みなさんこんばんは🍀絶賛スピリチュアル中のりゅうかです☀

少し記事更新が滞ってました😓年末年始喉をやられて未だに咳っぽい←毎年一度はこうなるのでコロナではないですよ~

特効薬は、暖かくなること😓でもそれはまだまだ先のことですね😓

外にある水場はこの通り






なんでこんな形に凍りつくかというと・・

寒冷地にお住まいってことのかたはご存じと思いますが、水をポタポタ垂らしておかないと、水道管が凍りついて水が出なくなったり、下手したら水道管破裂したりします。

で、ポタポタ水が落としてたら即凍りついて、柱になってました😓


そして神社の手水も(´・д・`)



氷の固まりになってるし(´・д・`)





別の神社もこの通り。

寒すぎ(´・д・`)

北陸では大雪で大変なことになってるみたい・・どうか早く日常に戻ってほしいです。


ショボーンショボーンショボーンショボーンショボーンショボーンショボーンショボーン

さて、本題。

タイトルにもあるように、「憑依」についてです。

これは、霊媒師さんが霊を降ろすのようなのとは違い、日常的に、「言うつもりはないのに言ってしまった」とか、「原因不明の痛み」とか、「なんとなく運気が落ちてる」みたいなもののことを言います。

我が家の次男は、おとどしの春から去年の春にかけて、原因不明の足の痛みにずうっと悩まされてきました。

今は、「そんなことあったっけ?」的に全然痛みはないです。

←このあっけない治り具合が、「憑依」の特徴

ただ、痛みの最中では、お医者さんはしごしたり、整体はしごしても全然治らず、「高校になって足の骨が完成するまで治らない」と半ば諦めモードでした。


この辺りのことはこちらの記事に詳しいです。


こういう、いわゆる原因のよくわからない痛みとか、トラブルとか、運気の落ち込みは、誰かの「念」による生き霊の場合もあるし、どこの誰とも知れない誰かの「記憶」から引き起こされることもあります。

生き霊については、このカテではわたしより皆さんのほうが詳しいかも。

本日は、あまり語られないほうの「記憶」の憑依について書こうと思います。

おねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがい


だいたい、突拍子もないトラブルとか、原因不明の痛みは、


「過去あるいは未来に、どこかの誰かが感じた記憶」が勝手に再現されてる

のです。

なぜなら、わたしたちの心(潜在意識)は実はぜんぶ繋がっていて、自分が今感じていること、考えていることさえも、「どこかの誰かの記憶の再現」であることが大半です。

ユングはこの辺りを「集合的無意識」と言いました。


ユングでなくても、わたしたちはときどき、

その人のことを考えていたら急にその人から電話がかかってきたり、

こうしたいな、と思ったら友達からこうしようよ、て提案されたり、

シンクロニシティ

が起きるのですね。無意識のうちに共鳴してしまっているわけです。

あるいは、考えもなしに体が動いてしまう。

言葉を発してしまっている。

たいてい、ぼおっとしていたり、気を抜いていたりすると、潜在意識に溜め込まれた他人の記憶が表に出てきて、自分でもびっくりするようなことを言ったりしたりしてしまいます。

