前日まで、青年将校たちのこのクーデターはほぼ成功したかに見えていたのだが、天皇は彼らを許さなかったのだ。
「暴徒、叛乱軍」と明確に規定したのだ。
どのように天皇は、彼らを位置づけたのか?
この2月27日、昭和天皇に拝謁した本庄(ほんじょう)武官長と天皇のやり取りから、次のように天皇の考えが伺える。
本庄:彼らの行為は陛下の軍隊を勝手に動か
せしものにして、もとより許すべから
ざるものなるも、その精神に至りては
君国を思うに出でたるものにして必ず
しも咎むべきにあらず。
天皇:朕(ちん)が股肱(ここう…一番頼み
とする部下)の老臣を殺戮す、かくの
如き凶暴の将校等その精神においても
何の恕 (ゆる)すべきものありや。
また、朕が最も信頼せる老臣をことご
とく倒すは、真綿にて朕が首を絞むる
に等しき行為なり。
本庄:彼ら将校としては、かくすることが
国家のためなりとの考えに発する
次第なり。
天皇:それはただ私利私欲のためにせんと
するものにあらずと言いうるのみ。
そして、事態の収拾に手間取る陸軍首脳に対してしびれを切らした天皇は……
「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定に当たらん!馬を引け!」とまで言い切った。
昭和天皇は蹶起部隊の武力鎮圧に強い意志を持っている、という情報は軍上層部に伝わるにつれ、事態は急変していった
この日の午後4時、戦艦長門をはじめとする連合艦隊第一艦隊の主力が東京湾お台場沖に到着。
「鎮定されない場合は、いかんながら国会議事堂に砲撃を加えよ」と長門以下すべての艦の砲門が東京市街に向けられた。
28日午前5時8分「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅命令が下され、この時点で青年将校たちの「昭和維新」の夢は完全に潰え去ったのだった。
陸軍の戦車や海軍陸戦隊も出動し、2万を超す鎮圧部隊が蹶起部隊を包囲した。
翌29日朝8時55分からは、ラジオで「兵に告ぐ、勅令が発せられたのである。すでに天皇陛下のご命令が発せられたのである……」という投降を勧告する放送が開始されるに至った。
飛行機、果てはアドバルーンまでが上がってのこの帰順勧告により、青年将校たちは孤立無援のまま、その日の午後2時ごろまでに原隊への復帰を果たした。
クーデターが起きて実に4日目、この2・26事件は終息に至った。
彼ら青年将校に理解を示し、ある時は扇動し、またある時は利用もした皇道派の将官たちは不問(当然問題とすべき事を取り立てて問いたださないこと)とされた。
中でも、黒幕といわれた真崎甚三郎大将は、青年将校らが占拠した陸相官邸に足を運んだ時には「とうとうやったか。お前たちの心はヨヲッわかっとる、ヨヲッーわかっとる」と言っていたにも関わらず、天皇の怒りを知って震え上がり、さっさと手のひらを返して保身を図った。
一本気な若者たちが、陸軍上層部に利用されていたことは当時は隠蔽された。
そして、この青年将校らには、一審、非公開、弁護人なしという特設裁判によって全員死刑が言い渡された。
青年将校らに率いられたほとんどの兵は、入隊間もない初年兵であり、上官の命令ひとつで何も知らないまま、今回の事件へと参加してしまったのだ。
彼らの多くは、これから起こる戦争の最前線へと駆り出され、多くの若い命が失われていったという。
尚この226事件は結果として、軍に対する批判をしにくい空気を社会全体に広げると同時に、今後はじまる泥沼の戦争に突入する門戸にもなってしまったのだ。
この事件を契機に、日本はファシズム(権力で労働者階級を押さえ、外国に対しては侵略政策をとる、帝国主義的な独裁制)への道をたどるようになってしまったといわれる。
よねは、戒厳令が布かれた2月27日になっても、一体世の中で何が起きているのかはっきり言ってわからなかった。
とにかく、大変な事態が起きていることは大人たちの血走った目を見ればわかるが、まさか政府を転覆させるような事件とは思ってもいなかったのだ。
当時は今のようにテレビもインターネットもない。戒厳令が布かれた国会議事堂周辺をライブ映像で見ることなどできなかったから、情報はすべて新聞とラジオに頼るしかない。
そのラジオから「叛乱軍!」とか「天皇のご命令!」などという言葉が出てくるのだから、人々はびっくり仰天していたのだ。
唯一の情報は、家をこっそりと抜け出した聡からのものだった。
《今回、60.000文字問題に引っかかった為、よもやま話はおやすみします…クヤチイ》
第12章「大事件勃発!」⑤ へつづく
※ 一部、SNS からお借りした画像があります
「2・26 事件 / 執筆参考文献 及び 確認映像」…
『図説 2・26 事件』…平塚柾緒著、河出書房新社
『日録20世紀』…講談社
『2・26 事件全検証』…北博昭著、朝日新聞社
『その時歴史が動いた/新資料が明かす2・26事件の内幕』…NHK総合テレビ
(ブログは毎週火曜日0時2分に更新予定です)