【美しい生き方 (この国の心をうつす。日本人になろう)シリーズ第4回】-「お正月①」何故新年を祝うの?と子供に聞かれたら?
★お正月は年神様(としがみさま)を我が家にお迎えして祝う、新年度最初の大切な行事だからです。

■「年神様」ってどんな神様?年神様とは
元旦に、家々に新年の幸せをもたらすために、高い山から降りてくる神様が「年神様」。「正月様」「歳徳神(としとくじん)」とも呼ばれています。昔の人は祖先の霊が田の神や山の神になり、正月には年神となって、子孫の繁栄を見守ってくれるのだと考えていました。そこで、たくさんの幸せを授かるために、年神様をお迎えしてお祝いする様々な風習や行事が生まれました。

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■「小正月」には小豆粥(あずきがゆ)で邪気払い 小豆がゆ
「小正月」は旧暦の正月にあたり、その名残で元旦を「大正月」というのに対して1月15日を「小正月」といいます。地方によっては大正月に多忙だった女性をねぎらう日ということで「女正月」ともいわれます。小正月には餅花を飾って豊作を祈願し、小豆粥を食べ、無病息災を願います。小豆のように赤い色の食べものは邪気を払うとされ、今でも祝い事には赤飯が供されます。

■「左義長(さぎちょう)」は年神様を送る火祭り
小正月の頃、神社や寺の境内に、門松やしめ飾りなどを持ち寄って燃やす「左義長」。「どんど焼き」ともいわれます。
新年に訪れた年神様は、その煙に乗って天上に帰っていくとされ、その時の炎で焼いた餅を食べると無病息災、書き初めを燃やすと字が上手になるなど、様々な言い伝えがあります。また、秋田の「なまはげ」や「かまくら」など、地方色豊かな行事も行われています。

※「日本人のしきたり」 飯倉晴武編著 (青春出版社)より参照

いや 勉強になります♪

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【歴代天皇振り返りシリーズ第6回】第十二代景行(けいこう)天皇(紀元前13年~紀元後130年)ー日本武尊(やまとたけるのみこと・ホツマツタエだと”ヤマトタケ”)の父。九州、東国に掛けて勢力を大幅に拡張。

*熊襲(くまそ)と蝦夷(えみし)を討伐して、辺境にまで勢力を拡大しました。『古事記』では景行天皇は137歳まで生き、77子を諸国に封じたとされていることから、実在が不明確な天皇でもあります。それと同時に、景行天皇の子である日本武尊も多くの学者から存在を否定されているそうです。(ホツマでは明確に実存されています)

*『日本書紀』によると、まず景行天皇が九州南部にいた熊襲という種族を征伐。征伐後、景行天皇が大和にもどると、再び熊襲がヤマト政権に背きました。そのため日本武尊が派遣され、熊襲の長である川上梟帥(かわかみたける)を討ちました。...
*『古事記』の中では日本武尊が中心に物語が進んでいきます。まず、日本武尊は景行天皇の命令を取り違え、兄を殺してしまいました。これを知った景行天皇は日本武尊を恐れ、熊襲討伐を命じました。天皇の命令をうけた日本武尊は、伊勢へ行って叔母の衣装を借り、女装して熊襲健(川上梟帥のこと)に接近。 暗殺を成功させました。 熊襲を制圧した日本武尊は、帰りに出雲健(いずもたける)を倒して、大和に帰還しました。
その後、今度は東への遠征を命じられました。
これに対し日本武尊は
「天皇は私のことを、早く死ねと思っているのか・・・。」
と嘆きます。それでも、命令に従って東征へ。
日本武尊は出発前に、伊勢で叔母から天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)をもらいました。この剣が、相模で野火の難にあったときに活躍。天叢雲剣で草を薙いで、危機を脱出しました。こうしてこの剣は「草薙剣」と呼ばれるようになりました。
苦難の末、東国を平定した日本武尊。
しかし、遠征の疲れで病気になり、その後、亡くなってしまいました。景行天皇と日本武尊の伝承は、ヤマト政権ができあがる過程が伝説化されたものだと考えられます。ヤマト政権は景行天皇の時代に九州、東国にかけて勢力を拡大したのでしょう。垂仁天皇の第三子で、日本武尊の父であった景行天皇。
熊襲・蝦夷を討伐し、辺境にまで勢力を広げた。
在位期間は60年間で、106歳(古事記では137歳)で没したとされている。ー日本の歴史。com参照ー

