九 江戸を夢見る

 年が明けて安永三年(一七七四年)。亮策さんの代わりに私も患者を診るようになった。清庵先生からは改めて患者の氏名、年齢、職業に発症の日時、経過、所見、投薬や処置など治療の記録をしっかり付けるよう指示された。

 患者は藩の関係者だけではない。何歳になるのか自分の年齢(とし)が分からない、自分の名前の書き字さえ知らない患者が多いのに驚いた。それゆえ、余計に症状をよく聞き取ることに集中した。治療の方法が分からなければ父上や曾根先生等に教えを請い、助けられた。

 先生は亮策さんからの手紙が届くと、その内容を、また、送られてきた物を大抵は講義の時に披露した。それを聞くため見るために診療に関わる先生方や薬師(くすし)も、また手伝いの人さえも講義所に顔を出すこともある。

 聞くもの目にするもの何もかもが目から(うろこ)が落ちるようだ。井の(かわず)大海を知らずの心境だと言う亮策さんの伝文の披露に、私は亮策さんの講義に臨む姿も診療に臨む姿も想像できた。

 きっと新しい治療の知識、医術を伝える書書籍と、初めて知る異国の治療器具、薬等が目の前なのだろう。

 

「ただいま帰りました」

 明日から弥生(三月)になる。そう思いながら玄関口でもある土間口で奥に声を投げた。下を見ると父上の履物が先に有る。私より何時も帰りが遅いのに珍しい。

 母上の出迎えではなく、父上が顔を見せた。ニコニコしている。早く上がれと催促する。いつもと勝手が違って少し戸惑った。何かあったのは確かだ。

 家族四人の夕餉が済むと、父上はそわそわしながら私を書斎に誘った。残った母上の側で陽助(弟、(しげ)(たか)、六歳)が何やらの雑誌を読み始めた。囲炉裏に掛けてある南部鉄がスーッツと音を立て始めた。

 対座すると、父は急に顔をこわばらせた。緊張の色が出ていた。しかし、話は顔色とは全く違っていた。父上にとってこの上ない吉報が寄せられていた。

「藩候(田村村(たむらむら)(たか)公)のお供で江戸に上ることになった。

私も阿蘭陀医学を本当に学べる、阿蘭陀流外科医と呼ばれるにふさわしい施術と知識を学ぶ機会をやっと得た。

勿論、江戸勤番の役目は果たす」

「出立は何時(いつ)に?・・・」

驚いた。父の勇む気負いを感じる。出立が何時になるのかと私の方から聞くほどだ。

 父の江戸行きが羨ましい。私が行きたい。私も一緒に行きたい。心でそう叫びながら頭を下げた。

「おめでとうございます」

 

 翌日、父上が本家の大槻家に使いを出した。翌々日、中里村に出かけた。

まだところどころに雪が残る龍澤寺(りゅうたくじ)の坂道を注意しながら上り、大槻家の墓前に吉報を報告した。伯父や大肝いりの清雄小父も一緒だ。

 帰り道、私達家族四人は大槻家が用意した祝いの膳を囲むことになった。

奥座敷の膳を前に()の姿を求めたけど、伯母や使用人の小母さん等に混じって台所と座敷を行き来する()を時折見るだけでしかなかった。

 

 卯月(四月)も終わり近く、三日続きの雨で出立が遅れたけど、父上は参勤交代に列して一関を後にした。

五十(歳)過ぎにもなる年齢(とし)の父上だけに百十五里程もある長旅の無事を祈った。

そして、見たこともない、父が住むことになると言う江戸の藩邸(中屋敷。愛宕下田村小路。現在の港区西新橋二丁目))を想像した。

 

 まだ一月(ひとつき)も経たないのに父が江戸に居ると思うと、江戸に行きたいと思いは募るばかりだ。昼も夜も頭の中は江戸、江戸と悶々とする。

 葉桜となった皐月(五月)の半ばに、思い切って清庵先生に自分の江戸遊学について申し出た。笑いながらと言うのか苦笑いと言うのか、まだ早いと言う。

 先生は首を縦に振ったけど、考えて置くとだけ言った。

 その晩に江戸の父上宛に手紙を書いた。江戸遊学の希望を清庵先生に持ち掛けたことを記し、その許しを得たらば、(あと)に藩の許可が下りるよう手筈を整えて欲しいと(したた)めた。

 そしてその後に、清庵先生がまだ早いと言った言葉を色々と考えてみた。

診療のイロハを学び始めたばかりなのは確かだ。清庵先生や父上がそうだったように仙台に出て、今よりも薬となる草木や施術の知識・技術を学ぶことが先なのかも知れない。未熟も未熟な私を江戸に遊学させるのは早い。それが先生の言うまだ早いなのかも知れない。

 その()、幾日経っても診療の上でも講義の時にも先生は何事もなかったような顔だ。

月が変わって文月(七月)になっても、熱い夏になっても父上からの返事さえ無かった。

 

