1890年 ( 明治 23年) 10月30日 内閣総理大臣 と芳川顕正 文部
大臣に対して与えた勅語 である。
後の大日本帝国で、修 身・道徳教育 の根本規範と捉えられた。
また、外地 (植民地 )で施行された朝鮮教育令 (明治44年勅令
第229号)、台湾教 育令(大正8年勅令第1号)では、教育全般
の規範ともされた。
さらに、紀元節 (2月11日)、天長節 (天皇誕生日)、明治節 (11
月3日)および1月1日(元日 、四方節)の四大節と呼ばれた祝祭
日には、学校で儀式が行われ、全校生徒に向けて校長が教育
勅語を厳粛に読み上げ、その写しは御真影 (天皇 ・皇后 の写真)
とともに奉安殿 に納められて、丁重に扱われた。
しかし、1945年 (昭和20年)に第二次世界大戦の敗北 によって
GHQ の占領下に入ると、1946年 (昭和21年)には、「勅語及び
詔書等の取扱いについて」(昭和21年10月8日文部事務次官
通牒)と題する通達により、教育勅語を教育の根本規範とみ
なすことをやめ、国民学校令 施行規則も改正して、四大節の
儀式で教育勅語を読み上げることも廃止された(昭和21年10月
9日文部省令第31号)。
翌1947年 (昭和22年)には教育基本法 (旧教育基本法)が公
布・施行されて教育の基本に据えられ、学校教育 から教育勅
語は排除された。
衆議院 で「教育勅語等排除に関する決議 」、参議院 で「教育
勅語等の失効確認に関する決議」が、それぞれ決議されて、
教育勅語は学校教育から排除・失効されたことが確認された。
大日本帝国 当時、国民が子弟に普通教育 を施す義務(義務教育 )、
児童が教育を受ける権利 (しかも個々人に適切な教育を)に関
する基本規定は存在しなかった。制定されたのは戦後に日
本国憲法が出来てからのことである。
戦前は、義務教育と言う制度は、存在していなかった。