと初めてお聞きした。そして私は、今、自分の名前を玄澤に変えるが良いと先生からお話が出ていると打ち明けた。

 

三日前になる。(天真)楼の庭の(あき)(ざくら)(あや)を増していた。この季節の青空に映える花だ。

「元節です。お呼びとお聞きして参りました」

敷居の外から声をお掛けした。

「入りなさい」

先生は昼前の診療時の白衣をその傍に置いていた。綺麗に畳んである。

右手の指し示すまま正面に座らせていただいた。食事を共にしたのだろう、側に(中川)淳庵先生もいた。

「其方を見ていても、診療の方はシッカリ出来ているようだな」

そう言いながら、私の返事を期待していない。先生はご自分で首を縦に頷いている。

「ところで、其方の名を呼びながら今日も思ったことだが、元節は呼びにくい。名を(げん)(たく)に改めたらどうじゃ?。

玄は私の玄の字、(たく)は其方が今通っている前野良沢先生の(さわ)の字になる」

淳庵先生が首を縦に振る。きっと先に先生のお考えをお聞きしていたのだろう。

突然の言葉に驚きもしたけど、即に言葉が吾の口から出た。

「有難うございます。勿体なきお言葉にございます。

玄澤は(わが)(ちち)が仙台に医業を学び本藩の松井玄潤先生にいただいた名、父が壮年の頃に称した名でもございます。

また、郷里一関の近くに黒澤村(くろさわむら)という地があり、(くろ)(げん)、玄人に通じ、(さわ)は清き水の流れ、水を言葉に喩えれば、言葉の流れ、翻訳とも解せます。

この地名とも合わせ考えれば()()の名は故郷にも通じる名でもございます。

その名(玄澤)をお受けしたいと存じますが、先生の賢明なご判断にお任せ致します」

「うん、玄澤で決まりじゃな。して、元節の名は建部清庵殿に頂いた名でもあるがゆえに、先ずは状(手紙)を(したた)めて清庵殿に(はか)ることしよう。

 また、其方は大槻元節の名で一関藩に遊学の許しを得ておる身ゆえ、玄澤となってもなお(さわ)りの無いようにせねばなるまい」

「私ごとゆえ、私からも清庵先生にお諮りの手紙を差し上げたく存じます。郷里に在る父にも報告します。

また、藩からも然るべきご高配が賜れますよう、江戸屋敷を通じて一関に在る藩候宛に申し添えます」

「うむ。それが良かろう」

 

 昨日は源内先生の命日(十二月十八日)だった。もう一年になる。あの当時、犯罪人の墓など有ってはならぬ、ましてや追悼する碑などもっての外、と御上から難癖とも苦言ともとれるお達しが有った。

 しかし、それにもめげず千賀(道有)殿や先生(玄白)の奔走で、源内先生は今は安らかに橋場(現東京都台東区橋場)の総泉寺に眠る。

 昼のうちにお墓参りをしてきたと言う先生のお声掛かりで、夕餉の前に仏壇を前にした。先生、奥方様に先生のお子さん、さゑさん、有坂さん、由甫さん、私が揃って焼香を上げた。私は、お会いしたことも無い小田野直武殿をも思ってお線香をあげた。

 

 小田野殿の死が秋田から伝えられたのは五月も末だった。何が如何(どう)あってそのようになったのか、藩侯の命で切腹したとも、急な病によってだとも伝わってきた。享年三十二(歳)だと聞いた。

驚いた。玄白先生達も今もって死に至った真相は分からないらしい。

 解体新書が世に認められたのは翻訳の並々ならぬ努力の成果である。だけど、人体の構造がどうなっているのか、医業を学ぶ者にも世間の人々にも広く目の当たりに教えてくれたのは小田野殿の絵図だ、彼の功績は大きい。

 解体新書の扉絵はそのまま翻訳したターヘル・アナトミアの原書の扉絵だとばかり思っていた。それが、違った。解体新書の扉絵は全く違った解剖書の扉絵を参考にしたものだった。それを知った時にも驚いたの何の、小田野殿の絵心、絵を描く力量を知った気がした。源内先生が見込んで江戸に呼んだ理由が分かる。

 解体新書の端書(はしがき)には紅毛人の書いた絵図をまねただけだと謙遜しているが、とんでもない。彫師や摺師の上手い下手も有るだろうけど、人体の各部位、臓器等の原図を書いた小田野殿は賞賛に値する。

 その小田野殿にいつかは自分も翻訳した物の絵図を書いてもらおうと秘かに思っていたのだ。それだけに大いに残念だ。

 

「今年の最後になりましょうか。来年も是非によろしくお願いします」

「おお、玄沢殿。こちらこそ来年もな。何、もう一年の遊学期間の延長はまた(きゅう)(けい)(工藤平助のこと)に頼めば良い。のお、球卿」

「ハハハ、そう簡単に申されるな。簡単と有れば己の斡旋価値は下がるというもの。

まァ、心配は要らん。もう一年は延長させてもらおう。いかにも医者らしい玄沢という名を貰ったことだし、年明け早々に再度の遊学期間延長を願い出ても今なら一関藩侯の覚えも良かろう」

 

 藩主田村村隆公からの改名のお許しの状(書簡)は昨日(十二月二十五日)三叉(さんさ)塾(小浜藩中屋敷、天真楼塾のこと)の方に届いた。書簡の日付は十二月六日と有り、この日から己は玄沢となったのだと意識した。状を手にして、顔に血が上るのが分かった。

 そして宅に帰ると、先生に御報告し、有坂先生にも由甫さんにもさゑ(・・)さんにも伝えた。

また、抜け駆けですかとかつて由甫さんが言ったけど、その言葉とは裏腹に今度は喜んでおめでとうございますと言ってくれた。

 

 幾ばくかの興奮を覚えて目が覚めると、今日は何が何でも鉄砲洲に鉄砲洲に行かねばと思った。良沢宇先生に(いち)(はや)く報告しようと思う。

 まさか、都合良く工藤殿が来ているとは思いもしなかった。お二人に玄澤と言う新しい名前を一遍にご報告できた。

嬉しくも有り、本当の医者にも大人にもなったような気がする。

 

[付記] 参考図が、保存資料では正常なのにアップロードすると転回してしまいます。修正を何度か試みましたが小生には解決策がみつからず、もう一つを参考図に添付しましたので抱き合わせでご理解お願い致します。

次回から、「第四章 転変・天変」になります。