第1894回 備前国大宮盛景の作刀地を見学する。【岡山県岡山市東区大宮】
2022年9月5日月曜日の投稿です。
今日のお話は、遠い昔、南北朝時代から室町時代の初期にかけて
数代続いたと言われている備前国 大宮派の刀工の作刀地を見学に
行ったお話しで、撮影は2015年の冬場の2月の時期です。
その当時、備前長船刀剣博物館の催しで、大相撲と日本刀と
言う企画展が開催されていて、それを見て、ずいぶん意欲が
溶岩がわき出るように増して、そのまま南方向に
見学に出かけました。
それ以前の1週間程度前、岡山県内の白銀師さんの
自宅で、その作品を見せていただいて、
「実にすばらしい作品。」
「 金はばきは、きれいですね。」
と、ためつ眇めつ鑑賞して、その後、2人で備前大宮派の作刀地
のお話しになって行ったのです。
それで、
「長船の近くに大宮と言う場所が今もあってーー。」
と、教えていただいて、その場所に向かいました。
上の地図の、岡山県岡山市東区西大寺の東に大宮と言う
場所が現在もありました。
近くにバス停があり、上阿知西とありました。
確かに大宮とあります。
ここで、備前大宮派は、日本刀を作っていたのかと思い、
周囲を回って調査しました。
結論から言うと、具体的な証拠や言い伝えは皆無でした。
刀工の井戸があるとか、屋敷跡とか、墓地があるとか、
そう言う情報は、数回訪問して、周囲を回ったのですが
ありませんでした。
郵便局の裏山に室町時代に砦のようなお城があったらしいとの
証言はありました。
「大宮ーー。」
「この山の向こうに大きな神社があってのう、そこに行ってみぃ。」
と、教えていただいて、南側の山を越えて、次の谷に向かいました。
安仁神社と書いて、「あにじんじゃ。」と読むそうです。
神社の人に聞いてみましたが、情報は皆無でした。
【 岡山県岡山市東区西大寺の東の 大宮の風景 】
備前長船の南、岡山市東区西大寺の大宮に何度も通って
調査しての感想ですが、ここの場所は大宮と名前がありますが、
備前大宮派の作刀地ではないと現在思うようになっています。
明治以後の近代から、現在まで、大宮のと言う地名がある
ので、大宮派の作刀地であると申し立てるのは、過去の
調査の経験から、間違いの基と考えています。
室町時代は、違う地名であったり、南北朝時代も違う地名
であったり、そういうケースが多かったからです。
備前大宮派の由来は、刀工の始祖の國盛と言う刀工が、
京の都の大宮と言う地名の場所から、備前国長船に移住し、
地名を名字にしていたと言い伝えがあります。
確かに、当地は、備前国の中の大宮と言う地名ですが、
「ここではない違う。」と、思っています。
その証拠に、
岡山県立博物館の所蔵品の中の作品で、こういう品が
存在しています。
◎ 備州長船住盛景
大宮派と呼ばれる刀工の作刀地は、長船の地域、つまり、
備前長船刀剣博物館の近くであったと考えています。
作品の銘に、大宮と入っている作品がありますが、
それは、地名ではなく、名字というか、屋号であった
と考える様になりました。
三井家で言えば、越後屋 と、そんな感じの屋号です。
大宮盛景の作品を鑑賞すると、他の備州長船と銘のある
南北朝時代の作品と比較すると、重ね幅が若干厚く、
重量がある感じがします。
刃紋は、相伝備前と呼ばれる作風です。
現在伝来している 大宮 と、鑑定書のついている
作品は摺り上げ無銘が多くありますが、南北朝時代の
当時、身幅が広く、長寸の作品が多かったのかもれません。
そう言ういろんな場所を調べて見ての感想ですが、
南北朝時代の備前長船の刀鍛冶の銘は、
◎ 備州長船□□ と銘を切り、
大宮盛景の一派は、 大宮と言うのは作刀地の地名では無く、
屋号で、作刀地は、長船であった可能性が非常に高く、
近年、岡山県の公益財団法人 日本刀剣保存協会の会員の
人達が、
「大宮と言う地名があるので、あそこではないのか。」
と、推測しているお話しについては、証拠が無い推測の範囲
のお話しと考えています。
問題は、長船の地のどこに大宮盛景の屋敷があったのかと言う
事については、今現在わかっていません。
最新の説によると、作品の地鉄などを見比べて、ほぼ長巻の
作品が多いと言われる義景が、盛景の一族で、その前の世代
が近景では無かったのであろうかと言われています。
但し、個人的な感想を言うと、義景の太刀は、在銘品が7柄
ほどあって、それを手に取って見て、大宮盛景の作品を
見比べると、造りが違うように感じています。
何か、証拠のような作品の銘や、出土品が出たら、わかると
思いますが、現在はありません。
じゃあ みんな また 明日ね。
【次回に続く。】【転載コピー自由です。】