「わたしが正しく、あなたが誤っている。わたしの主観に合わせなさい」というのが、争いの背景にある主張です。
転載元:もっと あの世に聞いた、この世の仕組み
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(ここから)
「主観 ≠ 主体」
一つの事象を前にして、人それぞれ捉え方が違う、ということは、ご理解いただけるかと思います。
この「人それぞれの捉え方」、つまりは、「わたしから見て」というこのことを『主観』と言います。
多くの場合、人はこの主観を「現実」として誤認しています。
「わたしが、今まさにそう感じている」という(個人的な)事実があるからこそ、それを「現実」と呼ぶのですが、主観はあくまで主観であり、誰にとっても共通の事実ではありません。
世にある様々な争い・軋轢は、この主観と主観のぶつかり合いです。
主観というのは、誰にとっても「わたしにとっての事実」であり、その事実は事実であるゆえ「正しさ」としても機能します。
争いに「善(正)と悪(誤)」という関係はありません。
当事者同士の、「主観と主観」、つまりは「(わたしにとっての)善と(わたしにとっての)善」のぶつかり合いです。
双方ともに、「わたしが正しく、あなたが誤っている。わたしの主観に合わせなさい」というのが、争いの背景にある主張です。
その仕組みに気づいていないからこそ、世から争いはなくなりません。
皆、自らの主観を頼りに「悪をなくせ!」と拳を振り挙げてしまうからです。
でも、そもそも「善と善」が争っているのですから、そこには「なくそう」としている悪がありません。
(一方、自己肯定感の低い方にとっては、「主観」の正当性の主張とは反対に、「わたしが誤っている、誰かが正しい。信頼できる誰かの主観に合わせなければ」という歪みに陥ります)
その愚かしさに気づきなさい、と呼びかけてくれるのが「宗教性」や「スピリチュアリティ」というものです。
「宗教性」や「スピリチュアリティ」は、「宗教」「スピリチュアル」と名の付いた、某かの信念や思想、正しさを提示しているわけではありません。
それでは、上記の「主観の押しつけ」となんら変わりありません。
では、「宗教性」や「スピリチュアリティ」で、実際は何が話されているかというと、「あなたが他者(もしくは自身)を貶めてまで主張している、その主観の持ち主は誰ですか?」ということです。
「わたしの考え」「わたしの思い」というときの、その「わたし(主体)」は、どこにいるのですか? という問いです。
『主体』というのは、思考や意志、行動をコントロールする、その主導権を有するもの、のことです。
主導権があるということは、そこには主となって物事を動かし進めることができる何者かがいるということ。
なので、先の問いを言い換えると…
その「何者か」は、本当にあなたが<わたし>と指しているものと、イコールで結ばれているのですか? ということです。
なのですが、
大抵の場合、疑いなく「主観 = 主体」だと思っているので、この質問の趣旨が掴めずに、「何を言っているんだ、その問いを向けるあなたがそこにいるように、わたしはここにいるじゃないか」となってしまう。
でも。
本当に、わたしは、わたしをコントロールしているのでしょうか?(「個人」における主体があるのでしょうか?)
物事を動かし進める力を有しているのでしょうか?
ここで、改めて五蘊を振り返ってみましょう。
色蘊(身体)
僕たちは、身体に対するイニシアチブを有しているでしょうか?
もし本当に身体に対しての主導権を握っているのであれば、病も老いもないはずです。
また、呼吸も鼓動も消化もまばたきも、ありとあらゆる身体機能に意識を向け続けていなければならないはずです。
ですが、実際のところ、身体は僕たちの思惑とは別に、勝手に機能しています。
病気になったとき、それを本当の意味で治療しているのは「自然治癒力」です。
「自己治癒力」ではなく「自然治癒力」。
だとすれば、治している(主導権を握っている)のは、「自己」ではなく「自然」の側です。
自身(と思っているもの)の思惑から離れ、勝手に動いているものを、はたして「主体」と呼べるでしょうか?
受蘊(感覚)
では、五感はどうでしょうか?
例えば蚊に刺されたとき、その痒みを、<わたし>の意志によって遮断することは可能でしょうか。
例えば目を見開いたまま、目の前にある映像を捉えないようにすることは可能でしょうか。
色蘊同様、受蘊も、僕たちのコントロール下にはありません。
ゆえに「主体」とは言えません。
想蘊(概念)
概念は単に概念であり、それ自体がイニシアチブを有しているわけではありません。
また、概念それ自体が物事を動かし進めるわけでもありませんから、やはり、「主体」とは言えません。
行蘊(意志・衝動)
意志・衝動はどうでしょうか?
僕たちが「何かをしたい」と思った時、なぜそれをしたいと思ったか、その理由を明確にすることは可能でしょうか。
「したい(したくない)」と現れた衝動を、瞬時に「したくない(したい)」と切り替えるイニシアチブを有しているでしょうか。
また、いかなる衝動も、自身の意志を持って発露させているでしょうか。
自身(と思っているもの)の思惑から離れ、衝動が勝手に沸き起こっているのであれば、やはり「主体」とは呼べません。
識蘊(認識)
何かを好み、何かを嫌う。
例えば、何かを食べたとき、それを「おいしい」と思うか「不味い」と思うか。
「なぜ、そう思ったのか。そう捉えたのか」
その理由を明確にすることは可能でしょうか。
認識をコントロールすることが出来るのであれば、どんなものを口にしても、それを「旨い」と捉えることが出来るはず。
でも、できません。
なぜか好きで、なぜか嫌い、なんです。
自身(と思っているもの)の思惑から離れ、認識が勝手に沸き起こっているのであれば、やはり「主体」とは呼べません。
さて、以上のとおり
「(わたしの)身体」
「(わたしの)感覚」
「(わたしの)思考」
「(わたしの)衝動」
「(わたしの)認識」
には、主導権がありませんでした。
身体も、感覚も、思考も、衝動も、認識も、それ自体が主体でないのであれば、<わたし>と呼べる「主体(個人)」は、どこにあるのですか?
身体、感覚、思考、衝動、認識、それらを「有している」という<わたし>は、どこにあるのですか?
以上のことから、この問いの提示が「主観の押しつけ」とは、まったく別な次元で語られていることに気づけますか?
(ここまで)
ありがとうございます
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