自分が演技をしていることを忘れているのと、演じているのを自覚があるのでは全く世界が違うんですよ。
転載元:もっと あの世に聞いた、この世の仕組み
http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/17eaaf1e8227099698de45f1e47ba40f
(ここから)
マトリックス.14
【chapter.16/初めてのジャンプ】
「心を解き放つんだ。入り口までは案内するが、扉は君自身で開けろ。」
モーフィアスのそのセリフに続いて、ネオの眼下に現れたのは巨大な高層ビル群。
「心を解き放つ」ために、一切の恐怖心を捨て、ビルからビルへの跳躍にチャレンジです。
…
「感情は捨てろ。恐怖・疑心・不信…。心を解き放つんだ。」
ダッ! -=≡ヘ(* `-´)ノ
v⌒v⌒v⌒ε=ヘ(* `-´)ノトーゥ!! ミ(ノ ̄ー ̄)ノスチャッ
ビルの谷間をスーパーマンばりの跳躍で、あっさり飛び越えてしまうモーフィアス。
(; ̄Д ̄) 「ワオ」
ビビリはするものの、モーフィアスに出来て僕に出来ないはずはない。僕だって!
ネオは果敢にチャレンジします。
「どうってことない。心を解き放て。絶対に跳んでやる。」
ダッシュ!-=≡ヘ(* `Д´)ノ
がっ!しかし!
/( _ロ_;)\ ウワーーーーッ!!!
アスファルトに向かって一直線。真っ逆さまに落ちてしまいました。
恐怖・疑心・不信…。そういったアレコレを捨て去り、「心を解き放つこと」はそれぐらい難しいのです。
「落ちた…。。。アイツは偽物?」
「それとは別。」
「だれでも最初は落ちる。」
トレーニングプログラムを追え、プラグを外されるネオ。
ふと気付くと、口の中が切れ、血が出ています。
「血!? 仮想のはずだ。」
「心が現実にする。」
「マトリックスの中で死ねば、ここで死ぬ?」
「心と肉体は一つだ。」
これも、精神世界ではよく聞く話ですよね。「思考は現実化する」って。
「病は気から」そんな言葉にも通じるセリフだと思います。
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マトリックス.15
http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/fed322680a44fdd1ff919c056ef3dc13
【chapter.17/監視人・エージェント】 (ここ、すっごく重要なチャプターです。)
プログラムが変わって、舞台は雑多な街。
「エージェント」を知るための訓練プログラムの中です。
信号機が青に変わると同時に、対向から黒ずくめの人々が一斉に渡り始めます。
人ごみにぶつかりながら歩くネオに、モーフィアスはこう説明します。
「マトリックスは社会システムだ。我々の敵は社会システム。その中にいるのは、ビジネスマン・教師・弁護士・大工…、我々が救おうとしている人々だ。だが今はまだマトリックスの一部で、つまり敵だ。彼らはまだ真実を知る準備が出来ていない。彼らの多くがマトリックスに隷属し、それを守るために戦おうとする。」
以前ご紹介したことのある、エックハルト・トール著「ニュー・アース」をお読みになった方なら、上記セリフの意味が明確に見えているかと思います。
この書籍の中とすり合わせると、ちょうど第四章の「エゴはさまざまな顔で、いつのまにか私たちのそばにいる」という、あの内容のことを表現しているシーンなんです。
僕たちは日々、マトリックスが見せる仮想現実の中で独自のドラマを紡いでいます。
そのドラマの脚本を書くのも、監督をするのも、主役を演じるのも、観客も全て「自分(自我)」です。
アナタが演じているのは、どんな役柄でしょうか。
ビジネスマン? 教師? 弁護士? 大工? 勇敢に悪と戦うヒーロー? それとも、悲劇のヒロイン?
