チカラのままに優しくありたい。

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参院選の2日前にこの文は書いてます。選挙権を獲得してから9年目。ようやく政治に興味がわきました。

興味というか、政治は、興味がわく、わかない、という問題ではないんだなとよく理解しました。

まぁでも、昔の僕はよく「興味ない」と思ってたので、今の僕は「興味がわいてきた」と言っておきます。


きっかけは1月に共演した子供たちでした。


彼女たちの純粋に演劇をやる姿。その姿、そして未来に、自分のこの5年間に感じた不遇を重ねてました。

いや、僕だけじゃない。僕の仲間、もしくは同じ境遇の演劇人。その人達は能力として立派に輝ける要素がありながら商業的価値観からはじかれ『いつか』一発逆転に近いようなものを狙う姿勢。

充実感と虚無感、そして生活の存続という現実の中で戦う姿。

それを個人の才能、境遇だけの話で、しかたない、と済ませる周囲の大多数による無意識の意識。

僕は彼女たちの光の先に闇があることを確実に知っていて、しかし今の自分には彼女たちがその闇にショックをうけたときに、ステータスの面でなにもしてやれないという無力なおじさんになってしまうと思いました。

このとき、彼女たち、もしくはまだ見ぬ夢追い人を救いたいという感情が、愛国心であると、ふと気付いたのです。


愛国心という言葉、僕はすごく右翼的で、天皇万歳!街宣車ぱっぱらー!みたいなイメージだったんでキワイ単語だとおもって使うのも憚ってきました。でも単純に「国を愛する心」と考えたら、自分が自分より若い世代の人を思う気持ちはそれだと説明がついたのです。

そしたらするすると今まで個人的に抱えていた謎がとけていきました。


◆無意識の心に根深くある確実でマジョリティな意識


芸術が「良いもの」でなければならないように扱われている無意識の意識、それにともなう排他的な態度、抽象芸術への理解度の低さ、生活費を稼いでこそ世間に認められるという思想、有名か無名かの選民意識…。


僕はずっと気持ち悪いと思ってました。


僕は、目の前にある芸術は絵画も彫刻も演劇もなにもかも、ただ『そこに在るだけ』で、そこに善悪や道徳的観念や商業的価値観は『存在してこそ』ついてまわるものだと思ってましたし、それはその芸術に触れた僕らが勝手に感じるもので作品自体とはある意味無関係の感覚だと思ってました。


しかし世間的には商業的価値観が先行してついてまわり、その価値観から外れた作品は“駄作”という烙印を作品自体が背負うようになっています。100歩譲って、最初から商業として企画された芸術・娯楽ならまだしも、いつのまにかその意識が利益を追求しない形態をとる芸術にもついて回るようになってしまって、『食えない=努力が足りない』 『利益追求しない=趣味の活動』という意識が常識として世の中の人にはびこってるんだとかんじました。

その流れはきっと僕が生まれるまえ、いつごろからだったのかはわかりません。個人的に高度経済成長が国民意識を変えたんじゃないかと怪しい気がしますが笑、日本人はまじめだから、もとより芸術への理解の仕方が欧米に比べ論理的なほうを優先したのかもしれません。


僕がこの思想を気持ち悪いとするのは、この無意識の意識や価値観からくる演劇の仕組みが商業規模はもちろん、自主性の高いアマチュア規模にも伝播していて、そのせいで多くの可能性と夢が失われている現実があると実感しているからです。


夢を諦めるということは、どういうことでしょうか。


お金がなくて活動できなくなった?自分の能力に限界を感じた?親と約束した期限がきた?そろそろ結婚したい?そろそろ社会的信用を得たい?将来が不安?怪我をしたから?病気になったから?

理由は様々ですがそのすべてが正しく納得できる、しかし、納得できないものだと僕は思います。

それは、そういう最後の結果だけに納得できるだけで、そこまでのプロセスにはきっと本人以外のプラスになる力が必要だった、または、それがあれば違ったんじゃないか、逆になければよかったんじゃないか、という、単純な“タラレバ”が考えられるからです。


タラレバなんて終わったあとに考えてもしょうがないじゃないか。


と、思いますよね。はい、そのとおりです。一個人、ミクロな思考でいえば、要らないと僕も思います。

だけど、マクロな思考で、夢追い人とカテゴライズされる人たちすべてを思って考えて欲しいんです。

そのタラレバがもしも存在できたら、夢を諦めたあなたが、本当に輝ける場所や表現やツールや環境やお金や人がそのときにあった、居たならば、世の中で輝けた(認知された)というのは、可能性として大きいと思うんです。


僕が言いたいのは、世の中すべての夢をあきらめるということが、ただの個人的なマクロな問題だけではなく、また偶発的なものでもなく、全て、目に見えない感覚的な、刹那的な、名前もつけられない何かも含め、それらと条件や理屈や事実が現実でリンクしたり混戦したりしている様子(時間)が起因していると思うんです。


社会やグループとしてのマクロ的思考や常識と、個性や個人のステータスといったミクロ的思考はまったく別のもですが、その両方が大事なのであって、何かを決断するときに、そのどちらかを瞬間的に選択したとしても、そのどちらかですべての悩みごとや不条理な現実は片付かないと思うんです。

