漆と布を何重にも塗り固めて作った棺(夾
紵棺)に餘 翹岐の遺体には水銀朱を入れま
した。 硝子玉を編んだ玉枕が置かれ、
を金糸で刺繍された冠帽で覆われました。



 670年2月占領政策で、全国的な戸籍の庚午
年籍を作成。 670年12月 近江宮内の大蔵で
火災。  672年建は道教の修行をするとして、
5月吉野に去ります。壬申革命戦が勃発しま
すと、10代の文忠は山科で軟禁されました。

壬申革命戦(壬申の乱)は、新羅との密約で、
済遺民の夢を根絶やしにする目的が有りまし
た。   戦犯の倭 友(称制)の墓は、土砂が削り取
られ石材も利用されました。 倭 弥照(桓武)
天皇が禁止させるに至りましたが、既に時遅く、
石舞台古墳として知られる現状の状態に為りま
した。  

国家反逆罪の戦犯として、誘拐され殺害された
友の忠臣(只1人。仲間を傘増しする為に中臣姓
を創作します)、餘 翹岐の息子、文忠(不比等)
は、母を高貴な血統に持てたとは言え、出世は
非常に厳しいものでした。 

中臣氏 御食子は、蔓木 摩理勢(蘇我 馬子)です。
 意美麻呂は、神威 毛人(賀茂 毛人、役小角)で、
 文忠の妻(昌子)の父です。 稗田 阿札は、文忠
の事です。 文忠は無位無官時代が続き、倭 稚
建大君(高市皇子、持統帝事績に変えられた)の
時代689年に従五位下の判事(直広騨)に為り、
696年に直広戴の位に就きます。



新羅王族の金 多遂は、白村江で、大敗北した大倭
に渡来します。 密約で、扶餘王族(天武系)守護と
大陸に無理に、派兵させた烏桓、百済(天智系)
王統を絶やす目的での永住でした。 渡来自体が、
壬申革命戦の準備開始でした。軍馬の訓練と軍
師として、科野国造(壬申戦総大将)の配下で有能
に働き壬神革命戦に突入しました。 

戦後、倭 広野(持統)大君に下毛野国に移住させ
られ役割が果たせ無くなります。