こんにちは。

 

 今回は表題のとおり「主イエス・キリストが為されたことを心に留めて生きる」と題して書き進めていこうと思います。当ブログを今読んでいる人の中には、聖書を通読した事のある人もない人もいることでしょうが、現在の世界について皆が一様に思っていることは、益々生きづらくなってきており、異常なほど息苦しい社会であるということではないでしょうか。そう思わない人がいるなら、その人はこの世で権威あるものとされている人や組織が右を向けと言えば右を向く人であり、自分の頭では一切考えることが出来ない機械のような人です。家にいる時は常にテレビをつけ、テレビから流れてくる情報をまったく疑うことなく、そのまままるごと信じて鵜呑みにし、その情報を人に伝えたり、自分でも実践したりしているのでしょう。そのような人は今後もテレビが洗脳装置であるという事実には目を向けることもないでしょう。また、そのような人は例外なくこの三年もの間マスクを欠かさず着用していたのでしょう。いい加減おかしいと気付いてください。コロナ犯罪騒動からそろそろ三年が経過しようとしていますが、この騒動は政治的な意図を持って故意に起こされている茶番です。こちらの記事(コロナ茶番は新世界秩序(NWO)の道具 真の聖書福音と預言 ミカエル氏)をご確認ください。自分の頭でよく考えれば理解できるはずです。NWO支配層は、世界を一つにしようとしていますが、それが実現すれば超共産主義・超監視社会が完成したということであり、彼らに従わない者は投獄され、中には処刑される者も出てくるでしょう。数年前では陰謀論と莫迦にされていた事が、いよいよ目の前にまで迫ってきました。未だに陰謀論と嘲笑う人は、その到来と共にその波に飲み込まれ、NWO支配層に媚びてこの世に縋り、家畜のように生きて、最後までこの世は仮の世であるという事実に気付くことはなく、第一の死である肉体の死を迎え、すべての人間に定められた最後の裁きの時のために復活させられて意識が戻った時に、ようやく状況が把握できるのでしょうが、時既に遅しで、その時、神に向かって「今から回心します」といくら言っても聞き入れられることはなく無駄なことが分かり、絶望し泣き喚くことになってしまいます。そうならないためにも、先ずは新世界秩序(New World Order)について詳しく知らない人はこちらの記事(世の中の真相、新世界秩序(NWO)とこれからの動向 真の聖書福音と預言 ミカエル氏)でご確認ください。しかし、いくらこの世の欺瞞に気づいても、創造主であられる唯一の神を知り、神に立ち帰り、主イエス・キリストの信仰を持ち、死まで忠実に生きることが出来なければ永遠の滅びを免れることができないので無意味です。ですから、一日でも早くそれらのことに気付き、信仰生活を開始して、日々信仰を厚くし、神の律法、掟、戒め、神の創造の秩序等を聖書から学んで実践し、行いの実を実らせていく必要があります。何故なら、各自に神によって与えられている恩恵期間は異なり、それがいつ終了するかは人間には決して分からないからです。主イエスは既に戸口に立っておられ、各自の恩恵期間が終了すれば、入って来られ、その時にその人が実を付けていないことを確認されれば、見切りをつけられるのでしょう。マルコによる福音書十一章十二節から十四節とマタイによる福音書二十一章十八節から二十二節では、主イエスは言葉により、いちじくの木を枯らされました。この箇所は、各自の恩恵期間の終了や主イエスの再臨の時のことを暗示しているとも捉えることができるのではないでしょうか。主イエスがいつ来られるかは人間には分からないのですが、来られた時には、各自が実を付けていなければ滅ぼされるということです。いちじくの季節ではないから実を付けていないというのは言い訳になり、いつ主イエスが来られてもいいように実を付けて、更には、主が来られるまで実を落とさないようにしなければいけません。この出来事からも分かるように、主イエスは時が来たのに相応しい実を付けていない人間を容赦なく滅ぼされるということです。何事にも期限があるのです。故に、我々は急いで励まなければいけないのです。

