レンズがはずれたときに見える世界。『理解が得られた』のではなく『誤解がほどけた』なんです。
転載元:もっと あの世に聞いた、この世の仕組み
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(ここから)
「レンズは落ちなきゃ見られない」
マインドが、僕たち一人ひとりが生きる上での「(個人的な)世界」を映し出しています。
ただ、その理屈がわかっても、いざ自分が抱えている「マインドの中身」に気が付けるかというと、ちょっと話が変わってきます。
というのも、ほとんどの場合、マインドは「わたし」というこの感覚と『自己同一化』しているからです。
話をわかりやすくするために、「マインド」を「コンタクトレンズ」に置き換えて例えてみましょう。
この「コンタクトレンズ(信念)」は、自分のためになる(と思っている)ものにフォーカスし、ためにならない(と思っている)ものを除外してくれるオートフォーカス補正レンズです。
このレンズを通して見た補正された世界(ピントが限定された世界)が、「(自分にとっての)当たり前」を形作ります。
ここで一度イメージしてみてください。
普段はカタチを持たない「マインド(心)」というものが物質化し、コンタクトレンズとなってアナタの目に装着されていると。
ごりごりとした違和感もなく、とても自然に瞳に張り付いています。
さて、このコンタクトレンズ(信念)を装着したまま、そのコンタクトレンズ(信念)を観察することは可能でしょうか?
そう。できません。
「わたし」と「コンタクトレンズ」に距離がなく、自己同一化されているのですから。
レンズは、一度はずれることで、初めてまじまじと「こんなレンズ(誤解)だったんだ」と観察することができるんです。
いわゆる「一瞥」は、まさに、目から鱗。
以前からお話してきたとおり、「目から鱗が落ちる」とは、「あることをきっかけに、今までわからなかったことが急に理解できるようになることのたとえ」です。
このとき「理解」は、獲得されたものではなく、自分が抱えていた「ある信念(常識や価値観)」が『落ちる』ことによって明らかになった“何か”です。
『理解が得られた』のではなく『誤解がほどけた』なんです。
なので、この種のメッセージは、「答え」ではありません。
「こんなレンズ(誤解)が、あるがままの世界を歪ませて見せていた」という事実の表明です。
かつて釈迦が示した『無我』も、「そう思え」「そう信じろ」というものではありません。
「私がいる」というその感覚が、全てのレンズの土台にあるレンズであると指摘しているだけです。
それを答え・教えとして受け取ってしまえば、「あるがままの世界をイメージさせる新たなレンズ」になってしまいます。
「レンズがはずれたときに見える世界」は、レンズがはずれなければ見えません。
そして実に、僕がいまこうして綴っている『言葉』という要素もまた、日々僕たちが活用しているレンズの一枚なんです。
ですから、『不立文字』。
「レンズがはずれたときに見える世界」は、言葉として、具体的な答えとして、「これだ!」と提示できないのです。
ちょっと、図にしてみましょう。
僕たちの目には、何枚ものレンズ(信念)が重なっています。
その1枚目、目に直接張り付いているレンズが『分別』、「わたし」と「わたし以外」という感覚を作り出すレンズです。
この1枚目のレンズが落ちたなら、2枚目以降にどんなレンズがあったとしても関係ありません。何枚重なっていても問題ありません。
全部まとめて、ゴソッと落ちるんですから。
(ここまで)
ありがとうございます
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森林の中の光の撮影です。
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