今年、いまだに「藤の花」をご覧になられていない方は、この写真を目の保養になさってください。

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2024年4月28日に見た「藤の花」の写真7葉 

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大きな藤棚から垂れ下がり、たわわに咲きほこる「藤の花」(大船)⇒これは2021年4月28日に撮った「藤の花」と同じ「藤棚」撮ったもの。

上の写真の藤棚の下から垣間見える「藤の花」
上の写真の「藤の花」の拡大写真
上の「藤の花」の写真の最大の拡大写真

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初めて出逢った生垣(いけがき)の見事な「野田藤?」の花(相原)
上の「野田藤?」の花の拡大写真
上の「野田藤?」の花の最大の拡大写真

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2024年4月28日に見た「藤の花」の写真7葉(相原)

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2024年4月25日に見た「藤の花」の写真6葉 

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藤棚の木が上に伸び、そこから垂れ下がって咲く「藤の花」(相原)

藤棚から垂れ下がって咲く「藤の花」(小比企)

横長の藤棚から流れ落ちる滝のように垂れ下がって咲きほこっている「藤の花」(大船)
1本の藤の木から垂れ下がって咲く「藤の花」(相原)
上の藤の木の「藤の花」の拡大写真

1本の小さな藤の木からわずかに垂れ下がって咲く「藤の花」(小比企)
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2024年4月25日に見た「藤の花」の写真6葉

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鉢植えの藤の木からわずかに垂れ下がって咲く「藤の花」(2024年5月1日)(大船)

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アメブロの「最近よく読まれている記事(過去30日間でアクセス数が多かった記事)」で、2021年4月29日に投稿したブログ「『藤の花』を詠んだ和歌と俳句と短歌と」のアクセス数が、一昨日228、昨日は241だった。4月になってから僕の『藤の花』の記事を読む人が増えてきたが、これは『藤の花』が咲く季節になったからにほかならないだろう。『藤の花』の記事を投稿してから3年、そろそろ少し手を加えて再公開しようと考えていた。そんな時、4月20日に湯殿川沿いを自転車で走っていて、今までまったく気づかなかった藤棚の『藤の花』が目に止まった。その『藤の花』は、縦横1m✕2m、高さ2メートルほどの鉄パイプで造られた藤棚にちょこなんと収まって、見事に垂れ下がって咲いていた。それに、サイクリング中に目にした4月25日、28日と5月1日にスマホに収めた『藤の花』の写真も加えた上に、記事も改めて投稿することにした。 

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藤、別名は野田藤(のだふじ)。マメ科フジ属の蔓性(つるせい)落葉木本(もくほん)で日本の固有種。山野(さんや)に自生し、また観賞用として「藤棚」をつくって栽培される蔓性の落葉※灌木(かんぼく)。老木になると、10数メートルの高さをよじのぼるものがある。葉は萩(はぎ)に似た※羽状複葉(うじょうふくよう)で、※晩春の日差しの中に※四弁薄紫(しべんうすむらさき)の蝶形(ちょうがた)の花を、※総状花序(そうじょうかじょ)に垂れて開く。※優艶(ゆうえん)な花序の長さは、晩春を飾るにふさわしく、数10センチから1メートル数10センチの藤房(ふじふさ)をなし、風になびき揺(ゆ)れて藤浪(ふじなみ)をなす。花が咲く時期には『藤棚(の藤)』が「鑑賞また観光の対象」となる。甘い香りを放ちながら、薄紫や白の花房を垂らす可憐(かれん)で美しい藤棚の姿は、実に幻想的で、春の絶景を堪能(たんのう)できる。なお、日本では、同属のものに『山藤(やまふじ)』 があり、時に混同される。
※灌木:丈(たけ)が低く、幹(みき)が発達しない
木本植物。