■日本武尊の父
景行は非常に精力家の天皇で后を10人もち、80人もの皇子女を設け、古事記では77子を諸国に封じたとされる。ただし、これらの数字は事実とは考えられず、景行天皇の関しては実在が疑問視されている天皇の一人である。なお、子である日本武尊も一部の学者からは存在を否定されているそうです。

■実在期間は3~4世紀
ヤマト政権は、景行天皇の時代の実年代と考えられる3~4世紀前半から、九州、東国に掛けて勢力を大幅に拡張している。
内容的に「記紀」のディテールにはかなりの違いがあるものの、この功績が、景行天皇と日本武尊の活躍によるものとしている点では一致している。

■ヤマト政権の勢力を飛躍的に拡大させた
日本書紀では、まず熊襲(九州南部の地名、および同地に居住した種族)征伐は、景行天皇の親征としている。景行が大和に凱旋すると再び熊襲が叛いたので、日本武尊が派遣されて熊襲の長、川上梟帥(かわかみたける:古事記では熊襲建)を討ったとある。

■日本武尊の武勇
一方、古事記では熊襲征伐は物語の中心は日本武尊で、景行天皇の影は薄い。まず、日本武尊は小碓命(おうすのみこと)という名前で、景行天皇の命令を取り違えて兄を惨殺するという猛々しい皇子だった。景行はこの豪勇を恐れ、熊襲討伐に小碓命を派遣した。 小碓命は伊勢へ赴いて叔母の倭姫命(やまとひめのみこと:天照大神を祀る皇女)の衣装を借り、女装して熊襲建に接近し、暗殺した。熊襲建は小碓命の武勇を誉め、日本武尊(倭建)の号を献じた。帰途、出雲建を倒し、大和へ凱旋した。

■景行と日本武尊のすれ違い
続く東征では記紀の内容は日本武尊の再遠征という点でほぼ一致しているが、古事記では「天皇は私に早く死ねと思っておられるのか」と嘆く日本武尊の姿が描かれるなど悲劇の物語としての色合いが強まりました。

■天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)
日本武尊は伊勢で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より三種の神器の一つ、天叢雲剣を賜る。東征は苦難の連続であった。相模で野火の難にあった時、この剣で草を薙いで危機を逃れた事から「草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)」と呼ばれるようになった。浦賀水道では后の弟橘媛(おとたちばなひめ)の入水により、死を免れる。

■父子の最後
苦難の末、東国を平定した日本武尊だったが、憔悴甚だしく、能褒野(三重県亀山市)で病死した。古事記では「倭は国のまぼろば」で始まる有名な歌を遺し、日本書紀では白鳥となって大和、河内を巡ったとされている。その後、景行天皇は近江国の志賀(滋賀県大津市)の高穴穂宮(たかあなほのみや)で没したという。

景行天皇・日本武尊が同一人物だった?
こうした景行天皇・日本武尊の伝承は、ヤマト政権成立時の国内征服の過程が伝説化された公算がある。当時のヤマト政権の意図は分からないが、景行天皇と日本武尊が同一人物であった可能性も指摘されています。

いかがでしたでしょうか?いろいろ実存説もありますが、色々な角度そして歴史の流れを感じるのも大切です。

かんながら ありがとうごいます。

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【歴代天皇振り返りシリーズ第5回】第十一代垂仁(すいにん)天皇ー伊勢神宮の創建。相撲節会の起源。埴輪の起源。海外との交流。不老不死の薬
 
