『聖徳太子1400年御遠忌』


『叡福寺』!!
 … 『蘇我馬子』








































きらクロネコちゃん↑きらキラキラ



























『伝・蘇我馬子の墓』





『植木家墳墓』
… 伝『蘇我馬子の塚』











太子町に伝わる『蘇我馬子の墓』

  太子町太子集落の『西方院』から山田に向かって旧道を進むと、道の左側に沿って5~6M四方を生け垣で囲まれた中に一基の層塔 があります。
ここは『聖徳太子墓』の南東300mにあたりますが、『聖徳太子墓』の周辺にはこのような層塔が10基近く残っており、
それらは聖徳太子を養育した
『西方院』の『三尼公』(さんにこう)や、
墓前の『叡福寺』の僧侶の墓と伝えられています。

この層塔は江戸時代の『河内名所図絵』に
次のように記されています。
  馬子大臣塚
 西方院壱町計東の方 民家の前にあり
地元でも、飛鳥時代に聖徳太子を助けて活躍した大臣、蘇我馬子墓として、古くから信仰されてきました。

ただ『西方院』に鎌倉時代初頭の
建久4年(1193)に描かれたとされる原図を、
江戸時代末期に模写した『建久四年古図』が伝わっており、その図には「妹子大臣墳」と記されています。
これらの点から、
明治36年に発刊された『大阪府誌』には、
蘇我馬子塚 (略)伝へ云ふ馬子を葬りし地なりと。又或いはいふ妹子の塚なりと。
然れども 妹子の塚は山田村科長神社の南一町にありと云へば。今いづれとも定め難し。
としています。

『大阪府誌』がいうように山田にある
『小野妹子塚』と混同されたものなのでしょうか。
  しかし『蘇我馬子塚』とするにしても、
大和飛鳥の『石舞台古墳』が彼の墓と推測されていることや、馬子の権勢と合わせて、
この層塔をみると大きな疑問が残ります。
更にこの層塔はその形式からみて鎌倉時代に造られたとみられ、蘇我馬子・小野妹子のいずれを取るにしても、彼らが亡くなった飛鳥時代の600年ほど後になり、いずれの可能性もないものと思われます。

 この層塔を考える上で興味あるのは、鎌倉時代中頃に『法隆寺』の僧・顕真(けんしん)が著した『聖徳太子伝私記』に記されている次の資料です。 
 蘇我馬子廟桃源者
 河内国科長東条石川也 御廟辰巳方也
  当時、頂点に達していた聖徳太子信仰の
聖典のひとつされたこの』聖徳太子伝私記』にみえる “ 聖徳太子墓の辰巳(南東) の方に
蘇我馬子廟がある ” とされたこの記録によって、
この層塔が建立された可能性の高いものと思われます。
これが後世に継承され、
近世初頭の『叡福寺文書』に、この層塔が
『蘇我馬子墓』として叡福寺塔頭(たっちゅう)・中之坊(なかのぼう)によって管理されていた事が記されています。
  この『馬子墓伝承』が、このように
『聖徳太子信仰』と強く結びついて鎌倉時代に成立していたとすれば、
『蘇我倉山田石川麻呂墓』や『蘇我蝦夷墓伝承成立』の根源が、この『馬子塚』にあったのではないかと思われます。
  以上のように、この層塔が『蘇我馬子墓』である可能性はありません。

しかし、『石舞台古墳』を蘇我馬子墓とする説が登場して 100年も経たない中で、
この太子の層塔が『蘇我馬子墓』とされて以後800年、地元の人々が時空を越えて
『聖徳太子墓』とともに守り伝えてきたことを思うとき、郷土の人々の『蘇我氏』に対する篤い想いが偲ばれます。  


本足跡


























太い!!

立派な!!…椿 !!。。きらジジ!!きらキラキラ













ここより、少し行ったところには 。。
『伝・蘇我蝦夷の墓』もある 。。


































蘇我馬子 !! 。。。









蘇我馬子 !!。。。

日本の飛鳥時代の豪族





【時代】
飛鳥時代

【生誕】
欽明天皇13年(551年)?

【死没】
推古天皇34年5月20日(626年6月19日)


【別名】
嶋大臣

【官位】
大臣

【主君】
敏達天皇→用明天皇→崇峻天皇→推古天皇

【氏族】
蘇我氏

【父母】
父:蘇我稲目

【兄弟】
堅塩媛、馬子、小姉君、石寸名、
境部摩理勢、小祚、田中刀名

【妻】
物部氏娘

【子】
河上娘、善徳、蝦夷、刀自古郎女、
法提郎女、川堀、倉麻呂、杲安










蘇我 馬子(そが の うまこ)は、
飛鳥時代の政治家、貴族。
邸宅に島を浮かべた池があったことから
『嶋大臣』とも呼ばれた。
敏達朝で『大臣』に就き、 
以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年にわたり権勢を振るい、
『蘇我氏』の全盛時代を築いた。