そして、ぼおっとしているときに顔を覗けるのはたいてい、「波動の低い」ほうの記憶で、困ったことになったりするわけです。





えーえーえーえーえーえーえーえー

反対に、良いほうの憑依もあります。


こちらは芸術家などが「インスピレーション」と呼んだりします。

なにかに集中しているとき、無我夢中になっているとき、あるいは澄みきった気持ちになっていると、

パアッと光が差すように、何かが降りてくるのです。

でもこれも、全く新鮮なものではなく、たいていは、過去に誰かがそう感じた記憶に繋がっただけのことです。


おねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがい


いや、そんなことはない、自分はいつもオリジナルなことしか思ってないし、感じていない

と思う人もいるかもだけど、そんなことはありません。

自分の考えることはたいてい、他の人がすでに考えていたことであり、感じていたことです。


わたしたちはみんな等しく、人類全体の「記憶」を発現する器に過ぎず、

わたしたちが意志的にできることと言えば、どんな種類の記憶を再現するか、ある程度の方向性を決めることだけです。

わたしたちは、環境により、東アジア→日本人→住んでる地方や地域

のような大まかな記憶の再現の方向性を生まれたときから持たされており、その中で、自分のご先祖が抱いた記憶が主に優先的に再現されていきます。
 
唐突に地球の反対側の遠い人々の記憶が再現されることもあります。

困ったことに、ほんとうにランダムに、唐突に、「負の記憶」を再現させられる器になることもあります。

例えば、「飢え」の記憶は人類の深いところに本能的な恐怖の記憶を植え付けています。

そんな記憶は、現代でもしばしば蘇ります。
 
日本では、摂食障害で年間に100人亡くなっているそうですが、あれは「餓死」の記憶の再現です。

そしてわたしもしばしば経験しましたが、「飢え」の記憶も嫌というほど再現してきました。

ダイエットによってです


自分の意志でなにかをしていると思っても、人は、「人類の記憶の再現」からは逃れることができません。




ショボーンショボーンショボーンショボーンショボーンショボーンショボーンショボーン




一方で、「記憶の再現」を良いほうに捉えることもできます。

芸術でインスピレーションを受けたり、

何か偉大な魂の記憶を再現できたり、

例えば、「卑弥呼」の記憶を現代に再現したりする人もいます。

霊能力に関しては、古代以前の人類は皆等しく霊能力を持っていたそうですから、現代の霊能力者はある意味、「先祖帰り」している、と言うこともできます。




「憑依」というと、何かおどろおどろしい、スピリチュアル満載の、日常的ではない気がしますが、わたしたちは日常的にいつも記憶に「憑依」されています。

そして、その記憶は、あまりに膨大であるため、わたしたちの「意志の力」ではたいてい太刀打ちできません。

この世にあふれるほどダイエット法が溢れているのはそれだけ、「飢え」の記憶が根強いためであり、飽食の現代にあっても人々が半ば強制的に餓えの記憶を再現させられ続けているのです。

魂を解放するにはまず、

「わたしは今、何らかの記憶に憑依されている」と日常的に気づくことです。

じぶんでもぎょっとするほど残酷なことを考えたり、人を恨んだり、嫌ったりするのも全部記憶の再現です。

そして、人が唯一、記憶の再現からほんの少しでも自由になれるときがあるとしたら、それは、

自分より大きな高度な存在に、丸ごと自分を預けるとき

しかありません。

それが、日本人的には、

「神社仏閣で佇んでいるとき」

なのだと思います。

生き霊にも記憶にも憑依されず、素のままの自分でいることは、実は非常に難しいことです。

瞑想でかなり深いところまで降りてもまだ、記憶の再現からなかなか逃れられないのは、ある程度の瞑想をしている人も気づいていると思います。

そういう意味で、記憶の再現から自由になろうと自分で努力するのではなく、

丸ごと神々におすがりする、赤ん坊のように自我をすべて捨てて神々に相対することが、必要になってきます。





実は、日本人は、「赤ん坊のように無邪気になる」ことが非常に得意です。

西洋人が理性と人智を傾けて到達するような分野~ノーベル賞級の発明~を、日本人は無邪気さと幼い子供の好奇心のようなもので成し遂げてきています。

これが、日本が、西洋のような理性や富の蓄積や、徹底した利害と個人主義のような「成熟性」とは反対のベクトルでさまざまなことを成し遂げた秘密の一端でもあります。

そんな大袈裟なことではなくとも、



わたしたちが神社に行ったときは、

生まれたばかりの赤ん坊のような気持ちになり、丸ごと神々に委ねてみることが、記憶の憑依から逃れられるコツである、と感じています。