定期的にお会いして、毎回のように新しい知識とインスピレーションを頂けている平塚在住の友人がいます。
リスペクトしてやまない彼女から、八王子道を辿っているブログ記事に「平塚に住んでいながら初めて知ることばかり」という意外な一言。日頃お世話になっているだけに、少しでも役に立っていたことを知ることができて何だか嬉しくなりました。
本題の八王子道に戻って。前回記事の「古戦場跡」石碑、その横に立てられている案内板(↓)
ご紹介した北条軍vs上杉軍、北条軍vs武田軍よりも以前から争いの場所になっていたようですね。
地元民の私には、太田道灌公の仕えた扇谷上杉氏と山内上杉氏が争った戦場が厚木・伊勢原にも点在していることもあり、「ここでも戦っているのか」という点に興趣を惹かれました。
古戦場跡の碑から街道をやや北上しました。田園地帯の向こうに大山と
左手奥に薄く富士山を眺めることができます。今はたんぼですが、戦国時代は沼地が広がっていたであろうこの地域が、説明板にある「八幡原」だったのかな、と想像する次第。
ところで。以前の記事と重複しますが「司馬遼太郎の考えたこと」第2巻に次のようなことが書かれています。
太平洋戦争中、戦車部隊に属していた司馬さんが「厚木・平塚」に広がる泥田(つまりこのあたり)に出張し、軍の上層部から沼地のようなぬかるみを戦車で突破できるか、という実験を命ぜられました。
戦車は泥にはまることなく、楽々と走り抜けられたそうです。
この結果を目の当りにして、敵の米軍はこのような「悪路」を選択するわけがない、と思い込んでいた軍の上層部は顔色が変わるほど慌てふためいたのだとか。
これは戦後に明らかになったことですが、「本土決戦」に至った場合、米軍は平塚から上陸して八王子付近まで北上し、中央線沿いに首都東京に攻め込む作戦だったそうです。
今辿ってきている「八王子道」が米軍進撃路にならず、救われるような思いに。もっともこの作戦が実行されていたら、私もこの世に生を享けていたかどうかもわかりませんが。
この付近は市境に近い場所。次回は長く「滞在」した平塚を離れて、厚木へと歩みを進めます。