             十 解体新書

 長月(九月)も半ばを過ぎた。先生は、清庵門下生以外の藩医の方々にもお声を掛けたらしい。

驚いた。講義所に集まった中には名前はお聞きしていても私が見かけたことも無い方も()られる。

私達塾生も一堂に会したのだから普段狭く感じることのない講義所は人で一杯、一杯だ。残暑の中、人の息も体温もすぐ傍に感じる。

 先生は小脇に四、五冊の本を抱えて登場した。文机を前に座ると、一座を見渡したがなぜか落ち着きがないように見える。

懐から一通の書簡を出して、亮策さんから手紙と本が届いたと語った。

手紙をそのまま文机の上に置いて、抱えて来たばかりの本の一冊を右手に掲げた。その表書きには解體(かいたい)新書(しんしょ)と有る。縦に一尺、横に六、七寸は有ると思う。

 オーっと声にならない声が一斉に起きた。屋根付きの家みたいなものの真ん中に大きく「解体図」の文字が有って、その右に女、左に男の裸の絵だ。その下に天真楼と有るのまでが分かった。亮策さんの学んでいる塾だ。

「江戸に居る若狭(わかさの)(くに)小浜藩(現・福井県)の藩医、杉田玄白医師の解剖書だ。葉月(八月)に発刊された」

誰の目もその本に集中した。咳一つとして無い。固唾(かたず)を飲んで先生の次の言葉を待った。

「これほどの人体の解剖書を見たことが無い。

人体の形態の認識と機能の解釈が漢方と蘭方とでは全く違っている」

先生自身、本を持つ手も語る口も声も震えている。それが興奮のあまりと知ったのは説明に入ってからだ。

「視聴、言動をつかさどり痛痒(つうよう)寒熱(かんねつ)を知る、動かないものを自由に動くようにする。それは(のう)脊髄(せきずい)から出ている白くて丈夫なものだ。それを神経と言う」

解体約図の一等最初の披露の時にも聞いた気がする。

「頭の骨を頭蓋骨(ずがいこつ)。涙に涙管(るいかん)、鼻の頭を鼻梁(びりょう)と言う。

解體(体)新書には新しい言葉が一杯出て来る。各身体(からだ)の部位が明らかにされたのだから、それを伝える我が国の言葉が必要になる。

 阿蘭陀語を我が国の言葉にしたら何と言うか、何と書き表すか、玄白殿が以前の手紙に訳す苦労を(したた)めてきたことが良く分かった。

(われ)()が今まで使っていた腑分(ふわ)けという言葉も人体の解体、解剖(かいぼう)と言うのだそうだ。

 亮策の手紙によると明和八年(一七七一年)と言うから三年前だ。その三月に玄白医師等は江戸の千住骨ケ原(小塚ケ原(こづかがはら))という所で実際に腑分け、解剖を見たらしい。

その翌日の三月五日から前野良沢(・・・・)なる(・・)通詞(・・・)を中心にして「ターヘル・アナトミア」なる阿蘭陀医書の解読、翻訳が始まったのだそうだ。

 解體(体)新書の巻の一は解体の大意や身体(からだ)の形、名称、体内の諸々の臓器の外形とその主な働きを説明している。

 巻の二は頭、その働き、神経と口、目、耳、鼻、舌について語り、巻の三は胸や肺というもの、(しん)、動脈、血脈というもの、腹や(はらわた)等について書いている。

 また巻の四は脾臓(ひぞう)なるもの、肝胆(かんたん)(じん)(ぞう)、膀胱なるもの、男女の陰器、女子の子をなすもの、人の(すじ)について記している」

聞いているだけでも驚きだ。

 その後に見せんがために右手にした巻の一の何枚かの絵図に誰もが驚嘆した。頭蓋骨の前、後ろの形、その頭の中の脳なるものの形、頭を覆う髪と皮膚と肉、それぞれが木版に()られ()り上げられたものだと語る。

 

陰影等も有る絵図は私達を驚かすに十分だ。漢方の教える臓器等と明らかに違う。

 見たこともない体内の各部位や臓器の絵図のどれにも驚いたのは私ばかりではない。集まった皆がめくられる一枚一枚の絵図ごとに驚嘆の声を挙げた。

先生の講義にかなりの時間が経過した。その間、誰も席を立とうとしなかった。丁寧に閉じて文机の上に置かれた解体新書に皆の目が集中している。

そして、先生のお言葉に私は更に興奮を覚えた。

「ここでは皆に全てを詳細に披露できない。

語り尽くせないゆえ、この大事な本を自ら手配して入手できる者は除き、藩医の方々から順番を決めて皆の供覧に伏す。

その順番の決め方は私に任せてもらう」

 

[付記]

 解体約図、解体新書の絵図等はネットで東京大学学術資産等アーカイブズポータルで閲覧することが出来ます。250,60年前の物ですよ。筆者ならずとも、西洋医学の幕開けだと興奮もしますし、大いに参考になると思います。