 話が少し逸れましたが、結局は、この世の欺瞞に気付いても気付かなくても、不信仰であれば(唯一の神を信じなければ)同じ結末を迎えることになります。この世の欺瞞に気付いていると思っている人でも、この世の支配層やその支配層を操る悪魔が最も隠したい事実である創造主の存在に気付いていないなら、この世でもこの世の生きづらさによって苦しみ、更には次の世でも永遠の滅びという刑罰によって苦しむことになってしまいます。この世の権威と呼ばれるものは、すべて盲信するべきではありません。創造主なる神の存在を否定するために、ビックバン理論や進化論等の作り話が、この世の権力者たちによって作り出され(悪魔の知識である)、世界中に広められて、多くの人が洗脳されているにすぎないのです。コロナ茶番に気づき、ワクチンは毒であると知っている人たちは、この世の権威を盲信していない人たちともいえますが、それでも創造主である神を知らないなら、この世の権威が作り出した作り話に騙されていることになります。一度もこれらの作り話について真剣に調べたことがないのであれば、直ぐに御自身で調べることをお勧めします。そうすれば、これらの作り話に騙されていたことに気付くことが出来ると思われます。情報を受け身ではなく、能動的に取りに行くことによって、真実を知ることができる可能性が高まります。聖書には次のような御言葉があります。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(マタイによる福音書七章七節~八節)わし自身も信仰を持つ前のことですが、自分で進化論等の世の常識を調べていた時に、不意に創造主である神は存在することを悟ることができました。自分の力で悟ったのではなく、気付かされた、言うなれば、招かれたという表現が適切だろうと思います。本当にふっと考えが降ってきたような体験でした。また、聖書を読むようになってから思ったことですが、当該聖句を初めて読んだ時はに、最初に創造主である神の存在を知るに至った出来事等を思い出し、聖書の御言葉は本当に真理であると感動した自分にとって初めての聖句でした。人に自由意志を与えられている神は、人間が御自身を探し求めるのを待っておられ、心から神を探し求める者を招いてくださいます。どうかこの世の権威が作り出したすべての作り話を疑い、真理を探し求めてください。そうすれば、与えられ、見出だし、開かれるからです。

 

ここで話は変わりますが、「権威」という言葉について解説された文を下記に引用します。

 

「権威ということばは、さまざまな意味で一般に用いられる。日常的には、特定の分野における優れた人物や事物をさしたり、社会的信用や資格を意味したりするが、共通していることは、「社会的に承認を受けた」ということである。社会関係においては、制度、地位、人物などが優越的な価値を有するものと認められ、それらの遂行する社会的機能が社会によって承認される場合、それらの制度、地位、人物は権威を有している、という。この権威現象がもっとも顕著な支配・服従関係に限定すれば、強制力をもつ権力が社会的承認によって妥当性をもつに至った場合、権威が成立する。権力者が権力をもち、その権力を行使することが正しいと服従する者から認められる場合、服従者にとっては、その権力に服従することが正しいことであり、内容の吟味は二義的なものになってしまう。そして、強制によるのではなく、自発性をもって権力に服従することになる。このように、権力関係の正当性の信念が服従者に植え付けられたとき、権力は権威とよばれる。」(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) 谷藤悦史氏 コトバンクより引用)

 

