東京奠都(とうきょうてんと)は、明治維新 のとき
17日(1868年9月3日)に江戸が東京と改称され、
同年9月に元号が明治に改められた。
同年10月13日に天皇が東京に入り、明治 2年
慶応4年(1868年)閏4月1日、大木喬任
(軍務官 判事)と江藤新平 (東征大総督
府監軍)が、佐賀藩 論として「東西両都」
の建白書を岩倉に提出した。
これは、数千年王化の行き届かない
東日本 を治めるため江戸を東京とし、
ここを拠点にして人心を捉えることが重要であるとした。
ゆくゆくは東京と京都の東西両京を鉄道で結ぶという計画
だった。
徳川氏の移封と東京の誕生
慶応4年(1868年)5月24日、徳川氏 が江戸から駿府 70万
石に移されることが決まると、大木・江藤の東西両都案も
決された。
政府は同年6月19日、参与・木戸孝允 と大木に江戸が帝都
として適しているかの調査にあたらせた。2人は有栖川宮・
三条・大久保・江藤らと協議の上、同年7月7日に京都へ
戻り、奠都が可能であることを報告した。
これを受けて同年7月17日、江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔
書が発せられた。