※羽状複葉:植物の葉の形態で、小葉が葉軸の左右に羽状に並んでいるもの。

※晩春:「旧暦」では1月、2月、3月が『春』、4月、5月、6月が『夏』。『秋』は7月、8月、9月、『冬』が10月、11月、12月となる。「旧暦」を「新暦」に置き換えると「ざっと1カ月のずれになる」ので、『旧暦の春』を『新暦』に置き換えると「2月、3月、4月」となる。だが、今の季節の区切りで言うと『春』は「3月、4月、5月」なので、『旧暦の春』は1カ月早い。この違いが、春はまだ浅いのに、例年4月下旬から5月上旬にかけて見ごろを迎える「藤の花」の季節は、「暦の上の春の終わり・『晩春』」になっている。ちなみに『二十四節気』は、「月の満ち欠けを基本にする旧暦の中で、太陽の動きを伝える太陽暦的存在で、両者を組み合わせた旧暦」は『太陰太陽暦(たいいんたいようれき)』と言われる。なお『太陰太陽暦』は、江戸時代の貞享2年(1685年)の「貞享の改暦」から明治6年(1873)に『太陰太陽暦』(旧暦)に替わり現在使われている『太陽暦』(新暦)が採用されるまで使用された。

※四弁:四つのの花弁が開いた様子。

※総状花序:花序のひとつ。付け根から先へ、あるいは周囲から中心部へ咲いてゆく無限花序のひとつで、柄のある小花が長い円錐形(えんすいけい)または円柱形に並び、付け根から咲いていくもののことである。

※優艶:美しくあでやかなこと。 上品で美しいこと。 また、そのさま。

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2024年4月20日に見た藤棚の「藤の花」の写真4葉(小比企の湯殿川沿いの民家の鉄パイプの藤棚から垂れ下がって咲く「藤の花」) 

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小振りの藤棚から垂れ下がって咲く「藤の花」①

藤棚から垂れ下がり、たわわに咲いた藤の花②

上のたわわに咲いた『藤の花』の拡大写真③

上の「藤の花」の最大の拡大写真④     ↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

2024年4月20日に見た「藤の花」の写真4葉

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2021年4月29日に投稿した『藤の花』の写真4葉

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古めかしい藤棚から垂れ下がり、たわわに咲きほこる大きな房の「藤の花」(2021年4月28日 大船)


高さ十数メートルの大きな「山藤の木」と「山藤の花」(2023年4月19日 寺田)

上の写真の「山藤の木」と「山藤の花」の拡大写真

2020年に作り直された「藤棚」に翌年、けなげに咲いた「藤の花」(寺田の公園の中)

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2021年4月29日に投稿した『藤の花』の写真4葉

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『藤の花』を詠んだ和歌と随筆と俳句と短歌と

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『藤の花』を詠んだ和歌(『万葉集』より)

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《万葉集巻三330》
「藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君」
(防人司佑[さきもりのつかさのすけ=※大宰府の防人の司の二等官]『大伴四綱(おおとものよつな)』の歌)
鑑賞⇒この歌は作者『四綱』が※大宰師(ださいのそち)       
『大伴宿禰旅人(おおとものすくねたびと)』に「藤の花がこんなにみごとに咲きましたね。長官、奈良の都を恋しくお思いですか。」と問い掛け、望郷の念の有無を問うている。『藤波』とは「藤の長い花房が風になびいている様子を波に例えていう語、またはその藤の花のこと」だ。その他に「藤原氏の『藤』にかけ藤原氏、またその一門の称」を表しているが、もしこの歌の『藤』が「藤原氏を表している」のだとしたら「藤原氏が栄えている奈良の都を恋しくお思いですか、長官。」という意味になる。実はこの歌の前後にも望郷の念を表す歌がある。この歌の前(329)も大伴四綱の「やすみししわが大君(おほきみ)の敷(し)きませる国の中(うち)には京師(みやこ)し思(おも)ほゆ」という歌だ。この歌は「すべての国土をお治めになるわが大君(天皇)が支配される国の中では奈良の都がやはり思い出されるなあ。」という意味で、やはり望郷の念が表されている。さらに四綱の歌の前(328)は、大宰少弐(だざいのせうに=大宰府の次官)の『小野老朝臣(をののおゆあそみ)』の「あをによし奈良の都は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛(さか)りなり」という、とても良く知られた歌だ。この歌は「まるで麗(うる)わしい花が咲きにおっているように、奈良の都は今を盛りと咲いている。」という意味だが、これは『万葉集』巻三の編纂(へんさん)にあたった人物が、大伴四綱の歌に大伴旅人の懐郷(かいきょう)の歌を並べることによって権力の中枢から遠ざけられて生きている大伴家の長(おさ)『大伴旅人』の憂愁(ゆうしゅう)を、読む人々に一層しみじみと味仕立てているからだと言える。
帥(そち)大伴卿(おほとものまへつきみ)の歌「我が行きは 久(ひさし)にはあらじ 夢(いめ)のわだ 瀬にはならずて 淵(ふち)にありこそ」(335)

