だいぶ間が開いてしまったが、日本文化が礼儀正しい文化である由縁の続きについて話してみたい。

 

 前回、前々回と、日本人がよく外国人などから指摘される「日本的丁寧さ、礼儀正しさ」というものの根源が、半島や大陸を経由して入った儒教の影響によるものではなく、日本古来の神道の精神にこそある、という話の流れをしてきた。儒教とは、長幼の序を押し付ける教えであるためにいわゆる「縦の関係」を基礎とした礼儀正しさを無理やり押し付けるものである、というのが、筆者の分析である。それゆえ、肩書きが外れた途端に、凄惨な復讐が始まるのは、歴代の南朝鮮の大統領を見ればはっきりと見て取れる話である。親孝行を美徳するとする儒教文化の南朝鮮で、親を見捨てるケースが後をたたないのも、儒教文化を基礎とした長幼の序がいかに胡散臭いものかを端的に観察させてくれる。

 

 神道とは何か、という質問に対して正確に答えられる人はいないと思う。というのも、その原因としては、神道が、キリスト教やらイスラム教、あるいはユダヤ教といった他の宗教とは根本的性質が違うことの一つに、教義というものがないというところがある。

 

 例えば、全国に広がる白山神社は、加賀国(石川県)の白山比咩神社を本宮とするが、そこに祀られる菊理媛神については、日本書紀の一書(第十)に少しだけ触れられているに過ぎない。つまり、その神様を崇めるための具体的な説明や理屈などはほとんどなく、「昔からこう伝えられてきた」という非常に少ない説明だけを根拠として、日本人は古来、菊理媛神をお祀りしてきた訳である。このことはもちろん、他の八百万の神々についても言えることである。

 

 キリスト教やイスラム教、あるいは宗教ではない儒教なども、もうこれでもかというほどの具体性を持って大量に説明する。儒教では、その上で、長幼の序は大切だと「理解」して実践するが、所詮頭の中だけの話なので、儒教の長幼の序などは、いざとなれば簡単に踏みにじられる。長幼の序は、自分の利益に都合が良い時だけ、利用されるものであるという見方ができる。

 

 一方で、日本の神道は、具体的な説明はほとんどないにも関わらず、長きに渡り人々に尊重されてきた。神社に行ってするべきことは、ただただ、感謝をすることのみというのも、他の宗教には見られない極めて稀有な特徴である。救ってくれとも、助けてくれとも、金をくれとも頼まず(もちろん、そういうことを勝手に願う人はいるが、それはそもそもの神社でのお参りの仕方とは乖離している)、ただただ、「生かされていること」に感謝をするのみである。そして、大いなる力に、深々と頭を下げる(もちろん、神社で頭を下げない日本人もいるが、それは単に無知なだけである)。

 

 自然を畏れ、神を畏れ、自然を敬い、神を敬う。ただただ、生かされていることに感謝をする。この精神は、頭で理解するだけの一過性のものではない。ふつふつと心底から沸き起こる湧き水のようなものである。実は、日本人が互いに頭を下げるのは、この神道における大いなるものへの畏敬からきているものであるというのが、筆者の分析の根幹である。

 

 儒教に相当侵されてはいるものの、日本では老若男女を問わず、互いに対等に頭を下げる瞬間があるが、それはまさに、八百万の神々の前においては我々皆対等であるという、深層での理解があるからに他ならない。これこそが、縦の関係と対局をなす、「横の関係」である。

 

 もちろん、科学的に証明することのできない話なので、気に入らない方は無視していただきたい。

 

 江戸末期、日本を旅した外国人たちが一様に書き残しているのは、この国の民の明るさである。江戸時代は身分制度で苦しんだ暗黒時代というのは、戦後民主主義左翼の学者が洗脳した嘘に過ぎない。実際は、これほどの極楽浄土があろうかと西欧人が驚いたほど、人々が明るく朗らかに笑う国だったのである。家族は、一番小さな子供を中心に周り、その子の視点をもって家族の呼び名が変わる。小さな子から見てお母さんなら、旦那も「お母さん」、そのお母さんの父親も、娘に対して「お母さん」と呼ぶ。もちろん毎回ではないにせよ、その子の視点を中心にしての会話が繰り広げられるのは、日本独自の文化である。年長者だけを異常に敬えと、若い者に奴隷的忍耐を強要する儒教文化に、こんな情景は存在しない。

 

 年長者は年若いものを敬い、年若いものは年長者を敬う。そこに差などは無く、あくまでも平面におけるものであったし、今も実はそうである。表明的に儒教で覆われても、いざとなれば、若者が実権を握って回転をなした明治維新のようなことが起こるのも、なんの意味もない長幼の序が実は文化の根幹となっていなかったことの証である。牢固として長幼の序で固められた支那や朝鮮では、これは絶対にありえなかった話であることは以前も触れた。

 

 天皇という絶対的な権威が伝統としてどっしりとしている日本においては、儒教のような身分制度は必要なかったという見方もできる。そしてその天皇こそが、神道を司る最たる御存在であることも見逃すことはできない。ただただ、民のために祈られるご存在、天皇陛下。

 

 八百万の神々に畏敬を持って接する精神が、日本人が互いに礼儀正しいことの理由なのである。生かされているということへの感謝を根本精神としている民が、他者に対して傲岸になれるわけがない。無論、儒教精神に侵食されている人は、そうではないが。

 

 今回の話はある程度筆者の主観的な見解が入っているので、納得できない方は無視していただきたい。

 

 外来という意味では仏教も日本精神に大きく影響しているが、その話はまたいつか。

 

 今回もお読みいただき、ありがとうございます。

 

 

 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。

 

 主観と客観

 客観についての補足

 外国人には思い遣りがガチでないという事実

 優しさ(主観的)と思いやり(客観的)

 二種類の「正しさ」

 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識

 

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