特に姿勢がいいというわけではなかったものの、猫背ではなかった私。
最近気がつくと猫背になっていることに気づきました。
「はっ」としては猫背を直し、「はっ」としては猫背を直していたので、バレていないと思っていたのですが、しっかり10さんに「最近猫背になってない?」と言われてしまいました。
自覚症状があるということは、他人からはもっとはっきり見えているということでしょうね。
と言ってもこの夏からなんですよ。
急に猫背。
加齢のせい?
筋力が落ちてきた?
いろいろ考えるに、職場のパソコンが変わってノートパソコンになったのが敗因かと。
今まではデスクトップのパソコンだったので、手元にキーボード、奥にモニタを置いて使っていたのですが、ノートパソコンはキーボードとモニタが分離しない。
資料や図面を手前に置いて、デスクの奥にパソコンを置いてうーんと腕を伸ばしてキーボードを使う。→猫背になる
原因が分かったので、あまり猫背にならないよう気をつけて腕を伸ばしていたら、最近少し姿勢が戻ったみたい。
やっぱり姿勢はいいほうがいいよね。
本日の読書:安楽死を遂げた日本人 宮下洋一
Amazonより
『ある日、筆者に一通のメールが届いた。〈寝たきりになる前に自分の人生を閉じることを願います〉送り主は、神経難病を患う女性だった。全身の自由を奪われ、寝たきりになる前にスイスの安楽死団体に入会し、死を遂げたいという。実際に筆者が面会すると、彼女はこう語った。「死にたくても死ねない私にとって、安楽死はお守りのようなものです。安楽死は私に残された最後の希望の光です」日本人が安楽死を実現するには、スイスに向かうしかない。お金も時間もかかる。ハードルはあまりに高かった。だが、彼女の強い思いは海を越え、人々を動かしていく。』
誰だって痛いことや苦しいことは嫌だ。
ましてやその先に「死」しかないのだったら、楽に死なせてほしいと思うだろう。
けれどいま日本では、安楽死は認められていない。
そんななか、安楽死を望む人たちが、どのような手続きを取ってどのように行動していったのかを書いたノンフィクション。
そもそも「死」は当事者だけのものなのか。
遺された家族の思いは考慮しなくてもいいのか。
一番よく聞くのは、「寝たきりになって下の世話までしてもらってまで生き続けたくはない」という意見。
たしかに下の世話をしてほしいかとか、寝たきりになりたいかと言われたら、嫌だ。
でも、それで生き続けることができるのなら、生きればいいと思う。
それでも生き続けることができない人のことを考えたら、それっぽっちのことは人間の尊厳とは何の関係もない。
と、子どもの頃、生まれてから一度も病院の外に出たことがないまま亡くなった3歳の女の子とそのお母さんの慟哭を、同じ大部屋からそっと個室に移って静かに人生をフェードアウトしていった私と同年齢の少女を、小学生の頃目の当たりにしてきた私は思うのだ。
だって、、そうしたら健康じゃない人は生きる価値がなくなってしまう。
とはいえ、大切なことだからこそ、考えは人それぞれ。
充分に議論して、選択肢を増やしていただければいいと思います。
ちなみに
「尊厳死」とは、延命治療の手控え、または中止によって導かれる死。
「セデーション」とは、治療に対する体の抵抗によって生じる苦痛を緩和する目的で、鎮痛剤などを投与すること。意識レベルを下げることで苦痛から解放させるとともに、死までの自然な家庭を見守る医療措置。
「安楽死」その苦しみが来る前に即効性の致死薬を投与して迎える死。
私にとっては、意思の疎通が図れなくなった時が、死を迎える時かな。
痛みには強いほうなので、安楽死ではなく、ギリギリまで痛みと共に生きて、最終的にはセデーションがいいと今は思っている。
感想は軽々には書けないので、今回はこの本を読んで考えた安楽死について、でした。