【生涯】

以下は『日本書紀』『古事記』の記述によるものである。
敏達天皇元年(572年)の敏達天皇の即位時に『大臣』となる。
敏達天皇13年(584年)
『百済』から来た「鹿深臣」が石像一体、
「佐伯連」が仏像一体を持っていた。
それを馬子が請うてもらい受け、
司馬達等と池邊氷田を派遣して修行者を探させたところ、『播磨国』(一説によると赤穂郡矢野庄)で高句麗人の恵便という還俗者を見つけ出した。
馬子はこれを【師】として、司馬達等の娘の嶋を得度させて【尼】とし善信尼となし、
更に善信尼を【導師】として
禅蔵尼、恵善尼を得度させた。
馬子は『仏法』に帰依し、三人の尼を敬った。
馬子は石川宅に仏殿を造り、『仏法』を広めた。

敏達天皇14年2月(585年)、
馬子は病になり、卜者に占わせたところ
「父の稲目のときに仏像が破棄された祟りである」と言われた。
馬子は敏達天皇に奏上して『仏法』を祀る許可を得た。
ところがこの頃、疫病がはやり多くの死者を出した。
3月、【排仏派】の物部守屋と中臣勝海が
「蕃神を信奉したために疫病が起きた」と奏上し、敏達天皇は仏法を止めるよう詔した。
守屋は寺に向かい、仏殿を破壊し、
仏像を『難波の堀江』に投げ込ませた。
守屋は馬子ら仏教信者を罵倒し、
三人の尼僧を差し出すよう命じた。
馬子は尼僧を差し出し、守屋は
全裸にして縛り上げ、尻を鞭打った。
しかし、疫病は治まらず敏達天皇も守屋も病気になった。
人々は「仏像を焼いた罪である」と言った。
同年6月、馬子は病気が治らず、
奏上して『仏法』を祀る許可を求めた。
敏達天皇は馬子に対してのみ許可し、
三人の尼僧を返した。
馬子は三人の尼僧を拝み、
新たに寺を造り、仏像を迎えて供養した。
同年8月、敏達天皇が崩御した。
葬儀を行う『殯宮』で馬子と守屋は互いに罵倒した。

守屋
「(長い刀を差して弔辞を読む小柄な馬子へ)
まるで矢に射られた雀のようだ」

馬子
「(緊張で体を震わせながら弔辞を読む守屋へ)鈴を付けたらさぞ面白かろう」


橘豊日皇子
(欽明天皇の皇子、母は馬子の姉の堅塩媛)
が即位し、『用明天皇』となる。
『用明天皇』の異母弟の穴穂部皇子は皇位に就きたがっており、不満を抱いた。
穴穂部皇子は守屋と結び、
先帝・敏達天皇の寵臣三輪逆を殺害させた。
用明天皇2年4月(587年)、
用明天皇は病になり、『三宝』(仏法)を信仰することを欲し群臣に諮った。
守屋と中臣勝海は反対したが、馬子は詔を奉ずべきとして、穴穂部皇子に僧の豊国をつれて来させた。
守屋は怒ったが、群臣の多くが馬子の味方であることを知り、『河内国』へ退いた。
程なく『用明天皇』が崩御した。
守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが、
同年6月、馬子が先手を打ち炊屋姫
(敏達天皇の后)を奉じて穴穂部皇子を殺害した。
同年7月、馬子は群臣に諮り守屋を滅ぼすことを決め、諸皇子、諸豪族の大軍を挙兵した。
馬子軍は『河内国渋川郡』の守屋の居所を攻めるが軍事氏族の物部氏の兵は精強で稲城を築いて頑強に抵抗し、馬子軍を三度撃退した。
厩戸皇子(聖徳太子)が『四天王像』を彫り
戦勝祈願し、馬子も寺塔を建立し、
『仏法』を広めることを誓った。
馬子軍は奮起して攻勢をかけ、
迹見赤檮が守屋を射殺し、馬子は勝利した。
同年8月、馬子は泊瀬部皇子を即位させ、
『崇峻天皇』とした。
炊屋姫は『皇太后』となった。
崇峻天皇元年(588年)
馬子は善信尼らを『百済』へ留学させた。
崇峻天皇4年(591年)『崇峻天皇』は群臣と諮り、『任那』の失地回復のため2万の軍を『筑紫』へ派遣し、使者を『新羅』へ送った。
政治実権は馬子にあり、
『崇峻天皇』は不満であった。
崇峻天皇5年10月(592年)、
天皇へ猪が献上された。
崇峻天皇は猪を指して
「いつか猪の首を切るように、
朕が憎いと思う者を斬りたいものだ」
と発言し、多数の兵を召集した。
馬子は『崇峻天皇』の発言を知り、
天皇が自分を嫌っていると考え、
天皇を殺害することを決意する。
同年11月、馬子は東国から調があると偽って、
東漢駒に『崇峻天皇』を殺害させた。
その後、東漢駒は馬子の娘の河上娘を奪って妻とした。
怒った馬子は東漢駒を殺害させた。
馬子は皇太后であった炊屋姫を即位させ、
初の女帝である『推古天皇』とした。
厩戸皇子(聖徳太子)が『皇太子』に立てられ、『摂政』となった。
馬子は聖徳太子と合議して政治運営し、
『仏教』を奨励し、『冠位十二階』や
『十七条憲法』を定めて中央集権化を進め、
『遣隋使』を派遣して『隋』の社会制度や学問を輸入した。
推古天皇4年(596年)馬子は
【蘇我氏の氏寺】である『飛鳥寺』を建立した。
推古天皇20年(612年)堅塩媛を
『欽明天皇陵』に合葬する儀式を行った。
堅塩媛は「皇太夫人」と尊称され、
諸皇子、群臣が誄した。
『蘇我氏』の絶大な権勢を示した。
推古天皇28年(620年)
聖徳太子と共に『天皇記』『国記』
『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を記す。
推古天皇30年(622年)
聖徳太子が死去した。

