言葉狩りとヘイトスピーチ

テーマ:

 昨今、ヘイトスピーチが話題である。それは当然のことで、南朝鮮(韓国)やシナ(CHINA:CHI シ NA ナ)における日本人に対する憎悪の限りの民族、人種差別的発言のオンパレードを聞けば、「ヘイトスピーチは忌むべきもの」という認識が生まれるのは当たり前のことである。

 

 南朝鮮(韓国)では、日本人のことを「倭野郎」という意味の「ウェノム」、あるいは「豚の足」という意味の「チョッパリ」という言葉で呼んだりする。これこそがまさしく「ヘイトスピーチ」であり、人種差別発言である。ちなみに在日の南北の朝鮮人は彼らの本国に帰ると「半チョッパリ」と呼ばれる。「半分はクソの日本人野郎」という意味である。いやはや、身の毛も凍るほどの人種差別ぶりのヘイトスピーチである。

 

 もう一方のチャイナ(シナ)においては、日本人を、「日本鬼子 (ジーベンクゥイズ)」と呼んだりする。あるいは「小日本(シャオジーベン)」という言葉もよく使われるし、筆者自身も何度か直に外国生活で聞いたことがる。まことにもって聞いていて不愉快極まりない「人種差別」ぶりである。

 

 こういう言葉を聞けば、「なるほど、人種差別のヘイトスピーチは嫌なものである」という認識が生まれるのも、当然のことである。是非とも日本の人権活動家を自称する人たちには、隣国の人々に対して強く抗議をしていただきたいものである。

 

 際立ってわかりやすいのは、シナ(チャイナ)やコリア(朝鮮)では、「日本人」という言葉ではなく、日本人を指す別の「差別用語」が存在しているという事実である。これは特筆すべきことで、日本人でチャイナやコリアを嫌う人たちは、だいたいにおいて、「朝鮮人」「韓国人」「中国人」「シナ人」という言葉をつかうが、これらは全て、単なる学術用語であったり正式呼称であり、朝鮮やチャイナの人々が使う先ほどの言葉は明らかに侮辱するために作られた差別用語であることを考えれば、彼我の格差は歴然としていることがわかる。

 

 筆者が危惧するのは、日本においてヘイトスピーチが問題になる時に、この「シナ(支那)」「朝鮮(KOREA)」という言葉が、言語学的にも文化人類学的にも、また歴史学的にも正式の、一切の侮蔑的あるいは差別的意味を持たない言葉であるこれらの言葉が、「差別語」と勝手に認定されて、「言葉狩り」の対象とされることである。

 

 言語学的に、「朝鮮語」は正式名称である。民族学的に「朝鮮民族」もまた正式名称である。最近になって「韓国語」や「韓民族」という呼び方を始めただけの話である。それを正式のものとするのは彼らの自由である。しかしだからと言って、「朝」に「鮮やか」というなんの差別的意味もなさない、かつ、彼ら自身で歴史的、伝統的に名乗り続けていた名前を使うことが「人種差別」とか「ヘイトスピーチ」と言われるのは、むちゃくちゃな話である。「支那」という言葉も同様で、これは英語の「CHINA」、フランス語の「CHINE」、ドイツ語の「CHINA」に対応している言葉であり、漢字を当てれば「支那」、日本語のもつ表音文字を当てれば「シナ」となるだけの話である。

 

 アメリカ人もイギリス人もフランス人もドイツ人も使っていい言葉を日本人だけは使ってはならないとするのは、完全なる「人種差別」である。これこそがヘイトスピーチであろう。

 

 このむちゃくちゃな論理が通るならば、「日本人」という言い方も人によっては差別的ということになり、使えなくなってしまう。「大和民族」という言葉もまた差別語となる。「イギリス」も「フランス」も「ドイツ」も全て、「差別だ!」といえば差別語になるというむちゃくちゃな話である。

 

 こういう言葉狩りが、ヘイトスピーチ撲滅の美名のもと行われることは、全体主義的傾向であって言論の自由を脅かす恐ろしい行為であることを指摘しておきたい。

 

 ひるがえって日本では、「朝鮮人死ね」などというヘイトスピーチが問題となる。これは当然で、問題である。しかし、「朝鮮人」という言葉自体にはなんの差別的意味もなく、「日本人」という言葉と同じレベルである。問題は「死ね」という言葉である。

 

 森永卓郎や、やくみつるのように、「日本人は敵から攻められたら黙って殺されればいい」と発言することは、先日の虎ノ門ニュースで上念司氏が指摘した通りの「日本人に対するヘイトスピーチ」であることも、是非、取締りの対象としていただきたいと願うばかりである。

 

 今回もお読みいただき、ありがとうございます。

 

 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。

 

 主観と客観

 客観についての補足

 外国人には思い遣りがガチでないという事実

 優しさ(主観的)と思いやり(客観的)

 二種類の「正しさ」

 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識

 


国際政治・外交 ブログランキングへ

 

AD