(サイカチ物語・第四章・古城巡り・32)
十五
俺の腕時計が十時十五分を回った。猊鼻渓、一関方面に向かう。今泉街道は途中の摺沢駅手前の交差路で県道十九号線に変わり、国道三百四十三号線はそこから北上して水沢方面に向かっていた。俺達はドラゴンレール大船渡線を右に見たり左に見たりしながら県道を走った。
一関市役所東山支所、唐梅館総合公園方面と標識が出てきた。そこから約一キロ指示方向に進んで公園が有った。公園入口の大きな案内図板の前で駐車した。一休みもかねて、皆で唐梅館跡の位置を確認した。
「これだと、館の跡は山の斜面の一番奥、キャンプ場の駐車場に行って、その脇から林道を歩いて登る先になるわね」。
「うん。よし、そこまでバイクで行こう」。
熊谷と京子のやり取りに、俺も梨花も美希も賛成だ。
俺達はキャンプ場の駐車場に駐輪した。雑草の伸びる小路を百メートル程登った。着いた館跡には冠木門だ。左右に門柱だ。その先端には千葉氏を現わす星に三日月の家紋が夏の陽に金色に輝いている。
「こんなところで光り輝く家紋を見るとはね。京子、これが千葉氏の家紋の代表だよ。九曜紋とか他にも千葉氏の家紋は多くあるけど、星と月は変わらない」。
「そうなの?、カッコ良い」。
熊谷の説明に目を輝かす京子だ。その門をくぐったところは二の丸らしい。東西に五十メートル、南北に三、四十メートルぐらいだろうか。続く本丸の草地は一段高くなっている。ここも二の丸と同じぐらいの広さがある。
東西が東西が急峻な断崖だ。南側斜面を上から見ると雛飾りの階段のように幅二メートル以上の段差で六、七段の階段状になっている。公園として整備されているけどコンクリートやアスファルトで舗装されたところがない。繁る杉林と松、桜、雑木と低木の木々に囲まれた段丘が館跡に相応しい。静かな緑の草地のたたずまいだ。
東に見える猿沢川が眼下を南に流れて、通って来たばかりの今泉街道が砂鉄川沿いに見える。長坂の市街地の屋根々々が夏の陽を浴びて木々の間に光って見えた。
本丸の北側の土塁の上に奥州千葉氏の祖と伝わる頼胤の大きな供養塔があった。法名が刻まれ千葉介平頼胤、従四位下少将とある。熊谷と京子がその石碑をデジカメに収めた。右横に少し離れて唐梅館を語る案内板(別掲24)があった。
その文面に平泉藤原氏滅亡後から天正十八年(一五九〇年)まで約四百年間にわたる長坂千葉氏歴代の居城とある。また長坂千葉氏は葛西時代、磐井、江刺、胆沢、気仙、本吉など各地で勢威を誇った千葉氏を名乗る諸将の宗家とある。
「ね。先生が言っていた奥州千葉一族の宗家ってここ?」。
「うん。そう。来てよかった?」。
「こんな近くにこんな所があったなんて・・、父が知ったら大喜びしそう」。
熊谷の返事に、京子は一杯の笑顔を見せた。
「この近辺の千葉氏って、他に具体的に何処?誰?。先生の所で見せて貰った系図をコピーさせて貰えば良かったかなア、千葉氏
の誰々が何処々々に何町歩の土地を貰ったとか分与されたとか、系図に書き込まれていたわよね」。
「俺の覚えているところではさっき寄った大原。ここから近い薄衣城主千葉甲斐守。それに陸前高田の米ヶ崎城城主の浜田安房
守、志津川の朝日館・千葉大膳、今日これから行く江刺、胆沢の柏山氏も千葉氏の流れだよ」。
「先生の例の青いバインダー、そこに幾つかの千葉系図のコピーがあったわよね。帰ったらバインダーそのものを借りようかな。
貸してくれるかしら」。
「貴重だからね、いや、貸してくれると思う。だけど勉強優先ってまた先生に言われるね」。