3世紀後半に活躍されたと考えられる天皇で、当時は「天皇」ではなく「大王(おおきみ)」と呼ばれたと言われています。 幼いときからしっかりとしていて立派なお方で、壮年になると、並外れて度量が大きくなられた。 天性に従ってものごとを行い、歪めたり飾ったりされなかったと伝えられています。

■実績:天皇は父帝である崇神(すじん)天皇同様、天神地祇(てんじん‐ちぎ)=天つ神と国つ神。すべての神々。)を祀(まつ)ることを怠りにならなかった。 垂仁天皇25年には、皇女の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に天照大神を伊勢に祀らせる準備をさせた。 これが後の伊勢神宮の創祀(そうし)となり、彼女が最初の伊勢斎王(さいおう)女王)だったといわれる。

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■相撲節会の起源(垂仁天皇7年(紀元前23年)7月)
当麻村に当麻蹴速(タエマクエハヤ)という強者がいた。当麻蹴速は「自分より強いものはいないのか、全力で力比べできる相手はいないものか」と吹聴していた。そこで出雲国造家の野見宿禰(のみのすくえ)が召喚(しょうかん)された。野見宿禰は当麻蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられた。これが相撲節会(すまひのせちえ)の起源だとされる。 奈良・平安時代にかけて行われた宮中の年中行事。射礼や騎射(後に競馬)と並んで「三度節」とも呼ばれた。

■埴輪の起源
皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなったときのことである。少し前に亡くなった倭彦命(やまとひこのみこと)の葬儀で近習者を集めて殉死させた有様があまりに惨たらしかったため、天皇は「古えの風習といえども良くないことには従わなくてもよい(昔からの風習だからと言っても、人が不幸になるようなことなら別にしなくてもいいよ)」と仰って殉死の風習に代わるものを考えていた。そこに野見宿禰が進み出て出雲国から100人の土部(はじべ)を呼び寄せることにした。野見宿禰たちは人や馬の形をした焼き物を作り殉死者の代わりとしてはどうかと提案した。これが埴輪の起源だとされる。天皇はこれを称えて野見宿禰に土師臣(はじのおみ)の姓を与えた。 なお考古学的には人型や馬型の埴輪はかなり後になって出てくるものであり、この話は正しくないことがわかっている。

■崇神天皇の政策を踏襲して諸国に池や溝をたくさん開かせ、それにより農民は豊かになり、天下は太平になった。

■垂仁天皇の時代は海外との交流も活発に行われ、崇神天皇の時代に来朝した任那の王子・蘇那曷叱智(ソナカシラ)が帰国した。 また、新羅の王子・天日槍(アメノヒホコ)が来朝した。

*垂仁天皇は始皇帝の様に不老不死の薬を田道間守(タヂマモリ)などに探させにいかせたという。そして不老不死の薬を見つけたのだが(霊菓・非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)ビタミンたっぷりのミカンである)【非時香木実<橘(たちばな)>】を海外から持ち帰ったのだが、既に帝は崩御(ほうぎょ)<天皇が亡くなられる>されており、帝の陵(みささぎ)に橘を捧げて哭死(こくし)したという。その橘が、橘本(きつもと)神社の旧社地「六本樹の丘」に移植されたのである。.

御陵 :菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)に葬られた。現在、同陵は奈良県奈良市尼辻西町の宝来山古墳に比定される。

崩御 古事記:153歳 崩御 日本書記:垂仁天皇99年 140歳

皆様 いかがでしたか  伊勢神宮の創建。相撲節会の起源。埴輪の起源。海外との交流。不老不死の薬など いよいよ身近に感じられるお話がでてきてまいりました!天皇の歴史をしることは日本の歴史を知る大事な事だと思います。

次回は 第十二代天皇景行天皇です!お楽しみにしてください♪ 

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