プレイヤーであることを、すっかり忘れたまま現象界を見て、現実だと誤認してしまっているだけなのです。
転載元:もっと あの世に聞いた、この世の仕組み
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(ここから)
プレイヤーを捜せ!?
「自分が本当にしたいことを、することができない」
「そう考えたくはないのに、どうしてもそう考えてしまう」
「明らかにイヤだと感じているのに、拒否できない」
「自分の為にならないとわかっているのに、やめられない」
「鬱々とした状態から抜け出したいのに、抜け出せない」
「変わりたいと思っているのに、変わらない」
「疲れているのに眠れない」
「怒りたくないと言いつつ怒りが収まらない」
「落ち着きたいのに落ち着かない」
「無自覚のまま、いつの間にか行動(思考)している」
「自分でも、なぜその行動をとったのかわからない」
などなど……
自分で自分の行動や思考をコントロールできていない、ということは、誰もが経験のあることだと思います。
気づいた時にはもうその状態だったし、その状態は自分だけではなく、周りの人たちも同じように見えます。(なんとなく、人により強弱はあるように感じられますが)
そして、ずーっとそうだったから、なんの疑問も違和感も感じることなく、その状態を「当たり前のもの」だとして受け入れていました。
でも、よくよく考えてみると、これはとても不思議なことです。
私が、その私自身を、「私の思い通り」にできないのですから。
他人の事を思い通りにコントロールできないなら理解できますが、自分の事を自分の思い通りにできないのですから理解に苦しみます。
さらには、自分のこともコントロール出来ていない反面、他人をコントロールしようとしてみたり。出来るわけ、ないのにね(笑)。
なぜ、自分で自分をコントロールできないのでしょう。
本当に、本当に不思議です。
私が私をコントロールできていないのは明らかな事実です。
だからこそ「私」は、自分の人生を思い通りに生きる事ができずに苦しんでいるのですから。
では、私が私をコントロールできていないのなら、私は、誰がコントロールしているのでしょう?
「私」が「私」を自由にできないのなら、その「私」は、本当に「私」なのでしょうか。
そしてもし、コントロールしているのが「私」ではない「誰か」なのだとしたら、その「誰か」は、「私」なのでしょうか。それとも「私ではない誰か」なのでしょうか。
「私ではない誰か」が「私」をコントロールしているのだとしたら、これまで「私」だと思っていたこの「私」は、一体何なんでしょうか。
考えれば考えるほど、わけがわからなくなっていきます。
「私とは何なのか、わかりません」という、なんとも妙な壁に突き当たります。
「自分で自分をコントロールできていない」というこの不可解な状態を痛感したとき、人は「本当の私(真我)探し」という旅に出ます。
「私は、私を、私の思い通りにすることができない」と感じるところがあるならば、そう言っている「私」が、その「私」に対しての主導権を持っていないことは明らかです。
この「自分で自分の行動や思考をコントロールできていない」という状態は、いわば、ゲーム世界の「キャラクター」としての意識です。
それは、「コントロールされている」という状態、もしくは、コントロールする必要のない「自動運転モード」状態です。
その意識状態においては、能動性を失った受動状態となってしまうため、「自分が自分の人生を作り出している」という自覚が薄れます。
「私以外の何かに、影響を与えられている私」というキャラクター意識状態は、あくまで受け身の意識ですから、その状態で好ましい出来事が訪れれば「運がよい」と感じ、受け入れがたい出来事を前にすれば「被害者」という感覚を持つこととなります。
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ただ、多くの人は「好ましい出来事」に対して、違和感や抵抗をあまり感じません。
「私はなぜこんなにも幸せなのか」と問うことなく、素直にそれを受け入れることができます。
これが、「受け入れたくない出来事」であった場合、違和感や抵抗を過敏に感じます。
受け入れたくないがゆえ、「なぜ私がこの状況を受け入れなければならないのか」という抵抗や「この受け入れたくない出来事から逃れるにはどうすればよいか」といった思考が生まれます。
「心地よいこと」は素直に「感じる」ことができます。しかし「不快なこと」は、出来るだけ感じたくありません。
以前から何度もお話しているように、「感じる」ことと「考える」ことは、同時に処理できません。
だからこそ、感じることを避けるため「考える」という方を優先して選択するのです。
「考える」という状態において、「感じること」から逃避することができるのです。
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受け身の意識、つまり、現実の創造に携わっている自覚がなければ、「あなたの前に現れる世界はすべて、あなたの責任において創造されたものである」と言われても、その言葉の意味が掴めません。
目の前にある理不尽で不都合な出来事の数々が「自分のせい」などとは、思えません。
自分の関与していないところで起こっているアレコレが、「自分のせい」などとは、思えません。
当たり前です。画面上で「キャラクターが動いている」ように見えても、それを動かしているのは「プレイヤー」であり、キャラクターは「受動の次元」を出る事ができないからです。
だから、「現実の創造に携わっている自覚」を取り戻すには、「受動(キャラクター)から能動(プレイヤー)への意識転換」が必要不可欠なのです。
しかし、残念なことに、この「キャラクター」がどんなに努力を重ねても、プレイの主導権を得ることはできません。
どんなに経験値が上がっても、どんなにゴールドを集めても、どんなに新しい呪文を覚えても、ロトの血をひく勇者が、あなたからプレイヤー権を奪ったことがないように。
そしてまた、「キャラクター」がどんなにプレイヤーを探しても、見つけることはありません。
ロトの血をひく勇者が、あなたを見つけたことがないように。
キャラクターがプレイヤーに変異することはあり得ないのです。
では、どうすれば?
簡単な話です。
あなたが、「元々キャラクターではない」ということを思い出せばいいのです。
いくらキャラクターになりきっているとしても、それはそう「思い込んでいるだけ」で、そもそもがキャラクターではないのです。
プレイヤーを捜しているあなたが、プレイヤー本人なのです。プレイヤーであることを、すっかり忘れたまま「モニターの中(現象界)」を見て、それが現実だと誤認してしまっているだけなのです。
だから、「私は自我(キャラクター意識)の塊です。真我(プレイヤー)ではないのです」と言っている「私」こそが、捜しているプレイヤー以外の何者でもないのです。
キャラクターがプレイヤーを見失っているのではありません。
プレイヤーがプレイヤーであるという自覚を見失っているのです。
自我が真我を見失っているのではありません。
真我が真我であることを見失っているのです。
自我があるのではありません。
真我が真我であることを見失っている状態が自我と呼ばれているのです。
だからもう、キャラクター(自我)としてプレイヤー(真我)を捜さないでください。
捜しても捜しても、あなた以外のところにあなたは見つかりません。
だからこそ、「本当の私」は、「私」の存在を受け入れない限り見つかりません。
だって、そこにしか「私」はいないから。
「私が嫌い」
「こんな私が許せない」
「いまの私は、本当の私ではない」
「私自身を愛せない」
「私は改善されなければならない」
「私は、もっと成長しなければならない」
「私は、未熟な私を認めない」
「私はまだ、プレイヤーを見つけ出せそうもありません」
そうやって「私」の存在を認めず、受け入れないからこそ、「私」が見つからないのです。
「本当の私捜し」の旅は、終えましょう。
それを「どこか」という「先」に求めるから、「私」から遠ざかっているのです。
それを「いつか」という「先」に想定しているから見つからないのです。
あなたが捜している「私」がいるのは、ほら、「本当の私とは?」と問うている「いまのここ」です。
(ここまで)
ありがとうございます。
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森林の中の光の撮影です。
引き寄せの法則、宇宙の法則
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