さらに言えば会社やグループでのことを考えるふりして、結局は自分のことしか考えてないとか、君のために、とか言って、結局自分のことしか考えてない恋人は沢山いるし、むしろそれが自然な人間の姿だと思うほど、人の脳(心)はニュートラルさに向いていないんです。


僕は、この気持ち悪さを思うと、年代が下の子たちに『ほんとうの自由』の中で演劇を、芸術をこころゆくまでさせてあげたいのです。心ゆくまでやらせて、やめるならやめる、という消去法以外ではない決断をさせてあげたいと思いました。

それがなぜ愛国心なのか。簡単にいうと、僕はイギリスやアメリカ、中国で生活する人たちは、どうでもいいです。

これが海外の環境も含め素直に等しく同じ思いなら僕の意識は愛国心ではなく博愛という定義になるでしょう。しかし日本限定に起こる感情なのです。

勘違いしないでほしいのは、イギリス人、アメリカ人、中国人がどうでもいいのではありません。

イギリスやアメリカ、中国などの海外の演劇環境や価値観、国民意識がどうでもいいのです。

むしろイギリスは演劇に国民が尊敬をもっているのでうらやましいです笑。

この日本で、ということが僕にとっては重要なのです。日本で演劇を頑張る外国人にも、同じ思いです。

それは紛れもなく、愛国心だと主張します。




◆日本で演劇をする。


日本で演劇をする。


その意味です。僕は本人の心の充実、そのものだと思います。


人によってそれは何かはバラバラだし、確実な事象ではないし、充実とは忘却と常に隣り合わせです。


だからこそ、マクロな思考からくる誰も責任のとれない、その発言者本人の感情でもない感想で、充実感を侵害する現実には吐き気がします。


一番の理想はイギリスの国民性にあるような気がします。


演劇というものに尊敬の念がある。


だから単純に演劇を芸術として作品と素直に出会うことができている。


だからこそ、批判も生まれる。反省も生まれる。


食える、食えてない、規模がアマチュア、有名人が出ている、話題になっている。


それはあくまで付加される要素にすぎず、作品の真ん中にくるものではないです。


真ん中にくるべきは作品に触れた瞬間のあなた自身の心、感情、そのものです。


その感情に自尊心を持つべきで、抱いた感覚は感じておくべきだ。


だからこそ、批判は成立する。その批判の言葉が「だからこそ食えてないんだよ」だったりもするんじゃないかと思います。


いまはすべてが散らかっています。すべては経済と金融。そして常識と名付けられた非常識による罠です。



僕はいま自分の人生を大きく転換させて大勝負にでます。

くだらない思考で満ちた世の中を変えたいから、くだらない世の中が大事にしているものを大事にしにいきます。そうしていろいろ行動するとさっそく今日


演劇は趣味でやるんですか?


と質問されました笑。




僕の夢は、この日本で芸術に対して国民全体の意識として、尊敬の念をもつことです。


絵描きをタダで使ったり、規模やネームライツだけで無意識に作品や芸術家に対して矮小な扱いをしたり、勉強してないからわからないと言ったり、他人の言葉を気にして自分の好きを語れなかったり、そういうことがない世の中にしたいんです。

個人を否定したいんじゃないんです。長年かけて日本国民にすりこまれた意識を変えたいんです。

だから僕の夢は、僕が死ぬまでに達成できないでしょう。

でも僕が目の前の表現者を尊敬し、ときに優しくときにうざったくときに自分勝手に言葉や態度をかけつづければ、僕の意味のわからない行動にある原動力に気付いてくれる人はきっといるでしょう。

そしてその人達がその人たちなりの尊敬を意識してまた芸術と出会い続ければ、大きな運動やムーブメントになってきっと違う風は吹く。


いつかくる第○次小劇場ブーム。それは自民党政権が改憲し、個人の個をとった憲法の本質が政策や実施によって明確になり出した時期からきっと起こります。

なぜなら、大企業主体の商業演劇では、国民の不満や疲労をかっさらってくれる大きな力を持った作品を生むには限界があるからです。(面白い作品はたくさんあると思います)

小劇場で自由に作品つくってる奴らが、商業や大企業よりも、いまを生きる人の、心で感じていても気づかないもの、あーそれそれ!みたいな感覚を体現できたら、そのとき国民は今まではびこってきた無意識の意識や勝手に押しつけてきてた常識を捨て、名もなき芸術家を賞賛していることでしょう。

その賞賛を僕が受けていることが理想だが、それは僕ではないだろう。

憲法が変わっていきなり国が変わるわけではないから、僕が死んでからかもしれない。


でも僕は願いたい。いますぐ変わってほしい!

いますぐみんながみんならしく自分の言葉で感覚で芸術を尊敬したうえで、批評を感じていて欲しい。

そのヒントは子供のころの感覚だと思う。ただあの頃より大人になった。

僕らは他人を認めることを覚えた、許すことを覚えた。

それが尊敬することだと僕は思う。


だからあの日「なんとなく」好きになったこと、嫌いになったこと、それを全部尊敬してほしい。


芸術はそのひとの命の在り様。


目に見える心のかたち。


お金でも常識でも価値観でも個性でもしばれない、この世に確実に存在しているのに存在していないかたち。


だからこそ、お金に代わるし、名声に代わるんじゃないかな。

だからこそ、価値があったりなかったりとか議論ができるんじゃないかな。


順番を間違えないでほしい。

あとは何も難しくない。ただただ自由に、感じるままに。


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