天からの啓示ー大きな布の様な入れ物ー
使徒行伝 第10章9~16節
加 藤 高 穂
ユダヤ教の抜け殻
使徒ペテロは、復活の主イエス様とお会いして、ペンテコステ(聖霊降臨)を経験した。それですっかり生まれ変わったはずだった。現に誰はばかることなく、めざましい伝道活動を展開してもいた。
ユダヤ教では、獣の死体に触れて成り立つ皮なめしといった仕事は汚れた仕事とされていた。だが、ペテロはそんなことなど、全く意に介さない。実際、彼は地中海に面する港町ヨッパの皮なめし職人シモンの家に滞在。福音伝道の業に、励んでいた。
だが、幼い頃からなじんできたユダヤ教の古い殻が、きれいさっぱりと抜け切ってはいなかったらしい。これは食べない。あれは飲まないといった風に、戒律に縛られ、そこを離れられなかったのである。
そんなことでは、同胞イスラエルの伝道には支障はないだろう。だが、異邦の人々に福音を伝える器としては、神といえどもペテロを用いることはできない。そこで神は、貴重な時を備えて下さったのである。
空腹を覚え、夢心地に
「翌日、この三人が旅を続けて町の近くに来た頃、ペテロは祈をするため屋上に上った。時は昼の十二時頃であった。彼は空腹を覚えて、何か食べたいと思った。そして、人々が食事の用意をしている間に、夢心地になった」(行伝10:9~10)。
イタリヤ隊の百卒長コルネリオの使いとして、カイザリヤから派遣された三人が旅を続け、ヨッパの町に入った頃、ペテロは屋上に上り、祈りの時を過ごそうとしていた。丁度、真昼時である。
屋上からは、春の日射しを受け、青々とうねり輝く地中海を見晴るかすことができる。潮風に帆をふくらませた帆船が、海上を滑るように行き交う光景も目に入る。眼下には海岸線に沿って、甍(いらか)を競うかのように人家が立ち並んでいる。異邦人の家もあれば、ユダヤ人の家もある。その屋根の下では、悲喜こもごもの人生が織りなされていた。
だが、ペテロはというと、どうだったか。人目を避けてひとり祈るため、屋上に上がったものの、祈るより先に、空腹を覚えたというのである。
階下の台所から立ちのぼる美味しい料理の匂いに、彼は思わず知らず「夢心地になった」。
ただ「夢心地になった」(エゲネト・エクスタシス)と訳された原語「エクスタシス」が意味するところは、むしろ自分自身、外にはみ出す。無我になる。空っぽになる。脱魂状態になるといった意味である。
この時、ペテロが体験したエクスタシーに関しては、近代インドの聖者と称されるサンダー・シング(1889年9月3日~1929年4月、ヒマラヤ山脈を越えてチベット入り、消息を絶つ)の言葉に教えられたい。
エクスタシーの性質
サンダー・シングが経験したエクスタシーは、カトリックの偉大な神秘家たちが浴したエクスタシーと同じく、意識が醒めた状態で天上の歓喜に招かれるものであり、霊媒(れいばい)の陥るトランス(催眠状態、神がかり)とは全く異質である。
また、エクスタシーは、ヨーガのような自己催眠でもない。私は自分からエクスタシーに入ろうと努めたことは一度もない。エクスタシーは、病でも幻覚でもない。
それは覚醒した状態であって、眠りとは違う。そこでは安定した思考を営むことができる。普通なら、邪魔が入れば思考が中断されるものだが、エクスタシーにおいてはそれがない。
私が一人でいるとき、常に新しい何かが開示されるが、それは言葉なき言葉で伝えられてくる。言語に尽せない崇高な雰囲気に包まれるのを感じ、そのとき、何かが私の心の中で語りかけ、次にはエクスタシー状態に入っている。
言葉は一切語られず、すべては絵になって見える。いとも容易に、しかも歓喜のうちに、一瞬にしてすべての問題が解かれ、頭はまったく負担を感じない。
……中略……
もっとも、いつエクスタシーに入るのかは、自分では予め知ることはできない。エクスタシーは、普通、20分程の祈りに続いて起こる。…中略…この間、外界の感覚はすべて失われ、また、時間の経過する感覚もまったく起こらない。過去も未来もない。すべては今である」と彼は言っている。(『サンダー・シング』林陽編訳、徳間書店より抜粋)。
天が開けて
「すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四隅を吊るされて、地上に降りて来るのを見た。その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生き物が入っていた。
そして声が彼に聞えてきた、『ペテロよ。立って、それらを屠って食べなさい』」(行伝10:11~13)。
空を覆うような広く大きな布の入れ物といっても、それは天来の啓示、幻(ホラーマ)の世界である。そこには地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生き物が入っていた。
すると、「ペテロよ。それらを屠って食べよ」と声が聞えてきたのだ。空腹というのなら、四足でも何でも屠って食べたら良いというのである。
だが、ユダヤ教徒として育ったペテロは、モーセの律法による厳しい食物法を忠実に守ってきた。そのため、何でも食べることなど、とてもできない。例えば、ひづめが割れて、反芻する四足の動物は食べることが許されても、他の動物は汚れているとして、食べることを禁じられていた。
豚などは、汚れているとして決して食べない。ルカ伝第15章に出てくる放蕩息子の話でもそうである、異郷の地で零落した彼が、汚れた動物とされた豚の世話をするという最低の仕事をするまでになった。しかし、豚の餌であるイナゴマメで腹を満たしたくとも、それすらも食べられぬほどに落ちぶれた姿が、ドン底の様として描かれている。
豚などの生き物が、衛生的に清い、清くないというのとは違う。律法で禁じられているから汚れているというのである。しかもモーセの戒めを犯すくらいなら、死んだ方が良いと金輪際、食べようとしない。
謎めいた幻
「ペテロは言った、『主よ、それはできません。私は今迄に、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません』。すると、声が二度目にかかってきた、『神が清めたものを、清くないなどと言ってはならない』。こんなことが三度もあってから、その入れ物はすぐ天に引き上げられた」(行伝10:14~16)。
天来の声に、ペテロは、
「主よ」(キュリエ)と答えている。ペテロに呼びかけた声は、在りし日の懐かしいイエス様の声だったのだ。
だが、彼は「主よ、決してしません」(メーダモース・キュリエ)と、強く拒んだのである。それも、三度、同じ幻を見たが、「主よ、それはできません」と、三度とも口答えして拒んでいる。そんな事があって、入れ物は直ぐ天に引き上げられてしまったのである。
ただペテロには、それが一体、何を意味しているか分からない。預言者モーセ以来の大事な律法、その戒めを犯せというのだ。彼には、到底、理解できなかったろう。彼にとって、それは余りにも謎めいた幻だったからである。
しかし、そんな頑なな心で全世界に出て行き、福音を宣べ伝えても、イエス様から託された使命を果たすことは難しい。異邦の民を導くことなど、到底、無理であろう。
先ずは、その頑なな心が砕かれなければ、どうしょうもない。その意固地な心、古い殻を脱ぎ捨てることが、先決なのだ。さもないと、先に進めない。
しかし、ペテロは、神の意図される所が分からず、三度も拒んでしまった。そして、幻の入れ物は、スルスルと天に引き上げられたというのだ。
私どもとて、変らない。ペテロとは情況も何も異なるとはいえ、思いがけない災難や不幸に見舞われ、人生の岐路に立たされることがある。神の御心はどこにあるのかと、壁にぶつかる。だが、それを感謝と共に受けしめられるとき、予想もしなかった新世界が向こうから開けてくるのである。