こにゃにゃちわ。
長谷川です。
じっとりと汗ばむ季節になってきました。
毎年夏が近づくと困る事が1つあります。
「コンビニのバイトに納入されるドリンクの量が増える」です。
500ml×24本入ってる段ボールが60箱とか来たりします。
終わる頃にはへとへとになるんですが、
帰り道は「終わった感」で妙にテンションが高くなったりします。
帰り道にふと思い立ち、途中下車して歩いて帰る途中にそれはありました。
写真はその「羽田空港の赤鳥居」です。
何年か前に空港の駐車場から移設されました。
その昔。
現在空港がある場所には3つの町がありました。
羽田鈴木町、江戸見町、穴守町の3つの町と森ヶ崎、大森にかけては
戦前の明治 大正と行楽地、保養地として栄え、
沖には小さい飛行場と海苔の養殖場が広がり
陸続きの島には
穴守稲荷神社を中心に海水浴場や競馬場、温泉、釣り堀、
ローラースケート場、演芸場まであり
大変賑わっていたそうです。
穴守稲荷の神社は元々は
「暴れ川」と言われた多摩川の堤防の穴から人々を守る、という由来なのですが
転じてその名前から「穴を守る」と花柳界、遊廓の人々から信仰されていました。
海岸沿いの森ヶ崎から平和島にかけて
鉱泉系の温泉街と遊廓があり
ちょっと先に行くと大森は山王に別荘が建ち並び、
花柳界もあって芸者さんが闊歩していました。
事実私の小さい頃近所に三味線のお師匠さんだったと言われるお婆さんが住んでいて
「何でこんな所に?」と思ったものです。
時を同じくして少し離れた蒲田には「蒲田行進曲」でお馴染み松竹蒲田撮影所がありました。
この街は体を休め、個人または親子で楽しみ帰って行く、そんな街だったんです。
全ては戦争で変わってしまいました。
戦争の足音が聞こえる昭和13年に海水浴場がなくなり滑走路を増設し
戦争が終わってすぐの昭和20年9月 羽田鈴木町、江戸見町、穴守町の人々に
「48時間以内」に立ち退き命令が米軍から出ました。
元々ある滑走路だけでは飛行機の発着陸が出来ない、足りないという理由で。
住み慣れた街を離れなければならなくなったのは人だけではなく、
そこに建っていた穴守稲荷までも移設しなければならなくなりました。
さあ、長い話がやっと冒頭の写真に繋がります。
つまりあの鳥居は「昔の穴守稲荷神社の鳥居」だったんです。
競馬場も釣り堀も海水浴場も演芸場もなくなりました。
繁栄していた頃の面影はこの「赤鳥居」と「大鳥居」という駅名に残り
海岸沿いの温泉は「平和島クアハウス」となり
花街、遊廓は大森海岸の駅近くのラブホ街を残すのみ。
そして昭和27年、米軍から飛行場が返還され現在の「羽田空港」になって行きます。
ここまで生まれ育った街を調べてみて感じた事が1つ。
それは「浅草になれなかった街」
という印象でした。
今 現在、私の職場・浅草は大変賑わっています。
浅草寺・雷門を中心として
六区には演芸場があり
浅草寺観音裏には花柳界があり
子供が遊べる花やしきがあり
遊廓-吉原もあり
少し離れた所には新名所として東京スカイツリーまで。
昔はもっと賑わっていたそうですが、
今でも国内、海外からの観光客で賑わっています。
浅草が最も栄えていたのは明治から大正、昭和にかけてだそうです。
奇しくも同じ時、
羽田・蒲田・大森も黄金期だったんです。
空港が出来た事により
「人が来る街」から
「人がどこかに行くための街」となり
その役割も変わった街。
その歴史は調べていて面白かったです。
最後に1つ。
先ほど浅草を「職場」と
言ったのには理由があります。
私の意地です。
今では観る影もなくなった
一大行楽地「羽田」に生まれ育った者としての意地。
俺の街も凄かったんだぞと、
嫉妬と羨望とが入り交じりながら
これからも「職場」浅草に行きたいと思います。
今日はこの辺で。
どうも、ありがとうございました。