鑑賞⇒「わたしの筑紫(大宰府)の赴任(ふにん)暮らしも、もうそんなに長くはないだろう。明日香で生まれ育ち、こよなく愛していた懐(なつ)かしい我が故郷(ふるさと)・吉野の「※夢のわだ」よ、浅瀬になどならず、淵のままでいてくれよ。」という意味で、60代の旅人が、「※大宰府の長官として都から九州に赴任している」時に、吉野のことを懐かしんで詠んだ歌だ。ふたたび都(奈良)に帰ることがてきる日が、そう遠くはないということを期待していて、雰囲気(ふんいき)を多少明るくしているが、現実には巻十七の巻首(かんしゅ=3890)に「天平2年(730年)庚午(かのえうま)冬十一月、大宰帥大伴卿、大納言に任(まけ)られ(帥を兼ぬること旧の如し)京に上りし時」とあるように、旅人は待望の帰郷をはたしている。ただし旅人は、大宰府在任中に「貴方(あなた)の行く場所ならどこへなりともご一緒します」と、九州まで着いてきてくれた最愛の妻『大伴郎女(おおとものいらつめ)』を赴任直後に亡くした。旅人にとって長年連れ添った妻はこころの支えであったから、こころの底に大きな穴があいて自失呆然となっただろう。旅人は妻の死を深く悲しみ、悲傷の旅を重ね、2年半後に大宰府での任期を終え、都に帰り着いたのだった。なお翌731年7月25日に旅人は67歳で、この世を去っている。旅人は亡くなる前に懐かしんでいた吉野の「夢のわだ」を再び見ることができたのだろうか。

※大宰府:『※白村江(はくすきのえ)の戦い』での敗戦を受け、唐(とう)・新羅(しらぎ)による日本侵攻を怖(おそ)れた『天智天皇』は防衛網の再構築および強化に着手した。百済帰化人の協力の下(もと)、水城(みずき)を築き、防衛基地として造られたのが北部九州の大宰府である。また、北部九州沿岸には防人(さきもり)を配備した。なお、詳しくは次の機会に説明する。(※白村江の戦い:天智天皇2年(663年)白村江での、唐(とう)・新羅(しらぎ)軍に攻略された百済(くだら)の救援と復興を目指し軍を進めた日本・ 百済遺民(いみん)の連合軍と唐・ 新羅連合軍との戦いで、大敗し、百済は完全に滅亡した。このため 日本は朝鮮半島進出を断念した。)

※大宰師:「大宰府の長官」の呼び名、※従三位(じゅさんみ)相当官、『※大納言(だいなごん)』に次ぐ

地位の令下(りょうげ)の官で『※中納言』になる。(※大納言:律令制で、太政官 [だいじょうかん)]の次官。大臣に次ぐ官で、正三位(しょうさんみ)相当。大臣とともに政務に参与し、大臣不参のときは代行した。)

※夢のわだ:場所は奈良県の「宮滝(みやたき)遺跡」近くにある柴橋(しばはし)のすぐ下流。柴橋のすぐ下流で、小川が吉野川に注ぐところを「夢の和田、夢が淵、或いは観浄(かんじょう)、夢が淵。」と呼んでいる。「万葉注釈」には「和田は水の淀(よど)める淵なり」とあり、多くの「万葉人」がこの淵を歌に詠んでいる。

※「大伴旅人の大宰府長官赴任の理由」については諸説あるが、「この人事は、当時勢いを増していた藤原氏の策略だった」と、僕は考えている。大伴旅人は藤原氏との権力争いに敗れ、確かに地方に左遷されたのだ。「大宰府の長官」は要職だとはいえ、都から遠く離れた九州に異動させられたのだから『左遷』であることは揺るぎない事実である。なお、「藤原氏が大伴旅人を大宰府へ左遷するようになった理由」については、『大宰府』の解説とともに次の機会にお話します。