 上記の権威についての説明にあるとおり「服従者にとっては、その権力に服従することが正しいことであり、内容の吟味は二義的なものになってしまう。」という箇所が、人を盲目にさせている所以だろうと思います。具体的には、誰が言ったとか、どんな組織が言ったとかではなくて、内容自体をよく吟味しなければ、騙されるということです。この世で権威に盲従している人たちは例外なく、政府、御用学者、御用医師、報道機関等に服従することが正しいことであると思っており、何も考えず従っているだけであり、彼らが言っているから正しいと思っているのであって、彼らが言っている内容の吟味など一切していません。この世で権威あるとされている者たちは、自分より上位の人から権威づけられているに過ぎません。そして、上記に引用した権威についての説明文からも分かるように、そもそも権威とは大衆を騙すための手口であることが理解できるかと思います。何故なら、権力者と服従者という権力関係を利用して、内容には目を向けさせずに、権力自体に目を向けさせて、強制ではなく自発的に服従させるように仕向けているからです。そのために多くの手法を使っており、全体主義や同調圧力もそのためのものであろうと思います。終末時代への警告として、主イエスは「人に惑わされないように気を付けなさい。」(マタイによる福音書二十四章四節等を参照)と仰りましたが、今後、益々多くの惑わしが、この世の権威を利用して行われると考えられます。あらゆる権威を根拠なしに正しいと決めつけて服従するのではなく、彼らが何を言っているのか又は行っているのかの内容の吟味をしなければ正しい判断などできないことに気付かなければいけません。この人は偉い人だからとか感じの良い人だからとかの上辺だけで物事を判断するのではなく、その人たちの言動をよく吟味して判断することが必要で、感情的ではなく理知的に判断する必要があるということです。しかし、惑わされずに、確信を持って進むには、聖書を読んで、神の御言葉、律法、掟、戒めを身に付けることしか対処法はないと断言できます。何故なら、終末時代においては、サタンとサタンに操られた支配者たちは、神の御言葉、律法、掟、戒め、神の創造の秩序を人々に破らせることを益々盛んに行い、最終的には法によって強制してきます。その時、神の法よりこの世の法に従ってしまえば、永遠に取り消されることのない霊的な刻印である獣の刻印を押されてしまい、永遠の滅びが確定します。ですから、神の法を知らなければ、いくらこの世で抵抗しても結局惑わされて、滅びに至ります。こちらの記事は(神の刻印、獣の刻印と黙示録の獣 真の聖書福音と預言 ミカエル氏)それらのことが聖書的に論証してあり、非常に有益な記事ですので、是非読んでみてください。時が経つにつれて、益々NWOの樹立が近づいて来ており、もう目の前にまで来ています。今ある世界を一つにするには、今ある物事を一度すべて破壊する必要があることから、時が経つにつれて、益々世の中は混沌を極めるはずです。聖書にもそのように書いてありますので、御自身で聖書を読んで確認してみてください。そのような世の中になってしまえば、聖書の学び等をする時間などは到底確保できず、それ故、神の御言葉を身に付けることが出来なくなるので、多くの惑わしを受ければいずれ正しい判断が出来ない時がくるので最終的には滅びに至ってしまいます。また、繰り返しますが、各自の恩恵期間は様々である故にいつそれが終了するのかは人間には分からないので、思い立ったその日に我らは悔い改めなければいけません。聖書をまだ読んだことがない人は、急いで聖書を通読し、学んだことを実践することを強くお勧めします。

 

 さて、聖書の中にも人々を騙すために権威を上手く用いてそれが成功している事例があります。それはパウロ及びパウロの書簡のことです。聖書の権威は、神が与えていると考える故に、殆どのキリスト信者は、パウロを偽使徒と認めることができなかったり、パウロの書簡に含まれる反キリスト教義を認めることができないでいます。勿論、聖書に関することを最終的にお決めになったのは神であり、聖書の権威は神に基づくものであると、わしも思いますが、聖書の中のパウロに関するものは、神の民を篩にかけるために、神が聖書に含めることを許可されたものであると考えます。そのことは、新約聖書の正典化の経緯等やパウロ書簡の内容をよく吟味すれば確信できることなのです。先に引用した権威についての説明文に書いてあった「服従者にとっては、その権力に服従することが正しいことであり、内容の吟味は二義的なものになってしまう。」のとおりのことが、聖書の中でも起こっており、パウロを偽使徒と認めない人たちは、パウロ書簡とそれ以外の聖書の内容を吟味して理性的に判断しておらず、中には聖書を一度も通読したことがないと言っている人もいます。権威に盲目になっていることに気付くべきです。

 

下記に新約聖書の編纂の経緯が書かれた文を引用します。

 