馬子は聖徳太子と協調した一方、聖徳太子の進めた天皇権力の強化を警戒していた。
推古天皇31年(623年)
『新羅』の調を催促するため馬子は境部雄摩侶を大将軍とする数万の軍を派遣した。
『新羅』は戦わずに朝貢した。
推古天皇32年(624年)馬子は
元は【蘇我氏の本居】で皇室の領地となっていた『葛城県』の割譲を推古天皇に要求したが、
推古天皇に「自分は蘇我氏の出で、
大臣は叔父だから大臣の要求は何でも聞いたが、これだけは聞き入れられない」と拒否された。

推古天皇34年(626年)馬子は死去した。

馬子の葬られた『桃原墓』は、
奈良県明日香村島之庄の
『石舞台古墳』だとする説が有力である。 
また、同古墳の西数百mの位置にある
『島庄遺跡』について、邸宅の一部だったとする説がある。










【異説】

馬子の人物については『古事記』『日本書紀』の記述に負うところが大きいが、
いずれも後年『藤原氏』が権力を握ってから
編纂されたもので、『藤原氏』が栄達する契機となった『乙巳の変』で『蘇我氏』を滅ぼした正当性を高める目的で、
『記紀』に登場する『蘇我氏』は皇室乗っ取りを目論む横暴な豪族として悪事ばかりが強調されているのではないかという説がある。
推古帝の時代に
『冠位十二階制度』や『十七条憲法の創設』、『遣隋使派遣』といった政治外交における大きな事績を無視するわけにいかず、
これらを中心となって主導した馬子の功績を
皇族である厩戸皇子(聖徳太子)が行ったものと記し、馬子を太子の政敵に位置づけたとする説(「聖徳太子はいなかった」説、
「聖徳太子=蘇我馬子」説)がある。
また、専横著しい『蘇我氏』を排除したとされる『大化の改新』についても、近年事実関係が異なるのではないかという説が提唱されており、
馬子の子と孫である蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子は
後に実現する律令体制への移行を推し進め、
外交面では朝鮮半島への派兵計画に反対していたが、天皇即位を目論んでいた軽皇子は『乙巳の変』で入鹿を殺害し、蝦夷を自殺に追い込み、直後に『孝徳天皇』として即位した。
その後、『百済』支援を名目とした朝鮮半島への武力介入を強行したものの『白村江の戦い』に大敗し、『唐』、『新羅』との対立が深まる結果となった(乙巳の変#反動クーデター説)。
その後、
『天智天皇』として即位した中大兄皇子により『唐』との外交関係の修復や『太宰府』の強化による国防計画、『近江大津宮』への遷都が試みられたものの国内の不満は収まらず、
その死後に『壬申の乱』を招く結果となっている。
奈良県明日香村において、
『蘇我入鹿邸跡』とみられる遺構が発掘されているが、『日本書紀』に記されているように
入鹿が「上の宮門(みかど)」「谷の宮門」と呼称してあたかも天皇のごとく振る舞った根拠とされる遺跡からは武器庫や武器が発見されており、さながら軍事要塞の体を成していたことが確認されている。
入鹿が『唐』の侵略を警戒し、外交による解決を図るとともに有事の際に皇室を護る備えをしていたのではないかとする仮説が立てられており、『日本書紀』の記述とは大きな隔たりがあることが確認された。
また、『改新の詔』の内容については
『藤原京』から出土した木簡により文書が
奈良時代に書き換えられたものと決着した。
このように遺跡発掘による科学調査が進むにつれて、『日本書紀』の記述に疑いが生じ、
蘇我氏専横についても信憑性に疑いが生じている。









【伝説】

兵庫県相生市小河には
「宇麻志神社」(うましじんじゃ)という神社があり、今の祭神は『宇摩志阿斯訶備比古遅神』であるが、『明治維新』以前は
『馬子宮』と呼ばれ蘇我馬子を祀っていたとされる。

伝説によれば、蘇我馬子が『相生』に来て死んでしまい、その従者の将監光庵はその地名により『小河』を姓名とし、馬子の為に菩提を弔い、
剃髪して庵を結び、『光庵禅師』を名乗り、
子孫代々『光庵』を名乗ったという。



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