「頭」は、自分が思う「自己イメージ(役柄)」に合わせたストーリーを書き上げていきます。
たとえば…
子供がいる男性であれば、「(○○な生い立ちで、○○を生業としている、○○な性格の)父親」という自己イメージ(役柄)に沿って、子供に向かいます。
その時、監督である「自分(自我)」が、行動の一つ一つに演出を加えます。
この「演出」が、普段無意識に行っている「固定化された思考パターン」です。
監督(自我)は言います。
「ここは子供と向かい合うシーンなのだから、声のトーンは普段よりやさしく、でも“親”としての上から目線は忘れないように。語尾には“でちゅよ”を付けなさい。」
その監督の指示に従って(固定化された思考パターンに基づいて)、「自分」は忠実に演技します。
「○○ちゃ~ん。ただいま~。いい子にしてまちたか~?パパの言うとおりにしないと、ちゃんとした大人になれないでちゅよ~。」
その時その子が、「なにそれ?気持ち悪い。そんな子供扱いなんてしないでよ。私はもう大人なんだから。」なんて、反抗的な態度を見せたとしたら、監督は黙ってはいません。
(-ε-)b" チッチッチッ 「あー、もぅ。だめだめ~。君がいくつになろうとも、僕の描いたドラマでは、君はあくまで“子役”なんだ。そんな演技は認めないぞ。さ、Take2だ。もう勝手なアドリブは許さないからね。僕の描いた脚本どおりに演じなさい。」
他人だけではなく、自分自身の演技に対しても同じ事をしています。
「大人の言うことを聞かない子供」という出来事・シチュエーションを前にして、「私は今父親役だから、このシチュエーションではこういう感情を出すべきだ。よし、怒ろう。」
なんて感じでね、子供が行った予想外のアドリブに対しても、迅速に脚本を書き換え、自作自演をするんです。
…
マトリックスに繋がれたままの人々は、自分だけに留まらず、他人まで自分の書いたドラマに巻き込み、勝手に相手の役柄、また、その役柄に合わせた演技指導までしてしまいます。
「私はカワイイお嫁さんを演じるわ。だからアナタはステキな旦那様を演じて頂戴。」
マトリックス(社会システム)の中で、“役柄”を通した人間関係を築いてしまう。
あらゆるコミュニケーション不全は、このことが原因となっています。
「自分の描いた脚本通りに周りが演技してくれない。」
それが、「思い通りにならない」というストレスに直結します。
でもね、考えてみてください。アナタが描いたドラマの脚本なんて、他の人たちは見たことも聞いたこともないんです。まして、その脚本は日々書き換えられてしまいます。
いくらアナタの書いた脚本が完璧でも、周りが思い通りに動いてくれない方が「当然」なんです。
アナタのドラマではアナタが主役ですが、他人のドラマの中でのアナタは脇役です。
その仕組みに気付いていない、マトリックスに繋がれた人は、相手の“ありのままの姿”ではなく、自分の描いたキャラクター設定を他人にも押しつけて、自分のドラマを、自分の描いたとおりに完成させようと頑張ります。
モーフィアスが言う「敵は社会システムだ」の意味は、そう言うことです。
そのシステム(ドラマの構造)に気付かないかぎり、彼らの多くはマトリックス(社会システム)に隷属し、それを守るために戦おうとしてしまいます。
そう、これまで描いてきた自分のドラマを台無しにしないために。
ですが、その“敵”は本当の“敵”ではなく、「救うべき人たち」なんです。
そして。
この映画で描かれる「エージェント(監視人)」とは、自我が持つ「監督」という一面のことなんです。
監督は「自分」だけではありません。
日々コミュニケーションを図っている他人の中にも、別な監督がいるんです。
監督はいつも言います。
「マトリックス(ドラマ)の中に帰っておいで。さぁ、演技を続けよう。」
…
真実は、「世の中(社会システム)は何か変だな」と気付ける感性のある人にしか見えません。
この世に生まれて、(生まれる前からあった)システムに洗脳されてしまうと、物事を深く思考することができなくなります。
それが「あたりまえ」になってしまっているので、深く思考する必要性も感じることはないでしょう。
目覚めた人々がどんなに真実を伝えようとしても、聞く耳を持たない人には伝わりません。
真実を知る準備は、病気や不幸などの“絶望”や“挫折”などを通して、その時期を迎えないと、なかなか気づけないことなのです。
人生において、様々な苦難を乗り越えてきた人には、やはりそれ相応の奥深い人格があります。
その奥深さは、何かを得ることによって生まれたワケではありません。「演技を止めたから」生まれたものなのです。
だから、奥深い味わいを醸し出すあの人は「いつでも自然体」なんです。
何も演じない「自然体」が本来の姿だから、本当の意味での「個性」があります。
何者かを演じることを止めた人に残るのは、「ありのまま」という姿。
…
え?僕ですか?
そりゃぁまだまだ演技をし続けていますとも。
仕事してれば「会社員」。
家に帰れば「お父さん」。
ブログを書くときゃ「雲 黒斎」。
買い物するときは「お客様」ですし、親の前では「子供」です。
でもね、自分が演技をしていることを忘れて演じているのと、演技をしている自覚があるのでは、全く世界が違うんですよ。
(ここまで)
ありがとうございます。
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森林の中の光の撮影です。
引き寄せの法則、宇宙の法則
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