福岡県立田川工業(現・福岡県立田川科学技術)出身。専修大学に進学し、東都リーグに所属。

1959年・春の大会では、6戦無敗の成績を収め、MVPを獲得。以後、日本大学選抜チームの常連となりますが、3年時の1959年(昭和34年)、突然の退学し、毎日オリオンズに入団となりました。

親会社が「毎日」→「東京」→「ロッテ」と変わる中、毎年エース級のピッチングを披露。

180cmの長身を生かした、変則的なアンダースロー投手として活躍しました。

通算成績は166勝(186敗)と、日本野球史でも上位にあたる数字を残しながら、どこか不運が重なったイメージを感じるのは何故なのか?

 

=エピソード=

①・・1964年(昭和39年)、シーズン「303.0」イニングを投げ、25勝 防御率2・50 の好成績を収めたが、阪神から移籍してきた小山正明が30勝を達成した為、初タイトルを逃してしまった。

②・・1962年(昭和37年)~1968年(昭和43年)にかけ、7年連続で二桁勝利を行うが、優勝どころかAクラスに1回のみとチームが低迷。

③・・7連連続二桁勝利を挙げながら、打線の援護なく、5度も負け越し。勝ち星を伸ばす事ができず、成績(内容)に見合った評価に至らなかった。(負け越してはいるが、防御率は2点台。一番悪い年でも3.04)

④・・1967年(昭和42年)4月15日 西鉄ライオンズ戦では8回終了でノーヒット・ノーラン。9回に安打を許し、大記録を逃す。

⑤・・同じく1967年(昭和42年)4月25日 東映フライヤーズ戦では9回を投げぬきノーヒット・ノーランを達成するも、打線の援護なく10回に2点を取られて敗戦投手に。

⑥・・毎年数字は残すのだが、同一球団に所属する事無く、「大毎」「東京」「ロッテ」「大洋」「日本ハム」に移籍。

⑦・・1971年(昭和46年)1月、暴力団との黒い交際の疑惑を受け、鈴木隆コーチとともに球団より無期限謹慎処分を受けてしまう。処分解除後は8連勝をする活躍。初タイトルとなる最高勝率を獲得するが、「黒い霧事件」の疑惑者として霞んでしまった。

 

1972年 (昭和47年)の大洋時代、38試合に登板。

31先発 10完投 3完封 214イニング 15勝 11敗 防御率3.01 の好成績を挙げますが、その後は一桁勝利と低迷。1976年(昭和51年)、日本ハムにトレード移籍。(相手は渡辺秀武)

2勝で終わり、同年をもって引退。以後、プロ野球界とは絶縁されているようです。

 

=通算成績=

166勝 186敗 1セーブ 防御率3.26

最高勝率1回 オールスター出場3回