「西暦三百二十五年にニカイア公会議において、アタナシウスという者が「御子イエスは被造物」と主張したアリウス派を退け、イエスを神と認め、ローマ皇帝コンスタンティヌスが支持し、権威を得た。西暦三百六十七年、アタナシウスは、聖書の正典化の編纂に関わり、今ある新約聖書二十七巻が正典であると大枠を固めた。そして、西暦三百九十三年のヒッポ会議で、新約聖書二十七巻を「正典」と認定し、その四年後の西暦三百九十七年に行われた第三回カルタゴ会議で、再び新約聖書「正典」を今ある二十七巻と再確認の決定をした。このように、パウロ狂信者である異邦人たちが権威付けのために聖書の正典とそれ以外の外典や偽典という区分をすることを思いついて実行した。」

(偽使徒パウロの反キリスト教義 五 真の聖書福音と預言 ミカエル氏)

 

 上記の引用文にある通り、歴史的事実として、今ある新約聖書の二十七巻を正典とし、それ以外の外典や偽典を区別したのは、パウロ教の信者である異邦人たちでした。そして、彼らは聖書の絶対的な権威を悪用しました。新約聖書の中の多くをパウロ書簡が占めれば、パウロとパウロ書簡の権威付けは成功しますし、反対に使徒たちの書簡を極端に減らしたり、聖書の後ろの方に配置することによって、使徒たちの権威は弱められると考えたのでしょう。実際その手法は成功しており、新約聖書の多くを占めるパウロ書簡とパウロを多くの人は権威あるものとして捉え、盲目的に服従するが故に、内容の吟味は二義的なものとなってしまい、内容を吟味する人が殆どいないので、この策略に気付かず、結果、多くの人を滅びに至らせているのです。しかし、現状では偽使徒パウロの言葉を鵜呑みにすることが、滅びに繋がるとは思っていないと考えている人ばかりであり、それを深刻には捉えてはいないのです。天地は滅びるが、我が言葉は決して滅びない。(マタイによる福音書二十四章三十五節)と主イエスは語られましたが、当該聖句にもあるように神の言葉は決して滅びません。それ故に、神の言葉が人の内に留まるなら、その人も滅びることはないということになります。また、ヨハネによる福音書一章の冒頭には、言葉は神であったと書いてあります。主イエスは神であられ、言葉でもあられます。それ故に、主イエスの言葉が人の心に留まるなら、その人は滅びるはずがないことが分かります。何故なら、純粋な神の言葉だけが心に留まる人は、神と共に居るからです。しかし、純粋な神の言葉だけではなく、神の言葉に矛盾した数々のパウロの言葉が人の内に留まれば、その人は滅びる可能性があります。何故なら、神は真理であられるので、矛盾したところには居られないからです。神は人に一致を求められる故に、純粋な神の言葉と共にしか居られません。ましてや、神は反キリストの教義が心に刻まれている人と共に居られることなどは決してないのです。パウロとパウロ書簡を疑うことが未だ出来ない人は、今からでも主イエスと使徒たちの言葉とパウロ書簡を吟味してみてください。そして、こちらの記事(偽使徒パウロの反キリスト教義一 真の聖書福音と預言 ミカエル氏)を読んでみてください。この記事は全七回の連載となっており、完全に聖書的に論証しておられることをわし自身も確認しています。

 

