昭和40年代前半の電話事情 | TAKのブログ

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主として60・70年代のサブカルチャー備忘録、いけばななど…

1.昭和40年少し前の電話事情
 昭和40年少し前頃、ワタシの実家がある地区では、自宅に電電公社の債権を持って、黒電話を引いている家は、商家か名士の家くらいしかなかった※①。電話が必用な場合は、その家に行って、頼んで貸してもらうのでした。また電話がかかってきた場合は、その家の好意で、呼びに来てくれたものです。もちろん公衆電話なんて、街に出なければありません。嗚呼、昭和の地域互助風景。
 
2.「農集」という電話回線
 ところで当時の物価に比べてバカ高い債権を買わなくとも電話が引けるという、社会経済的「互助組織」がありました。「地域団体加入電話」のひとつ、「農村団体電話」―「農集」です。社会的・経済的に結びつきが強い組合の組合員に限り加入できるもので、複数加入者(最大10)でひとつの回線を共有するというシステムでした。これは農林漁村で「有線放送電話」の拡大に、電電公社が対抗したシステムでした。農集のお宅は、電話番号帳には、その番号の前に(集)―丸囲みの中に「集」―が入っていました。
 ただ農集は、同じ回線の、どこかのご家庭が話し中の会話を、受話器越しに聞くことができるという、プライバシーもへったくれもないというものでした。
 受話器を上げて話そうとすると、誰かが通話中。「おい、オレ今から電話かけんねや。おまんとこ早う切れぇ」と、ある友人宅でそこの「父ちゃん」が受話器に向かって腹立てていた光景を見たことがあります。
 
3.有線という電話機能・放送装置
 ワタシの家は、農家ではないので農集には入らず、町内で「有線放送電話」が敷設された(確か昭和41年)と同時に、加入しました。朝6時、昼12時、夕方6時、夜9時と、一日4回町内ニュースや天気予報などの放送が、スピーカーから流れ出し、その時間15分間は通話が不可能となる電話でした。そんな定時放送は通常は邪魔なのですが、台風(昔の台風かコワかった。特にワタシの家の目の前が海で、暴風と堤防が決壊する恐れと、ほとんど必ずやってくる「停電」が特にコワい)の時には、何度も放送が入るので、この時ばかりはなんと心強いと思ったものでした。
 なお早く有線放送電話が敷設された地区では、電話機と放送受信用のスピーカーシステムとがセパレートになっているところがあったようですが、わが街では普通のダイヤル式黒電話で、電話機の底にスピーカーが埋め込まれていたものでした。
 
4.ハンドル式黒電話のかけ方
 時代は昭和40年少し前当時に戻ります。
 ワタシたち町営住宅入居者は、近くのうどん製麺所(以下うどん屋さん)で電話を借りていました。このうどん屋さんの電話は、「ハンドル式黒電話」(磁石式黒電話)でした。いわゆる「交換手」が電話を「かけた者」と「かけられた者」を、手動で線をつなぐものです。受話器をとって、ハンドルを右回しにグルグルと5回ほど回すと、「交換です」と女性の声がする。そこで通話したい相手の番号を言うと、市内ならつなげてくれる。市外なら交換がその土地の交換につないでくれて、、そちらの交換に番号を告げるという利用方法だった。
 公衆電話からハンドル式電話へのかけ方については下記 IZ君の話でもう少し補足します。
 
 
5.ハンドル式黒電話を駆逐したダイヤル式黒電話
 このハンドル式黒電話は、昭和40年代に入って急速に姿を消し、ダイヤル式黒電話全盛期となったのでした。昭和44年には、我が家にも電電公社の黒電話がやってきて、玄関の電話代の上に、「レースの座布団と上掛け」という厚遇で迎えられました。
 しばらくの間電電公社の電話機と有線とが並列して置いてあったのですが、やがて有線を使うご家庭が極端に減り、我が家も昭和45年には解約をしていました。
 
 
 
