もちろん全ての人が言っているわけではないが、昔から言われていることに、「左翼系の政党や言論人は卑怯だ」というものがある。その理由は、憲法9条を守れというのだが、「もし敵が攻め込んできたらどうするのだ」という質問には一切答えず逃げ続けているためだ。

 

 森永卓郎のように、「殺されちゃえばいいじゃないか」というと次の選挙でやばいと思うのか、それはさすがに言わない。しかし、これは実に不思議な話である。

 

 憲法9条を守り続ける限り、いかなる交戦権も認めないわけであるからどんな状況下においても全ての正当防衛が違憲となる。つまり、現行憲法下では、字のごとく従えば、何があっても殺されなければならない。

 

 筆者常にいうように、全ての政治的見解は意見であり主観であるので、全てが許容されるべきであると考えている。そうしなければ多様な意見が許容されず、いわゆるファシズムの世界になってしまうからである。言論統制を行うシナや南北朝鮮のような状況になる。意見は意見である限りどんなものもその表現が許容されなければならない。それゆえ、「憲法9条を死守しろ」という意見も、筆者は到底受け入れることはできないながらも、「そういう意見もありうる」という立場だけは維持してきた。そうしなければ互いに互いを尊重し合う多様性の社会は実現しないからである。

 

 しかし、これも常に言うように、一方で「客観的事実を否定することはできない」と言う原則もある。つまり、

 

 1. 全て意見は主観であり、主観は個人に属するゆえに存在することは許容される。

 2. 客観的事実は万人に属するものであり、これは意見に左右されず公平に観察される。

 

この二つの原則が両立するわけである。

 

 この視点からすると、現在の左翼諸君は非常に曖昧かついい加減であるとの誹りを免れない。いや、「卑怯」と言われても仕方ないのである。何故ならば、

 

 憲法9条を守ることで敵国から攻められても防御することができない。したがって敵が攻めきたら領土も黙って奪い取られ、国民も黙って殺されなければならない。とにかく話し合いを要求し、それが通らなければ、強姦されても殺されても盗まれても一切何も抵抗しない。これこそが憲法9条を死守することの真価である。国民の生命も財産も領土も全て奪い去られ殺し尽くされても、憲法9条だけは断固として死守するのだ!全ての国民が死に絶えて、領土が全て奪い取られても、憲法9条だけは断固として守りきるのだ!

 

 このように言うことこそ、正々堂々たる左翼諸君の態度ではなかろうか。憲法9条を守ると言うことは実にこう言うことに他ならないのである。その部分を全てうやむやにごまかして憲法9条を守れと怒鳴り続けるのは、いささか卑怯であると思われても致し方ないことである。

 

 筆者は何度も言うように、いかなる意見も、賛成できなくてもその存在を認める。そうしなければ、民主主義とは言えないからだ。それだけは守るべき原則なのである。だからこそ、己の意見を言うときは、全てを明確に明晰にして、堂々と主張するべきだと考えている。森友や加計の問題で嘘をわかった上で薄汚く追求していることこそ、誠実さを欠く行為であり、また、憲法9条を守ることの結末を隠すのも、実に卑怯極まりない行為であろう。自分の意見に自信があるのなら、正々堂々と上記の主張をするべきなのである。

 

 それでも投票してくれる人がいるなら、彼らも当選するであろうし、騙してすかして当選するよりも、よほど選良としての素質にかなうと思うのは筆者だけであろうか。

 

 ちなみに蛇足ではあるが、「卑怯」は大陸半島の儒教文化の特質であり、「正々堂々」は大和魂の特質である。この両者は明確に別れる。

 

 今回もお読みいただき、ありがとうございます。

 

 初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。

 

 主観と客観

 客観についての補足

 外国人には思い遣りがガチでないという事実

 優しさ(主観的)と思いやり(客観的)

 二種類の「正しさ」

 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識

 


国際政治・外交 ブログランキングへ

 

AD