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『藤の花』を詠んだ「松尾芭蕉」の俳句

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「草臥(くたび)れて 宿借(やどか)る頃や 藤(ふぢ)の花」

読み:くたびれて やどかるころや ふじのはな
季語:藤の花
詠年月日:貞享(じょうきょう)5年(1688年)4月11日ごろ 

詠んだ所:大和国(やまとのくに=奈良県)の八木

出典:※笈(おい)の小文 (こぶみ)

鑑賞⇒大和(やまと=奈良)を旅していて、長い一日、歩き疲れ、くたびれてきて、とぼとぼと重い足を引きずっている。宿が慕(した)わしく思われる疲労感、一日の旅の疲れをしみじみ感じるとともに、「よくも歩いてきたものだ。今日も無事にやってきた。」といったような充足感や達成感もにじんでいる。旅情あふれる句だ。

ようやく旅籠(はたご=旅館⇒現在の天理市のあたり)に辿(たど)り着こうという時、ふと見ると、いつの間にか黄昏(たそがれ)、晩春の暮れた夕暮れ、夕映えの中で、淡(あわ)い紫の『藤の花』がだらりと垂れ下がって、見事のあでやかに咲き誇(ほこ)っていた。「くたびれた」と言いつつ、作者の視線は見事な藤の花に惹(ひ)きつけられ、藤の花のみごとしかさ、美しさを感じる生き生きとした心の働きが句となったのだろう。 
今日の旅程に疲れきった芭蕉の気だるい気分と、だらりと覚束(おぼつか)なく垂れ下がった『藤の花』の感じとがとけあっている。また、この藤の花は気だるい旅の心の表れで、そこはかとない旅愁と春愁を誘う。 したがって芭蕉のほっと安らぐ心の表れだとも言えるのではないだろうか。気取りすぎず、率直な気持ちが伝わってくる。何となく寂しい気持ちを詠んだ句だ。
ちなみに、松尾芭蕉の門人・服部土芳(はっとりどほう)の著書に、師である芭蕉の句や門人の句への評価をまとめた『三冊子(さんぞうし)』というものがある。芭蕉の句の推敲の過程が分かるものもあり、実に興味深い資料だ。『三冊子』によると、この句は『ほととぎす  宿借るころや 藤の花』という句が原案だったとある。この句の初案上五は「ほととぎす」だったのだ。旧暦4月11日ごろの作と思われる。「ほととぎす」が季語となるから「夏の句」であるが、「草臥れて」にして「晩春」の句に改作し、『笈の小文』の「春の部」に挿入したのだ。

最後に『日本大歳時記』(講談社)には「『くたびれて 宿かる頃や 藤の花』は、藤の花の本意を良く捉(とら)えているといえよう。」とある。

※笈の小文:松尾芭蕉が貞享4年(1687年)の10月に江戸を出て、尾張(愛知県)・伊賀(三重県)・伊勢(三重県)・大和(奈良県)・紀伊(和歌山県)をまわり、須磨(すま)や明石(あかし)(どちらも兵庫県)を旅したときの俳諧、記録をまとめた書のこと。 
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『藤の花』を詠んだ「正岡子規」の短歌

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「瓶(かめ)にさす 藤の花房(はなぶさ) 短ければ 畳(たたみ)の上に 届かざりけり」
鑑賞⇒子規はこのころ病状がひどく進み、ほとんど寝たきりの状態でした。そのような状態で机の上の花瓶(かびん)に挿(さ)した藤の花を下から見上げるように見て詠んだ歌です。花瓶に挿した藤の花は今を盛りの美しさだが、その垂れ下がっている藤の花房が短いので、あと少しの所で畳の上に届かないのです。「自分の病気もいっこうに良くならない」というもどかしさともとれます。垂れ下がっている藤の花房を室内で見上げるような
ことは、作者・子規のように仰向(あおむ)けに寝ていないかぎりないでしょう。つまり、病床にあった子規だからこそ見いだせた視点だったのです。

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『藤の花』を詠ん拙句(せっく)

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藤だなや
花かんざしの
フラダンス
風にあわせて
踊りけり
(「おもと・としや=万年 青年也」2010年5月13日詠める)