 繰り返しますが、この世の権威を盲信する人は、権力・権威自体を盲信しているに過ぎず、彼らが発する内容については何ら吟味していないことが確認できたのではないでしょうか。権威を盲信する人は、政府が言っているからとか、医者が言っているからとか、有名人が言っているから等の誰が又はどの組織が言っているのかしか考慮せず、内容についての吟味が一切ないということです。これは極めて感情的な判断であり、理性的ではありません。これで騙されないはずはありません。そして、更に厄介なことに権威が作り話を作り出し、それを言い広めている事実もあります。ですから、たとえ内容の吟味をしたとしても正しく判断することができないならば、そこでも躓くことになります。作り話と果てしなく続く系図に注意しなさい。それらは信仰による神の摂理よりも論争を引き起こす。(テモテへの手紙一 一章四節 私訳)これは偽使徒パウロの言葉ですが、聖句を検討した結果何ら問題はなく、多くの人が確認できる新約聖書に収録されているが故に引用しました。権威による作り話は、この世には無数に存在することでしょう。地球球体説や地動説はNASA、政府、科学者、学校等の権威が総出で作り話を広めています。進化論も然り、キリスト業界であれば、神学もそうです。カルバンだのアルミニウスだのすべては論争を生む種であり、各自に定まった恩恵期間の問題や有限で非常に短い寿命しか与えられていない人間にとっては、これらの作り話がもたらす論争がまさに命取りとなり、真理を知る前に時間切れとなり、地獄行きが確定してしまうことになりかねません。それ故に、例えば、いわゆるフラットアースに関する知識はこちら(地球球体説と地動説という大嘘と太陽神崇拝 真の聖書福音と預言 ミカエル氏)を読んで理解し、騙されていたことに気付くだけでいいのであって、これ以上の知識を付けるために深堀することは時間の無駄であり、更なる知識を得るために調べることにのめり込むのであればそれは知識欲であって、神よりこの世のことを愛している状態に陥っているのであり非常に危険な状態です。これはすべてのこの世の知識全般について言えることだと思います。そして、この世の知識が深まれば深まるほどに、自分の蓄えた知識に反することを言う人を見逃せなくなったり、論破したくなったりと議論の虜にされていくのだろうと思われます。心の中の大部分を占めていることが、神に関することよりこの世のことであるために、そのような状態に陥っているのです。もし、そのような状態に陥っているという自覚があるならば、主イエスの信仰がある人は、主イエスが成し遂げられたことを今一度思い返すべきではないでしょうか。主イエスを信じていない人も、全人類のために、神であられながら、人としてこの世に来られ、全人類の罪を贖うために、十字架に架けられた神についてよく考えるべきではないでしょうか。このようなことは作り話だと聖書も読まずに早急に結論してしまえば、必ず後悔することになるので、聖書を通読してから結論することを強くお勧めします。聖書は主イエスを証言するものである(ヨハネによる福音書五章三十九節参照)と書いてあり、ヨハネによる福音書一章の冒頭には「言は神であった」とも書いてありますので、聖書を読まない人は神を求めていない人であり、信じていない人ということになります。「信じひん者は既に有罪判決を受けてる。」(ヨハネによる福音書三章十八節 ミカエル氏訳 真の聖書福音と預言 偽使徒パウロの反キリスト教義二より引用) とも書いてあるように、聖書を読まない人は、この世で既に有罪判決が確定していることになります。それは我らのために神が行われたことを知ろうともせず、無視し続けた故であり当然の結果ではあります。神より自分や自分の愛するものを優先させた報いになります。

 

 それでは、旧約聖書の預言書イザヤ書と新約聖書のペトロの手紙一から主イエスが為された偉大な御業について書かれた聖句を下記に引用します。下記に引用したイザヤ書に記された「彼」とは主イエスのことです。少し長いですが最後まで是非読んでいただきたいです。我々が仕える神の偉大さが理解できるかと思います。

 