6.高専での電話事情
 時は昭和51年。ワタシは高専に入学。学校からいかに近距離に自宅があっても、1・2年生は学生寮に強制入寮という学則があり、第4寮に入寮しました。かかってくる電話は、部活(体育会に強制入部。ただし吹奏楽部は体育会扱い)終了後から自習時間前まで、そして自習時間終了から消灯時間までは当番がいて、放送で電話がかかってきた当人を呼び出すことになっていました。
 一方電話をかけたい場合は、自習時間終了後9:30から消灯前の10:00の間のみ、高学年(4・5年生)が入る第1寮の寮母室まで出かけ、「赤電話」(公衆電話)の前に一列に並んでその順番を待つのでした。通話時間制限があり、確か一人3分だったと記憶します。
 
 

7.この時代に、それかい! IZ君
 ある日のこと。ワタシの前に並んでいた IZ君は、自分の番になると、「ちょっと待って」とワタシに言い、寮母さんを呼びに行った。寮母さんはカギを持ってきて、電話機の後ろに挿して回す。すると彼は「8桁」の市外局番をダイヤルし、「167番」と声にする。しばらくして彼は話し始めた。そう、電話番号を聞いた交換手が手動でつないでいるのでした。

 市内局番が2桁なら市外局番は4桁、1桁なら5桁。市内局番がない場合は6桁が市外局番となる。7桁・8桁は、電話加入世帯数で決定される。最も加入者が少ない地区の市外局番が8桁となる。
 バスも通っていない山奥から出てきていた彼。自宅に電話していた様子。これ、昭和51(1976)年の話。中学時代まで父の林業を手伝ってきたとあって、風呂に入った彼の姿を見ると、「つくられた肉体」ではなく、「野生の肉体」と言うのがふさわしいほどの、凄みがある肉体美で、皆がはやし立てたりうらやんだりしていたことを思い出します。
 
 
8.追記
 先のうどん屋さんには娘さんがいて、ピアノを教えていた。高度成長の最初のピークを迎える昭和42・3年頃になると、少しばかり余裕ができたお宅は、「電気オルガン」(小学校にあった足踏み式ではない)を買い、自分たちの娘をこの娘さんのところへ習わせに行かせたものでした。我が家も母が起業し、妹をレッスンに通わせられるようになっていました。
 ただ、時代の流れか、このうどん屋さんは昭和45年頃になると事業を縮小し、昭和47年だったと思いますが、製麺所をたたみ、どこかへ行ってしまいました。その広い跡地に今は、何軒かの戸建てと、ワンルームマンションが建っている。
 
 
9.註―電電公社債権について
※①:「電電公社」は国が経営する企業で、債権は、「電話を引く権利のために必要な出資金」で、10万円程度でそれをを購入しなければ、電話を敷設できない。電電公社の電話をやめるときに、その時点での債権の価値を算出して返金がなされるもの。高卒サラリーマンの給料が(全国平均で)2万6・7千円程度の頃、当時まだ家庭に必要かどうかわからない電話に、使用料以外にバカ高い初期投資が理にかなっているかどうか。いわゆる「贅沢品」を購入するためのメリットがあるかどうか。親世代は悩んだことでしょう。
 
10.付記
 しかし昭和39年の東京オリンピック終了後、GNP成長率は毎年二桁を記録し、家計はみるみる成長していきました。昭和43(1968)年、資本主義諸国でGNP第二位となった頃には、10万円の債権は、多くの人が購入できるという社会経済が出来上がっていました。
 
 そして、好きな女子のところへ電話をする男子が、お父さんが出た時の言葉遣いと心構え、長電話しているとき、隣で母親が無言でプレッシャーをかけるなど、電話を取り巻く昭和の青少年たちの、それぞれの恋愛ストーリーが生まれたのでした。
 
 下は東京・高円寺の骨董品屋で求めたのと同じ形の、昭和30年代の黒電話。ダイヤルが金属製。独身時代から結婚して数年間(回線をデジタルに切り替えるまで)現役で使っていました。その後は書斎の「飾り」にしてあったのですが、本に居場所を奪われ、現在は息子の部屋の押し入れに保存してあります。
 
※写真はすべてお借りしました