2020.2.23

 

『漢字テストのふしぎ』

 

 長野県梓川高校放送部が制作し、2007年の「第29回東京ビデオフェスティバル」でグランプリを獲得した『漢字テストのふしぎ』は実に素晴らしい作品だった。全国の国語科教員必見と言っても過言ではないと私は思う。

 

 

 

 同作品のメッセージを簡単に言えば、漢字の書き取り採点にあたって、国語科教員は「とめ・はね・はらい」や「つける・つけない」といった微細な事柄を問題にしてはいけない。たとえば、

《木》ヘンの下の部分をはねてあってもバツをつけてはいけないということだ。

   番組を紹介した ネット記事1  ネット記事2

 

 その構成は実に見事だ。放送部の諸君は今まで漢字の採点について疑問に思ってきた具体例を挙げて、

 まず現場の教員と県教育委員会の職員に尋ねると、

 「教科書や常用漢字表の字体を基準にしている」との回答だった。

 そんな答えに納得できない彼らは、臆することなく、上京して文化庁国語科・鈴木仁也調査官の所へ質問に行く。

 すると、鈴木調査官は、多くの国語科教員が唖然とする回答を生徒に示した。「決して、そういうものではない。文部科学省は一貫して、『漢字の指導は柔軟にするべきだ』との見解を出している。このことは、戦後に当用漢字表を制定して以来、ずっと文部科学省が各種資料で明らかにしてきたのだけれど……」

 しかし現場の教員が、そのような資料を読むことはめったにない。

 教育委員会の指導主事も知らない者が多く、かりに知っていても、自分が現場の先生から嫌われるような話はしないものだ。

 

 実を言うと、梓川高校の生徒諸君と同じような指摘を漢字の専門家の方々もかねてよりされてきたのである。

 たとえば、漢字学の権威・阿辻哲次京都大学名誉教授も、

 『漢字再入門』 阿辻哲次著 中公新書 2013年

   アマゾン 広告記事

 の第2章「とめ・はね・はらい、って、そんなに大事なの?」で、延々30Pにわたって、一部の教員によって行われている誤った(厳格な)漢字指導を次のような言葉で糾弾している。

 (本記事の内容に疑問のある方は、是非、同書をお読みください)

  【引用開始】

 実はここに最大の問題があるのです。あえて失礼なことを言わせていただけば、漢字の点画で「とめ・はね・はらい」などにこだわる先生は、「厳しく指導している」のでもなんでもなくて、どのように書くのが正しいのか自信をもって指導ができないから、単に辞書や教科書の通りでないと正解にできないだけなのです。……書き取りの答案を採点するときに、「はねる・はねない」などの微細な点にこだわるのは、印刷される漢字と手書きの漢字は必ずしも同じ形ではないということをまったく理解していないからにほかなりません。

  【引用終了】

 

 ところで、上記ビデオ作品が世間で注目された3年後の2010年11月30日付けで、文部科学省から全国の教育委員会と知事あてに、おおむね鈴木調査官が話された内容を文書化した「通知」が送付された。仄聞するところでは、この作品のインパクトが文部科学省を動かしたらしい。

 

 そのタイトルはいかにもお役所らしい長ったらしいものだった。

常用漢字表の改定に伴う中学校学習指導要領の一部改正等及び小学校、中学校、高等学校等における漢字の指導について(通知)」

 同通知文から

  【引用開始】

(児童生徒の漢字指導にあたっては)「常用漢字表 (付)字体についての解説」の「第1 明朝体のデザインについて」や「第2 明朝体と筆写の楷書との関係について」の記載があることを踏まえ、児童生徒が書いた漢字の評価については、指導した字形以外の字形であっても、指導の場面や状況を踏まえつつ、柔軟に評価すること。……また、入学者選抜のための学力検査において、受験者の書く漢字を評価する場合には、上記2のなお書きを十分に踏まえ、適切に行うこと。

  【引用終了】

 

 それでは、同通知文の「常用漢字表 (付)字体についての解説」とはいかなるものか。

   「解説」 の 全文 (ここでは、たくさんの許容すべき字体例が示されている。)

 

 その一部を引用する。二つの節とも、書き出しの一文は同じである。ここに執筆者の強い思いがこめられているようだ。

 第1 明朝体のデザインについて

  【引用開始】

常用漢字表では,個々の漢字の字体(文字の骨組み)を,明朝体のうちの一種例に 用いて示した。現在,一般に使用されている明朝体の各種書体には,同じ字でありなが ら,微細なところで形の相違の見られるものがある。しかし,各種の明朝体を検討して みると,それらの相違はいずれも書体設計上の表現の差,すなわちデザインの違いに属 する事柄であって,字体の違いではないと考えられるものである。つまり,それらの相 違は,字体の上からは全く問題にする必要のないものである。以下に,分類して,その 例を示す。

  【引用終了】

 

 第2 明朝体と筆写との関係について

  【引用開始】

常用漢字表では,個々の漢字の字体(文字の骨組み)を,明朝体のうちの一種を例に 用いて示した。このことは,これによって筆写の楷書における書き方の習慣を改めよう とするものではない。字体としては同じであっても,1,2に示すように明朝体の字形 と筆写の楷書の字形との間には,いろいろな点で違いがある。それらは,印刷文字と手 書き文字におけるそれぞれの習慣の相違に基づく表現の差と見るべきものである。   さらに,印刷文字と手書き文字におけるそれぞれの習慣の相違に基づく表現の差は,  3に示すように,字体(文字の骨組み)の違いに及ぶ場合もある。

  【引用終了】

 この記述は、昭和21年、当用漢字表が制定された時に既にその付記として書かれていたものを、ほぼそのままの形で継承したものだ。そもそも手書きの文字の字体を完全に統一しようなどというのはできもしないことだし、仮に可能だとしても、する意味はないといったことを文部科学省もずっと言ってきたのだが、現場の先生方の多くはそれを知らないままで70年の時が流れていたというのが真実なのである。

 

 ちなみに、ベネッセが実施している大学入試模擬試験での漢字書き取り問題の採点では、かなり以前から、「とめ・はね・はらい」や「つける・つけない」等は一切問題にしていない。その文字と明確に判別できればマルという採点基準だ。文科省・文化庁の見解に則り「適切な」採点をしてきたわけである。

 

 ところで、現在の公立高校入試では、東京都を始めとして多数の都道府県が、受験者の請求による答案開示を認めている。

    ネット 記事

 もしも日比谷高校の国語科の先生が、漢字の書き取り問題で、「とめ・はね・はらい」を基準としてバツをつけたりして、それを抗議されたら一発でアウトである。

 

[余談]

 顔真卿(がんしんけい 709~785)は、中国書道史を代表する楷書の名手であった。

 そして彼の書いた「格」という楷書文字では、《木》ヘンの下の部分をはねている。

 私はその文字を、とてもとても格調高く美しいと感じるのだけれど……