誰が、我らが聞いた事を信じたか。主の御手が誰に現れたか。彼は彼(主)の御前で若枝のように、乾いた地からの根のように成長する。彼には(好ましい)風貌もなく、威厳もない。我らが彼を見ても、我らが彼に望む容姿はない。彼は軽蔑されて、人々に拒絶された。苦しみの人で病を知っていた。また、我らから顔を隠す者のように、軽蔑された。そして、我らは、彼を重んじなかった。それにも関わらず、彼は我らの病を担われて、我らの苦しみを彼らに負わせた。しかし、我々は、彼は触れられて、神に打たれて、苦しめられていると思った。しかし、彼は我らの罪の故に刺し貫かれ、我らの不義の故に打ち砕かれた。我らの平安の(ための)懲らしめは、彼の上にあった。そして、彼の打傷によって、我らは癒された。我らは皆、羊のようにさ迷った。我らは各々自分の道に向かった。そして、主は彼に我らのすべての不義を背負わせた。彼は虐げられ、苦しめられたが、彼の口は開かなかった。屠り場に導かれる子羊のように、その毛を刈る者の前で物の言えない雌羊のように、彼は彼の口を開かなかった。彼は投獄と裁きによって取り去られた。その世代の誰が思案しただろうか。彼は我が民の罪、彼らの故の災いによって、生きている人たちの地から絶たれたということを。彼は不法を行わず、その口に偽りがなかったにも関わらず、彼はその墓を悪い者らと共に、その死によって富んだ者と共にされた。その上、主は彼を打ち砕くことを望まれ、病ませた。もし、彼がその魂を賠償の献げ物にするなら、彼は子孫を見て、生涯を長くするだろう。主の望みはその手によって成功するだろう。彼は自分の魂の労苦を見て、満足する。その知識によって、正しい我が僕は多くの人に正しいと言われる。何故なら、彼は彼らの罪を担うだろうからだ。それ故に、我は彼に多くの人を分け与える。また、彼は戦利品を強い人々と共に分配する。何故なら、彼は自分の魂を死に至るまで注ぎ出したからだ。彼は背いた者らと共に数えられて、多くの罪を担った。そして、背いた者らのために執り成しをするだろう。

(イザヤ書五十三章 私訳)

 

 

もし罪を犯し、叩かれて耐えようとも、何の栄誉になるやろか。しかし、もし善を行って苦しみ、耐えるなら、それは神からの好意や。あなたがたは、このために召されたからだ。何故なら、キリストも我々のために苦しまれ、あなたがたがその足跡に従うために、我々に模範を残されたからである。この方は罪を犯さず、その口に偽りも見出だせなかった。この方は、罵られても、罵らず、苦しんでも、脅さず、正しく裁かれる方に委ねられた。この方は、我らの罪を木で、自らがその身によって担われた。我らが、罪に死んで、義に生きるために。そのあざによって、あなたがたは癒された。あなたがたは羊のように、さ迷わされたからだ。しかし、今、あなたがたは、あなたがたの魂の牧羊者であり監督者に立ち帰った。

 

(ペトロの手紙一 二章二十節 真の聖書福音と預言 ミカエル氏訳 日本人の問題点二より引用 二十一節~二十五節 私訳)

 

