【歴代天皇振り返りシリーズ第6回】第十二代景行(けいこう)天皇(紀元前13年~紀元後130年)ー日本武尊(やまとたけるのみこと・ホツマツタエだと”ヤマトタケ”)の父。九州、東国に掛けて勢力を大幅に拡張。
*熊襲(くまそ)と蝦夷(えみし)を討伐して、辺境にまで勢力を拡大しました。『古事記』では景行天皇は137歳まで生き、77子を諸国に封じたとされていることから、実在が不明確な天皇でもあります。それと同時に、景行天皇の子である日本武尊も多くの学者から存在を否定されているそうです。(ホツマでは明確に実存されています)
*『日本書紀』によると、まず景行天皇が九州南部にいた熊襲という種族を征伐。征伐後、景行天皇が大和にもどると、再び熊襲がヤマト政権に背きました。そのため日本武尊が派遣され、熊襲の長である川上梟帥(かわかみたける)を討ちました。...
*『古事記』の中では日本武尊が中心に物語が進んでいきます。まず、日本武尊は景行天皇の命令を取り違え、兄を殺してしまいました。これを知った景行天皇は日本武尊を恐れ、熊襲討伐を命じました。天皇の命令をうけた日本武尊は、伊勢へ行って叔母の衣装を借り、女装して熊襲健(川上梟帥のこと)に接近。 暗殺を成功させました。 熊襲を制圧した日本武尊は、帰りに出雲健(いずもたける)を倒して、大和に帰還しました。
その後、今度は東への遠征を命じられました。
これに対し日本武尊は
「天皇は私のことを、早く死ねと思っているのか・・・。」
と嘆きます。それでも、命令に従って東征へ。
日本武尊は出発前に、伊勢で叔母から天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)をもらいました。この剣が、相模で野火の難にあったときに活躍。天叢雲剣で草を薙いで、危機を脱出しました。こうしてこの剣は「草薙剣」と呼ばれるようになりました。
苦難の末、東国を平定した日本武尊。
しかし、遠征の疲れで病気になり、その後、亡くなってしまいました。景行天皇と日本武尊の伝承は、ヤマト政権ができあがる過程が伝説化されたものだと考えられます。ヤマト政権は景行天皇の時代に九州、東国にかけて勢力を拡大したのでしょう。垂仁天皇の第三子で、日本武尊の父であった景行天皇。
熊襲・蝦夷を討伐し、辺境にまで勢力を広げた。
在位期間は60年間で、106歳(古事記では137歳)で没したとされている。ー日本の歴史。com参照ー
■日本武尊の父
景行は非常に精力家の天皇で后を10人もち、80人もの皇子女を設け、古事記では77子を諸国に封じたとされる。ただし、これらの数字は事実とは考えられず、景行天皇の関しては実在が疑問視されている天皇の一人である。なお、子である日本武尊も一部の学者からは存在を否定されているそうです。
■実在期間は3~4世紀
ヤマト政権は、景行天皇の時代の実年代と考えられる3~4世紀前半から、九州、東国に掛けて勢力を大幅に拡張している。
内容的に「記紀」のディテールにはかなりの違いがあるものの、この功績が、景行天皇と日本武尊の活躍によるものとしている点では一致している。
■ヤマト政権の勢力を飛躍的に拡大させた
日本書紀では、まず熊襲(九州南部の地名、および同地に居住した種族)征伐は、景行天皇の親征としている。景行が大和に凱旋すると再び熊襲が叛いたので、日本武尊が派遣されて熊襲の長、川上梟帥(かわかみたける:古事記では熊襲建)を討ったとある。
■日本武尊の武勇
一方、古事記では熊襲征伐は物語の中心は日本武尊で、景行天皇の影は薄い。まず、日本武尊は小碓命(おうすのみこと)という名前で、景行天皇の命令を取り違えて兄を惨殺するという猛々しい皇子だった。景行はこの豪勇を恐れ、熊襲討伐に小碓命を派遣した。 小碓命は伊勢へ赴いて叔母の倭姫命(やまとひめのみこと:天照大神を祀る皇女)の衣装を借り、女装して熊襲建に接近し、暗殺した。熊襲建は小碓命の武勇を誉め、日本武尊(倭建)の号を献じた。帰途、出雲建を倒し、大和へ凱旋した。
■景行と日本武尊のすれ違い
続く東征では記紀の内容は日本武尊の再遠征という点でほぼ一致しているが、古事記では「天皇は私に早く死ねと思っておられるのか」と嘆く日本武尊の姿が描かれるなど悲劇の物語としての色合いが強まりました。
■天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)
日本武尊は伊勢で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より三種の神器の一つ、天叢雲剣を賜る。東征は苦難の連続であった。相模で野火の難にあった時、この剣で草を薙いで危機を逃れた事から「草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)」と呼ばれるようになった。浦賀水道では后の弟橘媛(おとたちばなひめ)の入水により、死を免れる。
■父子の最後
苦難の末、東国を平定した日本武尊だったが、憔悴甚だしく、能褒野(三重県亀山市)で病死した。古事記では「倭は国のまぼろば」で始まる有名な歌を遺し、日本書紀では白鳥となって大和、河内を巡ったとされている。その後、景行天皇は近江国の志賀(滋賀県大津市)の高穴穂宮(たかあなほのみや)で没したという。
景行天皇・日本武尊が同一人物だった?
こうした景行天皇・日本武尊の伝承は、ヤマト政権成立時の国内征服の過程が伝説化された公算がある。当時のヤマト政権の意図は分からないが、景行天皇と日本武尊が同一人物であった可能性も指摘されています。
いかがでしたでしょうか?いろいろ実存説もありますが、色々な角度そして歴史の流れを感じるのも大切です。
かんながら ありがとうごいます。