そして、江戸っ子を熱狂させた「初鰹」

初物好きな江戸っ子の他人には負けたくないといった意地があった。

ねぎったら ぶちのめしそうな 初松魚

裏長屋の住民である。

右の家は常盤津の師匠の家、本人もいる。隣が囲い者(妾)である。

メタボンのブログ
各家の軒下には、卯の花が挿され、左下には甘茶で書かれた

「千早振る・・・」と書かれた虫よけの札が逆さに貼られている。

 

初鰹 力んで食って 蚊に食われ

見栄の為に蚊帳を質に入れて、初鰹を食べたが、

その代り蚊に食われた。

金持ちの食い物というより貧乏人が食べるものでした。

初鰹 銭とカラシで 二度涙

当時は、薬味は辛子でした。

 

画家の英一蝶は、5代綱吉の時代、生類憐みの令に

反したとして三宅島に11年の間、遠島に処せられた。

江戸の親友である俳句の宝井其角に送った句がある。

「初鰹 からしがなくて 目に涙」

それに応えて、其角は、

「その便り きくも涙の からし哉」

黒潮に乗った鰹の群れが来て、陸釣りでも釣れたが、

でも、辛子が無い。

鰹の切れ端を持って、流人小屋でポツンとしている

様子が判る。

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少し遠島の事に触れる

新島

  流人墓地

この島には、独特な形をした墓石がある。

島で取れる火山岩の1種で柔らかく、鋸でも切れて鉋も使える。

その為か、墓石には博打で使うサイコロの形や、

酒樽の形などが並んでいる。

云うまでもなく、酒好きな囚人や博奕が好きな囚人が希望し

造って貰ったのでしょう。

 

この島には、4代家綱の代、寛文8年(1668)から送られてきた。

170年間に1333人、赦免された者605人(内死後赦免112人含む)

島抜けを企てたもの61人、再犯で処刑された者11人。

 

年齢別で20,30代が多い。

特に29歳が多く60人である。

年長者で76才

逆に年少者では、20歳前後が11人、18歳が5人、17歳が6人、

15歳が10人(女2人含む)

無宿者が多く486人、女流人も26人居る。

 

著名な所では、斬られ与三の相棒・蝙蝠安、

後に島抜けに失敗して、島で処刑された。

  斬られ与三郎

新選組の最後の隊長である相馬主計、北海道の五稜郭に転戦、

そこで土方歳三戦死の後を継いだものである。

後に、赦免され榎本武揚(五稜郭の隊長)から、県令の打診を

受けたが、謝絶し、割腹自殺をした。

 相馬主計

それと天海僧正の高弟である羽黒山の別当である天侑法師。

羽黒山と酒井家との争いに巻き込まれたのである。

 

松のように堅いから松魚、だから鰹節があります。

又、勝男と、武士にとっては縁起の良い名前で

あったのも良かった。

 

  鰹  広重

鰹は古来、税の一つとして代用されてきました。

平城京跡の鰹木簡によると、伊豆が最も多く、次に駿河からの

貢納が多かったようである。

平安時代には、太平洋岸の10ケ国に鰹の貢納が義務づけられていた。

 

712年(和銅5年)の古事記のなかで神武天皇に鯨肉が

献上されたという記述がある。

又、1570年(永禄13年)織田信長が禁裏へ鯨を献上の記録もある。

天皇や貴族が食べていたのは、勿論、生ではなく、一旦蒸した後に

乾して固くなった「堅魚」である。生節(なまりぶし)です。

生は海辺を除いて食べる習慣はありません。

更に乾燥させると、松材の如き堅さになり、文字通り「鰹節」になる。

別名「松魚」と書くのはその為である。

「松魚にて伊勢屋七十五日病み」

伊勢屋は何かと川柳に出てきます。