 我々は常に心に留めておくべきことではありますが、特に心が打ち負かされそうな時には、上記に引用した聖句にも書かれている主イエスが為されたことを思い、人間のために忍耐し続けた方のことをよく考える必要があります。(ヘブライ人への手紙十二章二節~三節 参照)そうすれば、我らは何事をも乗り越えることが出来るはずです。そして、上記イザヤ書とペトロの手紙の聖句からは、偉大な神の御品性の一端を窺い知ることができます。神は愛であるからだ。(ヨハネの手紙一 四章八節 参照)という聖句の中の日本語訳で愛と訳されているギリシャ語原語はἀγάπη(アガペー)であり、無償の愛を意味します。自発的に耐え難い苦しみを受けて、侮辱され、十字架に架けられても、神にとっては人間からの見返りは何もないにも関わらず、人間への愛と憐れみの故に、神が人間になってまでもこの世に来てくださり助けに来てくださったという事実から神は愛であることが理解でき、無償の愛を学ぶことができます。ですから、このようなことを思えば、不信仰であるということや各自が神を一番に思うのではなく、神より何かを優先するということが、本当に罪深いことであることが分かります。この世のことに夢中になる人は、主イエスの為されたことを心に留めていない人であると思われます。何故なら、上記のイザヤ書等を読んだなら、最早、この世を楽しもうという気など起きないはずだからです。自分自身のために、罵られ、苦しめられ、痛めつけられた方の思いを知りながら、この世を楽しむ気など起きないはずです。そうは思わないなら、他者の気持ちを考える力が無さすぎるし、自己愛が強すぎるのではないかとわしは思います。主の為されたことを思えば、感謝の念が湧きあがり、自然と心から主イエスに従いたいという気持ちが湧きあがるだろうと思います。それが主イエスへの信仰であり、キリスト者のすべてであると言っても過言ではないと考えます。近い将来に、全世界のすべての人間は神の刻印か獣の刻印かどちらかを受けることになります。即ち、神の法に従うのかこの世の法に従うのかの二択のどちらかを自ら選択しなければいけない時が来るのです。その時のためにも、主イエスは、神の民のために、上記イザヤ書に書いてあるように人間に模範を示してくださいました。それはその時が来たら、我らも主イエスの為されたことを思い出し、同じ道を確信をもって雄々しく歩むためです。模範があるということは何と有難いことでしょうか。もし主イエスが模範を示してくださらなかったら、わしは今頃どうしたら良いのか分からなかったでしょう。上記に引用したペトロの手紙にもはっきりと「あなたがたがその足跡に従うために、我々に模範を残されたからである。」と書いてあります。しかし、主イエスが十字架に架かってくださったので、そのおかげで人間は主イエスと同じ道を歩く必要がないと言う人がいますが、繰り返しますが、上記のペトロの手紙に書いてあるように、主イエスは我々がその足跡に従うために模範を残されたので、そのようなことを言う人は、主なる神の御意志に反する人であることは間違いありません。それ故、反キリスト発言であることに気付くべきです。主イエスに従う人は、この世では主イエスと同じように苦しむのは当然です。何故なら、この世の神はサタンであり、彼の統治下であるからで、彼が神の民を迫害しないわけはありません。それ故に、この世では神の民が苦しまないはずはありません。もし苦しむことがないのなら、悪魔の子であり、神の民ではないことになります。また、聖書には、あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主である我は聖なる者である。(レビ記 十九章二節 参照)と書いてあります。また、使徒ペトロも自身の書簡で当該聖句を引用して語っています。(ペトロの手紙一 一章十六節 参照)神は人間にも御自身と同じように聖なる者、完全なる者(マタイによる福音書五章四十八節 参照)となるように望んでおられます。しかし、人間は聖なる者、完全なる者などにはなれないと断言している人をも見かけますが、神が人間には不可能なことを意地悪で仰っているとでも思っているのでしょうか。否、勿論、人間にも可能だから仰っているのであり、聖霊がそれを可能にします。また、神の律法、掟、戒めも、人間が聖なる者、完全なる者になるためにも与えられているのです。これらを守ることにより人間は、善と悪、清いと汚れ等の聖別をしているのです。それ故に、神の律法を全うしなければ、決して聖なる者にはなれません。しかし、神の律法を全うするにも人間の力だけでは無理で聖霊の御力がなければなし得ません。聖霊を受けるにはどうしたらよいのかすべて聖書的に論証してあるこちらの記事(聖霊を受ける条件と悪霊の働き 真の聖書福音と預言 ミカエル氏)を読んで、直ぐに実践されることを強く推奨します。

 主イエスは父なる神への愛故に御父の御意志を全うされました。それ故、人間も主イエスの歩かれた同じ道をそのまま歩くことで御父の御意志を全うすることができることになります。即ち、神への愛故に神の掟を死に至るまで守り通すことです。そのような者たちが聖なる者であることが黙示録十四章十二節を読めば分かると思います。また、ヨハネによる福音書六章三十九節から四十節を読めば分かるとおり、父なる神の御意志とは、我らを終りの日に復活させることであると明確に書かれています。主イエスは御父の御意志を全うして永遠の命のために復活されました。それ故、主イエスと同じ道を歩き、その模範を全うする人も終りの日に同じ様に復活することでしょう。携挙信者は、人生の途中で自分が引き上げられることばかり考えており、聖書に明確に書いてある御父の御意志である復活に望みを託していないようです。それは主イエスの為されたことの結末でもある復活に望みを託していないことと同義であると考えます。主イエスが模範を見せられた道だけが御父のもとに行くことができる唯一の道です。すべての人間は、主イエスがこの世にまで来て模範を示されたことを無駄にすべきではありません。キリスト者であれば、主イエスの弟子であり、主が示された模範のとおりに行うべきなのです。唯一の道を共に歩む人が、一人でも多く出て来ることを願っています。最後まで読んでいただきありがとうございました。