江戸の風習5-2
八十八夜は、立春を起算日(第1日目)として88日目(立春の87日後の日)。「八十八夜の別れ霜」「八十八夜の泣き霜」などといわれるように、遅霜が発生する時期である。一般に霜は八十八夜ごろまでといわれているが、「九十九夜の泣き霜」という言葉もある。この時期の魚は、栄螺『日本釈名』には、「ささ」は小さい、「え」は家にあるとのこと、つまり「小家」が転訛してサザエになったという説を挙げている。『和訓栞』には、「小さな柄のようなものを多くつけた貝の意」とある。古名は細枝家(さざえ)といい、今も方言として残っている。魚の石持が栄螺が大好物なので、石持を釣る時は、栄螺が無いとダメだという。古来、鮑とともに宮廷や伊勢神宮などで神に奉げられてきた倉沢は三保の松原も手に取るように見え、海に突き出して作られた茶屋では、海女が潜って取ってきた鮑やサザエを作らせ食べさせていた。旅人の多くは、難所・薩唾峠を前にして腹ごしらえをしたようだ。食通として知られた公家の土御門は、東海道を旅した時、土地の名産を悉く食べた。そして、その結果合格点を出したのは僅か5点のみであり、その中に、,この地のサザエがあった。「京にて聞き伝えれば油断はすまじき也。一口食うては首を傾け、二口食っては耳を欹て、三口食うては舌打ちして、サザエやサザエ、匂いといい味と云い、我年来サザエを好みて常に食すれども、いまだ、斯くの如き味知らず。5つまで食いたれども足れりとせず。時にもはや無しという。残念これに過ぎず、上りの時を期せんのみ」と、執念を見せて、帰りはもっと食べようとしています。一方、幕末のイギリス人通訳のアーネスト・サトーは、ヴィーナスの耳(鮑)と奇妙な渦巻きのある蓋を付けた大きな巻貝(栄螺)がこの地の名産だった。ここで大いに護衛の連中と一緒に呑み食べた。花なら躑躅漢音では、躑躅(ていちゃく)足踏みして歩けない状態を示す。中国で毒性のある躑躅を誤って羊が食べて、躑躅(ていちゃく)してしまったことから名付けられたという。しかし、躑躅といえば、万葉集にも登場しています。躑躅は美しい乙女を象徴する言葉としてです。「源氏物語」でも、光源氏が愛した(紫の上)が住む六条院の庭に咲く花として、桜、藤、山吹らと一緒に名前が有る。平安時代にも赤や白、紫の躑躅が彩っていたのでしょう江戸時代になると躑躅はブレークしますが、それが異質なものでした。貴族階級でない庶民の間で流行したのです。延宝5年(1677)発行の「秋の夜の友」では「世間では5月躑躅が流行している。貧しい人は鮑貝に植えてまで愛好している。5月躑躅を持たない人は人ではないような風潮まである」ここで驚くのは、躑躅を植えることが出来るような大きな鮑が出回っていたのも驚きです。現代では、超高級品となっていてとても手が出ない。躑躅の持ち味は、丈夫で生育が早く花だけではなく葉や枝ぶりにも面白味が有る事でした。大久保の躑躅育てたのは江戸城の警備を担当した鉄砲組百人隊。武士として生計が立たなくなり副職として始めた所大当たりでした。百人組の組屋敷の総面積は17万坪を超えました。ここの同心屋敷の特徴は、間口は狭いが奥行きが極端に長く他の組屋敷の面積の10倍はあったという。例えば、或る同心の家の説明では、家屋の建坪が34坪、全体が1500坪、とあり敷地が500坪あったのが判る。ここは台地に位置していて、これは江戸城防衛に役立つことから配置されたと思われる。見晴らしが良い分、灌漑が悪く、野菜では根が浅く水が不足すると枯れやすいので、却って、植物の方が適していたようである。同心の一人・飯島家は「躑躅に名高し、彼の居宅の庭、大小の躑躅2,3拾株を並べ、居宅の北後ろ一面に躑躅ならではなし。植えこみし園の幅、東西8間、南北2丁、その間皆両側躑躅のみ」ですから幅14m、南北218mの道の両側は躑躅だけなのです。「総じてこの組屋敷の面々は、躑躅の木の大小となく、300株又は5百7百あらざるをなく、成木にいたりては1丈余、各々絶倫の花のみなり」300株から700株あり、大きいのは3mの高さが有るのですから道を通るとそれは綺麗な眺めであったでしょう。霧島躑躅嘉永4年(1851)の「東都遊覧年中行事」には、「霧島躑躅、立夏の頃より開く、百人町武家の庭中多き多し」とある。躑躅の少ない家は、代わりに孟宗竹の筍を作ったり、夏の間軒下に吊るす「しのぶ」を栽培したという。2月3月頃は、伝通院の枝垂れ桜、上野の桜、隅田墨堤の桜、御殿山の桜、北沢村の牡丹園と並んで西大久保村に躑躅園あり」と紹介されている。御家人が生活が苦しくて始めた事が江戸の名物となり、裕福となったです。